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真のFeminismへ

男性が権力を握り、社会を構築してきた歴史は間違いだらけだ!だから女性が正しいんだ!

こう訴える事が多いfeminismに違和感を感じていた。

そもそも「正しい」というのはどういう状態なのか?そういったモデルのデザインがない。日本の政治に於ける野党を見ている様だ。

そんな時に2019年度の東大入学祝辞で上野千鶴子が述べたfeminismの定義が痺れるほどかっこよかったのを覚えている。

曰く、「フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。」

非常に簡潔で、追求可能性があり、幅広い意思決定に応用可能な哲学ではないだろうか?

これを見て私はフェミニストを名乗る様になった。



二元論が世界を歪めてしまったり、選択肢を狭めてしまうことは認めるが、私を含めて多くの人は二元論で考える事が得意だ。

先ずアメリカ等を中心としたキリスト教で資本主義が幅を利かせている文化圏では個人の個性を尊重する個人主義を善しとする価値観が一般的である。これはミクロの視点の置き方として分かりやすくていいと思う。たとえば細胞1つ1つに個性を認めても自覚しにくいし、家族や他のグループを一括りにされる事には違和感があるだろう。

対してマクロ的にはヒトとか人間という括りが一般的である。皆んな同じヒトなんだから仲良くしようとかそういう考え方である。私はfeministとしてここに大きな問題があると考えている。

雄と雌というのは根本的な生存戦略が異なり、それ故に優位に生じる価値観や生態の違いというのは本質的に解決が不可能である様にできているからだ。

要するに男と女の違いというのは、チンパンジーとゴリラの違いといったものと同じレベルのものだから、その事実を認めてモデルを考えないといつまでもfeminismに適った平和な世の中というのは達成できないという事だ。

「根本的に違う生き物である雄と雌が、その違いを乗り越えて仲良くしなければならない」これが我々ヒトを含む有性生物が持つ宿命なのである。

先ず非常にシンプルな所で、雄と雌というのは外性器の外見が異なる。クワガタとカブトムシが別の生き物である事が一目瞭然である事と全く同じだ。更に遺伝子には染色体1つ分という膨大な量の違いがある。

そして雄と雌とでは、胚(子供)に負うリスクが違う様にデザインされている。

生殖細胞を見ても卵子は精子の百万倍の大きさである。これは私が座っているソファーと東京ドームくらいの大きさの違いだ。

更に雌は妊娠中に、胚のために自分が生きる為の栄養を振り分けなければいけなくなる。雄がゼロであるのに対して雌のそれは非常に大きなコストである。また出産後も乳をあげなければならないのでここにも膨大なコストがかかる。

コストだけではなく、妊娠、出産とその期間は平常時よりも非常に高い生命のリスクに晒されている。

加えて雌は自分の身体から子供が誕生するのでその子供が自分の子供である事を確信できるのに対して、雄はその確信が持てないデザインになっている。

この様に、子孫を残すという生きていれば避けては通れないタスクに於いて、雄と雌で置かれている状況が全く異なるのだ。性行為に対しての価値観は元より、人を見る時の判断基準や意思決定のメカニズムは違って然るべきというのがイメージできると思う。


この明らかに価値観(つまり見えてるものや感じているもの)が違う二種類の生き物を「同じ人間」などと言ってその違いから目を背け社会を構築しても、上手く行かないのは火を見るより明らかだろう。



一歩目として重要なのは、この事を社会の構成員各々が自覚をする事。

そしてその前提でもって、「絶対に100%分かりあうことは不可能な男と女が、お互いを科学し続けなければならないシステムを作ろう」という考え方で社会構築をする必要がある。



男と女とは分けて考えなければならないのだ。




これが俺のフェミニズムに於いてかなり重要なコアの部分です。

この考え方に基づいたというか、それを体現する為に行動を選択しています。

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