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教員目指していた人がいろいろあってエンジニアをやっている話

こんばんは、Kyonです。

wirohaさんakatsuki174さんの記事を読んで、私も触発されたので、私がエンジニアという仕事にたどり着いたお話を書きます。

たぶんめちゃくちゃ長いです。「まとめ」を読んでもらってからでも良いかもしれません。


(改めて)自己紹介

なんかもういろんなところで自己紹介をしているので、「知ってるわ!」という人はここは飛ばしちゃってください。

文章にするとくたびれるので、箇条書きで失礼します。

・平成元年生まれの現在31歳
・大阪府出身・在住
・田舎育ち
・女性
・文系
・会社員システムエンジニア
・業務アプリのシステム開発職
・Java長い、Pythonほんのチョットワカル


幼少期~小学生期(中学年まで)

■夢はいっぱい
将来の夢が毎日変わるという、典型的な飽き性っぷりを発揮していました。

覚えている限りで書くと・・・

パン屋さん/お花屋さん/指揮者/幼稚園の先生/気象予報士/漫画家/水泳の選手/モノ作る人/イルカの飼育員/作家

当時はもっとたくさんの夢を言っていた気がします。ただ、お嫁さんという夢はなかったですね。


■好きなこと
水泳は好きでしたが、気管支喘息持ちで走ったりするのは苦手で、運動神経は良い方ではなかったです。

物を作る遊びは好きで、『小学◯年生』とか『りぼん』とかの雑誌に付いてくる付録を買ってすぐ作ってしまうようなタイプでした。作り方を一切見ずに、完成図を見ながら作るという右斜め上を行く子どもでしたね。




小学生期(高学年)

■いろいろありまくり
いろいろあっていじめに遭います。よくあるやつで、仲良くしていた子に急にいじめられるというパターンです。1学年100名ぐらいの学校だったので、他のグループの友達に乗り換えたり、他のグループの子たちが守ってくれたりして、なんとか乗り越えました。

ところが、学年自体もちょっとおかしくなっており、いろいろと問題が発生し、その問題解決に振り回されたりして、授業の記憶がありません。中学受験する子たちと勉強していた記憶はあります。あれ、一体何だったんだろうか。

ここらへんで人のことをあんまり信用しなくなった気がします。




中学生期

■暗黒期スタート
その地区で1校しかない公立中学に進学します。この中学がこれまた大変で、めちゃくちゃ厳しかったです。平成の最初あたりまで男子の頭髪規定があったような学校です。5分前行動は絶対で、何か問題が起きると全校集会と連帯責任の美味しくないコンボ。

「あーまた怒られる」「めんどくさい」「眠い」とやる気は無く、毎日悶々とした3年間でした。「早く大人になりたい」と思っていたのを覚えています。かと言って、やりたいことがハッキリしていなくて、ただただ早く中学を卒業したがっていました。

2年生の時、友人とのすれ違いが発展して、なぜかサッカー部の男子からいじめられるわ、別のいじめられていたクラスメイトと話すようになったら、そっち側のいじめていたやつからもいじめられるわ、部活動の先輩から無視されたり同期たちとこじれたり、で最悪の中学生活でした。ここで、群れるタイプの男子も女子も嫌いになります。

ただ意地でも毎日学校には行っていましたね。「私は悪くない。いじめてくるやつがどうかしてる、性根ねじ曲がってる」と思っていたので(“性根ねじ曲がってる”ってどういうことやねんな)。


■先生運は良い&塾は良い
ですが、先生には恵まれていました。担任の先生や部活動の顧問はなんとかしようと動いて、守ってくださったので。本当に感謝しています。

あと、3年の時に通っていた塾が大好きでした。塾も勉強だけでなくマナーやしつけ等も厳しかったのですが、私にとっては普通に過ごせたので、とても安心できる場所でした。塾関係者全員にとても大事にしてもらったので、折れずに過ごせたと思います。塾の先生がきっかけで、学校の先生を目指すようになります。ここのくだりはコチラも参照ください。

ただあまり勉強は好きではなかったです。得意科目は国語と社会、苦手科目は数学と理科。でも、幼馴染みが「Kyonちゃん、なんだかんだで数学の先生になってそう!」と言っていて、「絶対無理!」と言っていたのですが、約10年後にまさかあんなことになるとは・・・!




高校生期

■人間関係に失敗
そんなこんなで高校3年間はほとんど男子と話していません。高校でも友人とこじれて、自分の人間関係構築の下手さにうんざりしつつも、「誰にも頼らずに生きよう」と決心します(そんなことは無理なのですが)。引き続き「早く大人になりたい」と思っていました。

数学が超絶苦手で数学アレルギー(中学生の時から患っていた)を発症していたので、文系を選択。だけど、文系科目にも得意科目はなく、ただただ毎日宿題・予習だけで精一杯。好きな科目は倫理でしたが、センター試験は使用するつもりはなく、教養として選択しており、「延命治療についてどう考えるか」とか大学の講義に近い考える授業が好きでした。


■早くも夢破れる
引き続き、将来の夢は学校の先生だったのですが、教育大学に行くには学力が足りないし、得意な科目が無いことに絶望。数学アレルギーだけでなく、勉強自体が嫌いになっていたので、一旦学校の先生という夢は諦めました(諦めはすごく早いタイプ)。

その後、明確な将来の夢が無いことに悩み始めます。特に、小学生の頃から「レスキュー隊員になる」と明確な目標を掲げている幼馴染み(上述の「数学の先生になってそう」と言った彼女)が近くにいたので尚更です。何を思ったのか、アナウンサーになると思っていた頃もあった気がします(たぶん今までいじめてきたやつを見返してやるつもりでした)。


■プログラミング?
当時、自分のホームページを持つのが流行っており、私もブログをメインコンテンツとするホームページ(当時は“ホムペ”と呼んでいた)を持っていました。パーツを組み合わせると簡単にできるサービスを使いつつ、凝ったデザインにしたくてHTMLをちまちま調べて書いていました。それ以上は何もなかったです。




高校生期(大学受験)

■大学行けないかもしれない
文系選択はしたものの、3年生の夏までは国公立大学を受験する気でいたので、数学も生物も選択授業を履修して勉強していました。でも、3年生の夏にこのままだと国公立大学だけでなく、私立大学も受からないかもしれないと判断し、私立大学にしぼります。

浪人しても良いという環境でしたが、大して勉強はしていなかったものの「もう入試の勉強はしたくない」という理由で浪人を回避する進路を考えていました。


■決めた、社会学部行きます、あと教員免許も取ります!
いろいろと悩んでいる私を見て、進路指導や担任の先生から社会学部を勧められ、さらに教員免許が取れる大学を勧められました。担任の先生曰く「どの校種・科目でもいいから、教員免許は取っておけ。いつか役に立つかもしれへんから。」とのこと。その言葉に何かを感じ取り、勧められた通りの大学を受験しました。

前期入試で全落ちし、「大学に行く意味とは?」「私が本当にしたいことは何か?」「私とは?」と自分の中の哲学者と向き合いつつ、後期入試でなんとか合格した大学へ進学しました。




大学生期(学業)

■女性は少ない学科
社会学部とあともう一つ学部があるだけの地方私立大学に進学しました。自宅からは約2時間近くかかりましたが、小規模大学でアットホームな雰囲気が私の性に合いました。社会学部系の学科にしては珍しく、男性の方が多く、同じ学科の女性は両手で十分足りて、全員友達でした。入試に数学が選択できる等、どうやら文理融合系だったようです(私は日本史と国語で受験したので知らなかった)。

高校情報科の教員免許が取れるコースにいたので、情報学関係の授業を履修しまくっており、ほとんどの講義で紅一点の状態でした。紅一点どころの騒ぎではなく、情報科の教員免許が取れるコースの同学年は私1人でした。国語科や社会科の教員免許のコースはたくさんいたので、埋もれまいと必死だったのを覚えています。国語科のコースにいた友人がいなかったら、たぶんどこかで挫折していたかも・・・。


■実は大学編入を目指していた時期も・・・
浪人回避のため後期入試で超安全策を取り、第一志望から比べると10以上も偏差値を下げたので、当初の第一志望の大学に限らず、他大学への編入を目指していた時期もありました。

まさかの理系学部への編入を目指して、生物や化学を勉強していました。自分のことながら、とてもチャレンジングで、ある意味関心します。

が、通っている大学の講義が面白くなってきたので、とりあえずここの大学を卒業しようと、大学編入計画を中止しました。この大学を出てから、考えても良いなと、社会人になってから大学行っても良いしと、我ながらとても柔軟な発想をしました。

結果的には、この選択は正しかったと思います。


■人生で一番勉強が面白い時期到来
勉強した内容としては、一般的な社会学部で勉強するようなこと(社会調査法、社会学、文化人類学、統計学とかの基礎)と、データベースやアルゴリズム、AR・VRの技術の基礎的なところです。データベースは、国が出してる統計データを取り込んで、SQL書いてみたり、簡単な統計解析したりしてました。プログラミング言語は、HTMLとかC++とかをちょこっと書きましたが、パラメータをいじるぐらいで、本質的なところはさっぱりです。

社会学部の専門科目がどれも面白くて、テストやレポートは大変でしたが、どれも私の知的好奇心をくすぐってくれるものでした。また、もう一つの学部の文化財関連の講義も、専門外で難しくも面白かったです。学外実習で正倉院の見学に行ったりしたのは良い思い出です。

ゼミも当然ながら紅一点。卒業研究論文は、文化財のデジタルアーカイブに関する研究で、3Dカメラを持って撮影しに遺跡へ出かけたり、出土品の三次元計測をしたりしていました。博物館好きだったので、研究はとても楽しかったです。この研究で、大学院進学も視野に一瞬入りましたが、具体的な研究テーマが描けず、「一回社会人なってから考えても遅くない。」と進学はやめました。

自分で言うのもなんですが、真面目に講義を受けてちょびっと優秀だったので、教授陣や事務職員さんからは気にかけてもらえて、いろいろと良い思いをさせてもらいました。おかげさまで学科内首席で卒業することができました。




大学生期(教育実習)

■教育実習に行くも・・・
有り難いことに母校の高校で実習させていただきました(母校が実習生を受け入れるのは義務ではない)。自分の高校生活は酷いものでしたが、学校自体はとても良く、先生たちにも恵まれていたんだなぁと気付きました。同じ時に実習をしていた同級生たちとも上手くいって、現役の時のあのめちゃくちゃ具合は一体何だったのかよくわかりません。

実習はとても良い経験だったのですが、教員という仕事を私がするのは違う気がし始めて、企業就職へ。




大学生期(アルバイト)

■先生と一緒に働くことができて良かった
2回生(関西では2年生のことをそう呼びます)の12月頃から、塾講師のアルバイトを開始。中学生の時にお世話になった塾です。しかも私が教員を目指すきっかけになった先生から、直接連絡をもらったのです。この先生と一緒に働くことができたのは1年もなかったのですが、今も大事な時間だったと思っています。

得意科目が何かもわからず、とりあえず担当は中学国語を希望したのですが、恩師に「中学数学ね。大丈夫、中学時代の学力知ってるから、また勉強すれば教えられるよ。得意な人が必ずしも教えるの上手いわけじゃないし。」と言われ、まさかの中学数学と国語を担当することに。後に、単発の代講で、小学校国語や高校漢文とかもやることなったり・・・。中学時代の幼馴染みの言葉が現実になろうとは(「中学期」参照のこと)。さらに、第一志望高校受験で合格者を何名も出そうとは。

就職活動に苦戦したりいろいろあって、当時の教室長(上司)から「塾の入社試験を受ける道や1年塾講師を続けて考える道等も検討してみては」と助言をもらいました。本社の会議に参加させてもらったり、教室長のお仕事の補佐をさせてもらったりして、会社で働くことを学ばせてもらいました。結局、塾に就職することはなかったのですが、電話対応や保護者対応、生徒の状況に関しての報告連絡相談等、仕事の基礎に近いものを学べてよかったなと感じます。あと、改めて私にとって良い塾だと感じました、企業理念とかが私の考えにフィットしてたなぁ。

塾講師以外にも、大学の情報処理センターで自習室管理スタッフをしたり、ゼミの指導教員が行うスクーリング講義(通信教育部の集中講義です)でTA(ティーチングアシスタント)をしたり、ちまちましたアルバイトもしました。大学生のアルバイトでよくある飲食店とか接客業の仕事をしたことないな。




大学生期(就職活動)

■メーカー志望?知財部門?公務員?
最初は、モノづくりが好きなので、なんとか関われないかと、食品メーカーや工業機械メーカー、工業製品メーカー、日用品メーカー等を受けていました。でも、文系でメーカーで応募できる職種はだいたい営業職で、迷走していました。特装車メーカーを受けた時はさすがに場違いなところに来てしまったと思いました(めちゃくちゃ良い会社で、すごく丁寧に対応してくださったので、余計に申し訳ない)。

知的財産管理技能検定を取得して知財部門に就職できないかと考えたり、公務員試験(大阪府と藤井寺市)を受験してみたりと、大変迷走していました。公務員試験は、大阪府職員の試験が変わった年で、SPIみたいな試験と論文で受験できたので、参戦しましたが不合格。後で、成績開示したみたら、結構良い線いってたので、個人的には満足です。藤井寺市は、いわゆる地方上級公務員の試験という感じで、ほぼノー勉強の私はミレニアム受験となりました。教員採用試験は未受験です、なるつもりはなかったので。

結局就活は、2010年9月~2011年9月末までの約1年間かかりました。途中に、東日本大震災が起きたり、地震の余波で就活イベントがすべて飛んでいる間に教育実習を済ませたりと、長かったけど自分では満足いく活動ができたかと思います。


■私がシステムエンジニア?
ゼミの指導教員は私の就職活動状況をとても気にしてくださっていて(同じ学科の友達から「お父さんみたい」と言われるほど)、迷走していた私にシステムエンジニアという仕事を紹介してくださりました。自分なりにも業界分析等をしてみて「いけるかもしれない・・・」と思い、システムエンジニア職を募集している会社を受けるようになりました。

システムエンジニアの選んだ消極的な理由は『どんな目的でエンジニアを目指していい』を参照してください。

積極的な理由は、ゼミでちょこっとプログラミングをしてみて面白いなと思ったためです。文系でもモノづくりができる仕事だと知って、めっちゃ良いやんと。あと、女性少ない職場が多いから、気が楽そう・・・先輩社員との座談会で会った人たちとも上手くやっていけそうな感じの人が多かったし。

教員免許持ちで就職活動するといろいろ苦労しましたが、独立系の情報サービス企業に就職しました。詳しくは『教員免許が一般企業で役立つことを証明したい』を参照してください。




社会人期

■会社勤めになりました
いろいろあって、独立系の情報サービス企業に就職しました。

具体的な会社名は出しませんが、分かる人には分かると思います。(わかったとしてもコメントに書く等はしないでくださいね、クローズドな場所で聞かれたら答えます。)

元々データエントリーで創業し、コールセンターもあるし、アウトソーシングサービスもあるし、デジタルマーケティングも手掛けているし、いろいろやっている会社です。規模は、たぶんデカイ方だと思います。従業員数は、いろいろ含めて6万人いるらしいです(公式サイトで調べた)。へー(棒読み)。

同じ部門として認識している単位で、約2000名ほどいます。拠点は、北海道から沖縄まで。あと、インドネシアとベトナムとかにもあります。仕事上関わりがないので、海外のことはよくわかりません。


■向いてない・・・
1年目の半分ぐらいを研修で過ごしました。マナー研修は塾講師経験でアドバンテージがあり、すんなり乗り越えられたものの、問題は技術研修でした。

ネットワークやらデータベースやらアルゴリズムやらプログラミング(Java)やら。完全に落ちこぼれでした。単元ごとに訪れる確認テストで何度も不合格になり、知識を叩き込んで再テストを乗り越える日々。「何がわからないのかわからない」「調べても理解できない」という状況で、早くも「向いていないんじゃないか」という言葉で頭がいっぱいでした。


■自分ができない、ということがわかる
なんとかクビにはならず、システム開発の部署に配属されました。同じ部門の同期は私入れて3名で、それぞれが別々の課に配属されました。

後で聞いた話ですが、当時の上司は「Kyonさんは“自分ができない”ということがわかっている」という点を評価してくださったそうです。謙虚とかではなく、できないこと尽くしだったわけで、「私は何もできないから」と思っていたのがプラスだったとは。


■それから客先常駐まで
新人から1年ぐらいは配属された課で「全然できないーっ!(泣)」と騒ぎながらも優しい先輩たちに囲まれて過ごしました。先輩たちをめちゃくちゃ振り回していた、ある意味で大型新人でした。

その後、客先常駐に出されました。その顧客と自社とは20年以上の付き合いがある、老舗事業所です。顧客は工事関係の会社さんで、ちょっと昔の日本の会社という感じで、女性は事務職のみで男性多数派、会社の方針絶対みたいなところでした。なので、当然「外注さんとこの女の子」みたいな扱いでした。後の方は、他の外注さんにも女性が増えたり、女性総合職さんができたりしたので、だいぶ変わりましたが。

業務内容は、顧客の基幹業務システムの保守とそれに付随する仕事でした。顧客内で改善点をピックアップされるので、それで保守計画を立てたり、法令や親会社からの指示で業務が変わった時の改修をしたりしました。あと、常駐していた顧客のチームの新規配属メンバー(顧客の社員か契約社員か)に、運用保守ができるように、最低限のプログラミング等の教育をするという仕事をしていました。

顧客は結構忙しい方たちなので、私たち事業所メンバーで保守計画を立てて、顧客のお尻を叩くこと(に進めてもらうように促すこと)もしばしば。技術的にできないことは「できません」と突っぱねて「こうしませんか?」と提案したら、顧客も了承するような関係性で、そういう意味では良い事業所でした。

顧客の教育の仕事は私が任されており、とてもやりがいを持って取り組めていました。一時期かなり変わった人(顧客の中でもお荷物気味だった?)を教育していた時は、他人から見るとかなり病んでいたようです。当時気晴らしで通っていた英会話スクールのクラスメイト(社会人のおじさまたち)に「仕事辞めても死なへんから、辞めるという選択肢もあるで」「営業事務かプリセールスエンジニアの仕事があるけど、うちの会社来るか?」と言ってくださっていました。私も、いろいろ思うところがあったので、上司と自社に戻るためのプランを練り始めていました。

結局6年半いまして、その間に自社メンバーの中で、社員も外注さんも退職があり、その度に「どうせみんな辞めてしまう」と人間不信気味に。新しい人が配属されても「どうせこの人も辞めるんだ」と思ってしまい、なかなかポジティブに接することができませんでした。気持ちが底を突き破っていた頃に来た上司に「どうせまたすぐに(上司も)変わるんでしょう。」と発言したことを今もいじられています。だって、それまでに続けて同じような理由で5~6人辞める人を見ていたら、そう思ったりもするでしょ・・・。


■最近のお話
そんな客先常駐から、2020年4月に自社に戻りました。ここ1年ぐらいは、開発よりは設計の仕事が多いです。最初2週間ぐらいだけ出社しており、あとはずっと在宅勤務です。少しながら在宅勤務手当がもらえたり、サテライトオフィスが順次拡大中だったりと、良い環境を与えてもらっています。

あと、人間関係は良い方の職場かなと思います。ほぼ毎朝部長と話したりするし、課長をいじったりできるし(これは良いのか?)。

ちなみに、このご時世ではレアキャラの転職経験ゼロです。社内でやってみたい仕事がまだまだあるので、しばらくは今の会社から離れることは考えていないです。


■女性エンジニアは少ない
今いる会社で、私が顔をわかっている範囲のエンジニア職の人たちは約100名いて、そのうち女性が約20名です。これは、女性はかなり多いほうだと思います。

外部セミナーとか行くと紅一点とか二点ぐらいのことはざらにありますね。

コラムを書いているエンジニアライフのコラムニストさんも、女性と明らかにわかる人たちは数名ですし。


■だからどうだ
今いる会社に限って言うと、女性だからどうのこうのっていう話はほとんど聞いたことがないです。全くゼロではないけど、改善はされているみたいですし。

女性管理職も結構いるし、産育休は男女問わず取得している話を聞きますね。

IT業界はその点で進んでいる企業が多いイメージですが、会社選びは大事だなぁと感じます。


■ロールモデルは作れば良い派
女性エンジニアの話で必ず話題に上がるのは、ロールモデルがいない問題です。

よく取り上げられるのは男性エンジニアだったり、つよつよエンジニア過ぎて参考にならなかったりして、自分にとってちょうど良いロールモデルがいないという話です。

『「今後どのようなエンジニアになりたいか?」という問いを考えてみた』でも書いたのですが、「ロールモデルは探すのではなく、作り出しちゃえばいいんじゃないか」と考えるようになりました。いないなら、Aさんの〇〇という点とBさんの△△という点を持った仮想ロールモデルCさんを自分のロールモデルとすればええやんということです。と考えるようになりました。




まとめ

いろいろ書きすぎたので、ざっくりとまとめます。キャリアと関係ないこともあるけど気にしない。

・いじめは、いじめてきた方が悪い。いじめられている側は、全く悪くない。助けてくれる人を見つけて、ヘルプを出す。
・幼少期からプログラミングを嗜んでいなくても、エンジニアにはなれる。ただし、学習で苦労するかも。
・人間関係は大事。悪いと病むし、良いと助けてもらえるし病まない。
・会社選びも大事。合う合わないがかなりあるから、よく見て選ぶべし。
・仕事辞めても(すぐには)死なないから、辞めるという選択肢があることを忘れないで。
・ロールモデルは探すのではなく作り出すっていう方法もある。

私はこんな感じで、今のシステムエンジニアという仕事にたどり着きました。誰かの参考になれば良いなと思います。

サポートありがとうございます!いただいたお金で、今までしたこと無い体験をします。ビリヤニを食べることかもしれないし、SUPをすることかもしれません。その経験をnoteに持って帰れるようにします。よろしくお願いします。