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ロシアのウクライナ軍事侵攻について 【感情と理性・戦争と平和について思うこと】

ロシアのウクライナ侵攻が始まってから早くも2週間ほどが経ちました。

人間はなぜ戦争をするのか。なぜいつまで経っても争いをやめることができないのか。ここ最近は、何をしていても常に頭の片隅で考えている自分がいます。

多くの過ちを犯し、膨大な数の尊い犠牲が払われ、その結果として「世界大戦の二の舞いを踏まない」というモットーが、ある程度は世界全体の共通認識となった現代においても、常任理事国であり核保有国でもある大国ロシアが、国際法を無視してまで隣国の侵攻に踏み切ってしまうのはなぜなのか。

ソ連崩壊後に負った大きなトラウマや、拭いきれない雪辱感、それにかつてはソ連の一部だったウクライナをNATOに引き入れられて、自由主義陣営に屈服させられるのではないかという恐怖感・プレッシャー。そんな負の感情をたくさん抱えていることも理解できます。

世界の警察として機能していたアメリカの世論がここ10年間ほどで大きく変わってきたことに加え、アメリカ軍の駐留部隊がアフガンから撤退したこともあって、思いのままに行動しやすくなってきた背景があることももちろん分かっています。

僕たちみたいに、島国に暮らしていて他国と地続きで繋がっていない環境下で生きている人間にはなかなか理解することの難しい感情・背景かもしれないけど、理解しようと努めてはいるつもりです。

僕だって、自分にとっては命と同じくらいに、あるいはそれ以上に大切だと思っている家族や身近な人たち、それに子供のように手をかけて育ててきた農園の木々に危害を加えられそうになれば、あるいは奪われそうになれば、命がけで戦うでしょう。大切な人たちや、大切にしてきた場所が忽然と消え去ってしまった世界なんて想像もしたくないし、考えるだけでも恐ろしいです。

だから、今回ロシアが下した決断を100%批判できない自分もいるけど、それでもやはり、無実の市民が巻き込まれてしまっている以上、許されざる行為であることは間違いありません。

今回の一件で僕が一番強く感じたのは、人間の感情こそが、歴史的事件を引き起こす根幹的なトリガーになっているということ。

理性は、本能的かつ突発的な激情を抑え込むことのできる人間特有の素晴らしい特性だと思いますが、あれだけ普段は理知的に振る舞っていて、イメージ操作にも並々ならぬ力を入れていて、世間一般では偉いとされている政治家でさえも、仮に長年練ってきた計画であったにせよ、土壇場で自分の感情をコントロールできず、核の使用をチラつかせるという暴挙に出てしまうことに失望の念を禁じえません。

古くから味わい続けてきた辛酸が積もりに積もって、ふとしたきっかけで爆発する。これは何もロシアだけに限った話ではなくて、人類が長い歴史の中で繰り返してきた負のスパイラルなんじゃないでしょうか。

人間の感情ほどに恐ろしく、予測のつかないものはない。だからこそ、自分自身も含め、怒りや絶望といった感情にどう向き合っていくべきなのか、今一度模索していかなければならないんだろうなとも思いました。恐らくこれからの時代は、理性を保つことの重要性を今一度見つめ直さなかればならない局面が、世界各地で訪れるのではないかと思います。

戦争地帯から遠く離れた場所に住んでいる、一市民の僕にできることなんてたかが知れているかもしれないけど、こうやって自分の考えをSNSやブログなどのツールを通して発信することはできるし、募金などを通して直接的にサポートすることもできます。

そうやってみんながお互いの価値観に触れ合ったり、情報を交換し合ったり、例え各々の力は微々たるものだったとしても戦禍にいる人々に救いの手を差し伸べたりしていけば、ちょっとずつでも、平和な方向に進んでいけるのかもしれないという淡い期待はあります。

現に、これまで戦禍に巻き込まれて亡くなった多くの人の犠牲と、過去の過ちから学んだ教訓の蓄積によって、僕たちの住む世界は、少しずつではあるものの、確実に平和な方向へとアップデートされてきました。

これはコロナ禍が始まってから強く感じたことですが、平和な国や時代に生きていると、ともすれば自分自身が歴史を傍観しているような錯覚を覚えがちですが、やはりあまねく全ての人間は、紛れもなく歴史のなかに生きているんだなと。

また、それまで当たり前のように享受してきた平和で穏やかな日々がいとも簡単に脆く崩れ去ってしまう可能性があることを強く認識すると同時に、そんな日常の尊さも身を持って体感しました。

この記事にアップロードした、冬の畑の木と空の写真を撮ったあの日のように、自然の造形物や空を見てきれいだなと感じたり、ふとした何気ない瞬間に心を動かされたりするのも、平和あってこその話。

世界が平和じゃなければ自分の心は安らがないし、その逆もまた然りだと思うんです。

だから僕は、これから世界の情勢がどのように変化していっても、可能な限り、一農家として、一人間として、まずは少なくとも周りの大切な人たちと、自分の人生に関わってくれた人たちだけでも幸せにできるように努力していきたいなと思います。

平和は当たり前に与えられるものではなく、自らの手で獲得するもの。今回の歴史的大事件を受けて、リアルタイムで大国の戦争を目の当たりにして、より一層、真の平和は自らの意思で手繰り寄せないと決して獲得できないということを痛感しました。

最後に、今まさに戦争に巻き込まれて大変な思いをしているウクライナ国民、自国のしでかしたことに動揺したり、憤慨したりしているロシア国民、戦場で戦う両国の兵士たち、さらには、戦争を始めた当事者たちと、戦争行為を肯定し支援する人々まで、ひとりひとりの心に余すことなく平穏と安らぎが訪れることを切に祈ります。

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