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学校に行かない選択をした息子を、尊重するために自分に言い聞かせてること。

フリースクールを中心に、家庭教師や習い事を組み合わせて学んでいる息子。

彼が「学校に行きたくない」と言い出した頃。

「学校は何をする場所なのだろう」
「学校じゃないと出来ないことってなんだろう」
「学校と同じようなことが彼に合った方法で出来ないのだろうか」

と、よくよく考えた時期がある。

「学校行きたくない」への答えを見つけたくて、ちょっと焦ってもいた。
そのトンネルの出口を探したくて、私は昼も夜もそんなことを考えた。

勉強するため。
同級生や子ども同士、集団での社会性を身につけるため。
将来の就職や就業に優位になるため。

そんなことが浮かんだけれど、
それが人生の中で、本当に何よりも大切なことなのだろうか。

そして、ぼんやりとたどり着いた気がする漠然としたその答えを、
今もときどき自分に言い聞かせる。

私の中には「息子が学校に通っていないから」って浮かんでくる、将来への漠然とした不安がある。その不安がときどき大きくなったときには、何が大切なのかに立ち戻るため、その答えをイメージするようにしている。

学校だから体験できることの素晴らしさはある。
でも学校で学ぶことが全てではないはずだから。

すごく抽象的かもしれない。綺麗ごとかもしれないけれど
本当に大切なのは、息子が息子らしく幸せに成長できることだから。


彼自身を大切にして人生を選択することって、彼の人生なんだもの。
大切なことだ。彼の人生の選択を私の不安で遮ることのないようにしたい。
大人だから知っている選択肢は知らせるけれど、
子どもの選択だってりっぱな選択だ。

彼は今、こんなに幸せそうだから。

つい同級生のお母さんたちが中学受験の話をしていたら「うちの子は中学校って行くのかな?」と考えてしまったりする。それが悪いことじゃないし、中学校に行くのかという可能性、選択肢は考えることも大切だけれど。

ただ頭で考えることと、親の不安で行動することは全く別だから。

私は息子の笑顔を見ては「息子らしく幸せであること」の意味を何度も言い聞かせてる。

彼が受け入れられたと感じられる居場所がある。
その上で好奇心がむくむく出てきて、興味を広げて学んでいく。
彼はそうして生きている。

*****

彼は書字・読字に困難がある。
「板書や口頭での説明」よりも「視覚・体験型」の学びのスタイルの方が合っている。

先日、GIGAスクール構想で学校からタブレットが貸与された。

文部科学省のリーフレットには

「1人1台端末は令和の学びのスタンダード」
多様な子供たちを誰一人取り残すことなく、 子供たち一人一人に公正に個別最適化され、資質 ・ 能力を一層確実に育成できる教育ICT環境の実現へ

とある。

このGIGAスクール構想は、きっとうちの子みたいな子を取りこぼさないためのものでもあるのだと思った。教育に携わる方々の努力や想いの結晶なのだ。その愛情がありがたい。

去年、校長先生と面談した時も、先生は嬉しそうに私にこの「GIGAスクール構想」の話をされた。

ICTの利用が普及することは、学びの方法が一つ増えること。書く方法、読む方法が増えること。学び方の幅が広がり、選択できる幅が広がることは、うちの子だけではなく多くの子が学びの選択できる事になる。
それを嬉しく思った。

ただうちの場合、今回のタブレット配布が効果的なのかどうかは、まだよくわからない。これは個人的な意見だ。

彼にとってのi-padは、遊びにも学びにも使う大事なツールに見える。でもツールはツールだから、彼の場合は学びに使うにはきっかけがいる気がしてる。

先生がいて横にいて使い方を指示される場合とか。
自分で使ってみる場合は、その難易度が難しすぎず、優しすぎない課題とか。面白さがあるとか。
自らが学び方を知り、使いこなすまでには「学び方を学ぶ」プロセスが必要な気がするし、学びたい!使いたい!という気持ちも必要だ。

だから、息子が一人でそのタブレットで勉強するか?というと今の段階では正直、微妙だ。

学び方を学ぶ
学びたい!という気持ちが育まれる


それでも「ドリルは難しかったけれど、タブレットなら出来そう」と思えるきっかけになるなら、それは素晴らしい。


まだまだ学校も、タブレットで出来ることの可能性に慣れてないし、
息子も私もよくわからない。でも、一つの変化が生まれた今の教育に、これからのいろいろな可能性を想像してしまうのだ。

そして未来の教育に対して、息子がどんなことを思うようになるのか。
本当は、何かを期待しているのかもしれないな。


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