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「主体性」「多様性」「協働性」についての作文

<課題>
 あなたがこれまで「主体性」「多様性」「協働性」について、どのように考え、心掛けて来たかを100~500字以内で述べなさい。

 大学入学者選抜において、「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」を評価することについて、文部科学省は『高大接続システム改革会議最終報告』を踏襲。『2021年度大学入学者選抜実施要項の見直しに係る予告』において、筆記試験に加え、調査書や志願者本人が記載する資料等の積極的な活用を、各大学に求めました。これらを受けて多くの大学が、①知識・技能 ②思考力・判断力・表現力 ③主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度(主体性・多様性・協働性)という人間力の三大要素を評価する試験を実施する方向に舵を切りつつあります。言うならば、旧来のAО入試的な人物評価が、学力評価に加えられることになったのです。

 文部科学省は「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」の評価について、高校教員が受験生の成績や部活動、ボランティア活動などを詳細に記入できるように調査書を拡充。加えて、2022年度には調査書を電子化することで、調査書の大学入学者選抜へのより一層の活用を計画して来ました。また、調査書だけでなく、受験生自身が高校生活における学校の授業や行事、部活動、取得した資格・検定や留学経験、学校以外での活動成果を記録し、今後の学び・成果につなげていくための振り返りと、蓄積した学習記録データを各大学の出願に提出することを予定して来ました。

 その一方で、高校現場からは、教員の負担増や留学経験などが評価されることで、受験生の家庭の経済的状況の差が入学者選抜に影響してしまうといった懸念が表されてもいました。

 文部科学省は大学入学者選抜において、「主体性を持って多様な人々と共同して学ぶ態度」を評価することについて、調査書や受験生本人が記載する資料をどのように入試で活用し、どこまで評価していくのか、あるいは国としての支援の在り方などについて、高校と大学の双方の考えや保護者の立場からの考えなどを聞きながら検討を行うべく、2020年2月に新たな会議を設置。大学入学者選抜における主体性等の人物評価について、「大学入学者選抜における多面的な評価の在り方に関する協力者会議」で議論を重ねて来ました。

 これら文部科学省の動向に歩調を合わせる形で、長崎大学と三重大学では、「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」を、従来の面接に代えて、『ペーパー・インタビュー』と称する記述式アンケートと調査書を併用して、受験生を評価しようとしています。

 茨城大学では、高校時代に最も熱心に学びに向き合ったものを自己申告により選択した上で、その学びに関する振り返りなどについて、Web上のチェックシートに入力したものと調査書を合わせて、「主体性」を50点満点で評価する選抜を予定しています。

 福岡教育大学では、個別学力検査(二次試験)で、小論文に加え、調査書における学習成績評価を10 点、自己推薦書を10点の配点として評価します。自己推薦書には、大学のアドミッション・ポリシーと関連する高校入学以降に取り組んだ主体的な活動と、その実績についての記載を求めています。 

 東京都立大学では、調査書点を3~50点の配点として加算し、一般選抜でも合格者の判定に活用することを表明しています。

 このように概ね、国公立大では調査書等の人物評価を得点化し、合否のボーダーライン付近の受験生に対して合否判定に利用する予定の大学が多々、見られます。

 これらいくつかの国公立大学の動きに対して、私立大学では、関西学院大学が「主体性」等の評価を、大学入学共通テスト利用者に関しては、大学入学共通テストの得点に加えることを予告していますが、他の多くの大学は、作文形式での「主体性」「多様性」「協働性」に関する経験の記入・提出を出願要件にしているものの、合否判定には活用しないことを表明しています。

 しかしながら、合否のボーダーライン上に複数の受験生が並んだ場合には、これらの人物評価項目が合否を左右する決め手として活用される可能性は否定できないところでしょう。可能な限り、加点を期待し得るクオリティの文章を書き上げて出願するに越したことはないと考えられます。

 インターネット経由の出願自体、煩瑣な手間を要することに加え、500字(100字以上とはあるものの、当然、制限字数まで執筆して、努力の度合いを表明すべき)というそこそこの長さの文章を、自分の経験をベースに書くことは、受験生に大いに負担となることでしょう。どのような文章を書くべきか。関心の焦点はそこに行き着くことになります。


 


 ここからは作文・小論文の書き方についてのお話になります。

 一般に作文(「小論文」も同じ)と言えば、「起承転結」や「序本結」の構成が基本と思われています。しかし、そもそも「起承転結」や「序本結」は、単に段落の数を示した形式的常套句に過ぎません。加えて、その由来から言えば、「起承転結」は漢詩の構成法であり、散文である作文・小論文の構成法として持ち出すまでもありません。

 「起承転結」で言えば、「起」は第一段落を、「承」はそれに続く第二段落を、最後の「結」は最終第四段落を示しているに過ぎず、何ら書くべき内容について、具体的に触れ得ていません。「序本結」も同様です。肝心の書くべき内容についての指針がなければ、書くべき内容について具体的な発想が及ばず、論述のコンセプトも、方向性も定めることが叶わないのではないでしょうか。


 また、経験作文には直接、関わりがないものの、「Yes、Noをはっきりさせて書く!」などといった短絡的な態度も、作文においては間違った考え方です。「環境問題」において、自然環境を損傷する私たち人間の文化的生活を、全面的に「No」と言えるでしょうか。あるいは、誰かの死と哀しみを前提に叶えられる「臓器移植」を、一面的に否定することができるでしょうか。物事は全て功罪相半ばします。およそこの世の中で生じている数多の事象・物象が、「Yes、No」の二分的思考で割り切れるものではないのです。

 経験作文において注意すべきことは一点。まず、経験の全てを述べ伝えることは、およそ不可能であり、経験の陳述においては、出来事の最も印象的な部分に断片化し、やや誇張気味に叙述することを心掛けることです。

☆経験の他者への伝達には、象徴化(断片化、及び、美化・誇張)が必要。


 例えば、元野球部所属の現役高校生が、自身の野球経験について、論述するとします。以下のような書き方が、一般的に為されるでしょう。

 三年間、来る日も来る日も、ボールを追いかけた。ケガに見舞われたこともあった。それでも、練習は裏切らないと信じて、頑張った。仲間もできた。


 多くの人が、このように長期に渡る時間尺で経験を総括して語る(書く)傾向がありますが、それでは読み手の中に、現実の映像を喚起し得ず、感情訴求も果たし得ません。自身の経験を示す際は、その一部を、一瞬の出来事を、ストップモーションの如く象徴的に叙述することが望まれるのです。

 ここで最大限、注意しなければならないことは、経験のリアリティ(具体性)です。多くの受験生が、ありきたりな言葉で、且つ、予定調和的に、ありきたりな出来事を書いて満足していますが、平易な言葉ほど、読み手に対する感情訴求力は弱くなります。また、内容的にも一話完結的に、出来事が簡単に大円談(ハッピーエンド)に終わる優等生的ドラマでは、読み手に訴え掛ける力を有し得ません。

☆平易な言葉による表現は、読み手への感情訴求力が弱まる。リアルな用語の選定が必要。

☆大円談(ハッピーエンド)的な顛末をドラマ(経験)の締め括りに求めない。


 また、こちらの執筆例では、「頑張った」と自ら自身に肯定的評価を与えているところも問題です。基本、「頑張った」は第三者からもらう誉め言葉です。考えてみれば、ごく当たり前のことですが、作文・小論文には、書き手の知性度(頭の良し悪し)だけでなく、人柄や基本哲学、さらには感性の度合いまでもが表象してしまいます。これを踏まえた上で、経験を単純に書き連ねるだけでなく、そこに哲学的考察を加えて、経験談とその書き手としての自分の人格に、深みを持たせることが得策です。

☆作文・小論文は知性度に加え、人格(人柄)や感性の度合いまでもが表象する。

☆単に経験を書き連ねるだけでなく、そこに哲学的考察を加える。

 加えて、自己陶酔的な経験談に終わらないよう、自身の経験を社会、すなわち他者一般に絡めて、相対化する視点も重要です。社会の実情に何ら触れることなく書き連ねた経験談は、小学生が書く日記めいたひとりよがりなエッセイ・回顧録に終わってしまいます。自らを客観的に見詰める眼差しと同じレベルで、広く社会を見渡す視座を身に付けましょう。


<野球部所属の現役高校生の経験談>
 頭上を遥かに超える軌跡を描きながら、落下点をフェンス際に定めたボールを、私は懸命に追った。その時、打球の速度に負けないよう加速する私の股関節を激痛が襲う。苦痛に堪えかねて、私は転倒した。駆け寄る仲間たち。急遽、運ばれた病院で医師から告げられたのは、腸腰筋断裂という重い言葉だった。夏の惨敗のリベンジ戦としての秋季大会は、私の前から消え去った。
 三ヶ月の間、私は日々、駆け回ったグラウンドに背を向けた。ベクトルの定まらない焦燥。そして、不安。汗の染みたユニフォームは、視界の外にしまい込んだ。
             解答例作成 現代文・小論文講師  松岡拓美


 誰もが「野球」を連想せざるを得ない「フェンス」や「ボール」が、読み手の想像力を掻(か)き立てかき立てます。また、「ケガ」と、抽象化せず、具体的に症状名を「腸腰筋断裂」と示すことで、イメージがさらに具体化します。加えて、自分以外の人物については、個人名を示すことで、具体性を高め、当該人物の行動について最も端的に示す効果をもつ会話を、直接、盛り込みました。


 教科としての英語や国語(現代文)において、選択肢の正誤基準として「書いてないから×」とする倒錯と同様、作文・小論文についても、市井では目を覆うばかりの虚妄に加え、稚拙な解答例が蔓延(はびこ)っています。以下に紹介するのは、その一例です。

<主体性を持って多様な人々と協働して学んだ経験 一般予備校提供例1>
 私は高校でバスケットボール部の部長として、チーム目標であった県ベスト8を達成しました。
 前年のベスト16からこの高い目標を達成するために、私は週に1回、昼休みに部員全員での定期ミーティングを開催することに決めました。この主体的な動きが功を奏しました。ミーティングでは、普段の練習では言いづらい指摘をし合ったり、戦略をこまめに練り直したりできました。ミーティングの進行として私が重要視したことは、年次やプレーの上手さに関わらず多様な部員から意見を聞き入れることでした。多様性を保つことで、他の誰も気付かなかった決定的なアイデアが出てくるためです。
 加えて、保護者の方々との協働も必要と考え、部の保護者会の頻度を高めました。すると、練習や試合に応援に来てくださる方が増え、差し入れ等も含めて物質的にも精神的にも支えていただきました。県ベスト8に進めた試合では、驚くほど多くの保護者の方々が盛り上げてくださる中で、部員全員で意見を出し合って作り上げた戦い方が実現し、勝つことができました。今後もこの経験のように、主体性・多様性・協働性を大切にして目標を達成していきたいと考えています。


<主体性を持って多様な人々と協働して学んだ経験 一般予備校提供例2>
 私はこれまで様々な場面で主体性・多様性・協働性を大切にしてきました。
 例えば主体性については、高校2年次に文化祭での教室の装飾を担当した際、他の学校の装飾や役立つグッズをインターネットで調べ上げ、良いと思った方法を積極的に提案しました。結果、自身の提案がかなり多く取り入れられ、装飾部門で9クラス中2位を取ることができました。
 多様性に関しては、高校3年次に、あるクラスメイトが同性愛者であると私に打ち明けてくれたことがありました。初めての状況でしたが、当人からLGBTについての話をよく聞いて理解に努めたところ「今までと違って安心して登校できるようになった」と言ってもらうことができました。
 協働性については、高校2年次にイギリスから交換留学生が来て、私を含む家族4人と留学生2人で、1日都内観光をしました。他の家族では日本人側の学生が観光プランを予め決めておくことが多かったのですが、私はプランを全員で決めることも思い出の一つになると考え、留学生からも意見をもらいながら当日の朝に観光ルートを決めました。全員が興味のある場所を訪れることができ、満足度の高い観光とすることができました。



 <執筆例1>で記された、「ミーティング」における「指摘」や「意見」「アイデア」とは、どのようなものなのでしょうか。全くもって、イメージが伝わって来ません。元より「県(正式には「県大会」)ベスト8」の実績は、当該競技(バスケットボール)経験のない人にどこまで伝わり得るのでしょうか。自身、スポーツ(部活)に捧げて来た日々の意味に、実社会の中で相対的(客観的)に向き合わなければ、スポーツ経験は輝きを放ちません。


 <執筆例2>に関して言えば、叙述されたドラマが、あまりにも優等生的で、現実味に欠けるのではないでしょうか。「文化祭の装飾」について、「インターネットで調べ上げ」、「良いと思った方法を積極的に提案」することが、大学入試に際して主張するほどまでに、素晴らしいことなのでしょうか。「イギリス」から来た「交換留学生」の話で言えば、「都内観光」のプランを話し合って決めたことが、「協働性」を発揮したと言えるほどのことなのでしょうか。

 さらに言えば、クラスメイトから「LGBT」であることを告げられて、それを自分が「よく聞いて理解に努めた」だけで、本当に彼女は、「安心して登校できるように」なったのでしょうか。また、それを本当に感謝の言葉と共に伝えてくれたのでしょうか。言葉を選ばずに言えば、この程度の論述で、心揺さぶられる読み手はいるのでしょうか。


 いささか不謹慎な話ですが、「人の不幸は蜜の味」と言います。若干、趣旨は違いますが、基本、人は幸福を満喫している人に魅力を感じることは少なく、何かしらの苦渋、辛酸を経験した者に惹かれる傾向があります。元より、順風満帆な人生などありません。やや戦略的ではありますが、自身、苦労した経験や、失敗した経験からの学びを盛り込む方が、読み手を惹き付ける効果が期待できます。作文・小論文では、単に読み手に事実を伝えるという無機質な姿勢(スタンス)ではなく、相手の理解や同意を超えて、心の中に具体的な映像と共に、感動を喚起し得る経験の訴述を心掛けるべきです。

☆読み手の中に映像と感動を喚起する叙述を心掛ける。

<解答例1>
 「所詮(しょせん)、人間は互いに分かり合えるものではない。」と、人間そのものに対する諦観を傷付かないための防護服として身に纏(まと)い、没交渉の対人姿勢を貫き通していた私に、人と人との血の通った繋(つな)がりを取り戻させてくれたのは、母が運営する障害者施設、「千の詩(うた)」での日々でした。
 自閉症、PTSD、アスペルガー症候群。施設に集う様々な障害を抱えた若者たちに、社会の中での立ち位置を獲得してもらうため、施設内でパウンドケーキ作りが始まります。施設運営者の息子として、幾度となく、手伝いに駆り出されました。
 深謀も遠慮も、個人主義由来の距離感も傍らに置いて、直に触れ合わなければ彼らとの協働は叶いません。集中力を欠く子には頻繁に声を掛け、癇癪を起しやすい子には笑顔で接する。急に泣き出す子には、落ち着くまで無言で寄り添う。次第に彼らの意思や感情が、少しずつ、分かり始めて来ました。彼らも同じ、掛け替えのない人間であるという、ごく当たり前のことに対する気づきと共に。
 甘味が強めのパウンドケーキは、彼らと私の親交の証。グラニュー糖だけでは決して出せない甘味です。
             解答例作成 現代文・小論文講師  松岡拓美


 
<解答例2>
 年間事故件数、4,000件弱。危険度の高さから、全国の学校で古の風物と化しつつある組体操が、我が校では、多くの教育関係者の観覧の下、公開される体育祭の花形演目でした。今や全国でも例を見ない10段のピラミッドを成功させるべく、私は体育委員として、日々、練習を牽引していました。クラス随一の体育嫌い、大城隼人も含めて。
 入学当初から不登校気味の彼の育ちは、幼い頃からサッカーに明け暮れて来た私とは真逆。体育の時間にトイレに籠って出て来ないことも日常茶飯でした。まして、個人主義満載の時代。「放っておけば?」と「大人」な対応を薦める友人たち。それでも私は、嫌がる彼を宥(なだ)めながら、放課後の個人特訓に彼を「強制連行」しました。体育祭の前夜まで、毎日。
 私は思います。多様化した価値観が互いの距離を遠ざける中、「賢い」処世術などとは明らかに違う姿勢(スタンス)で、相手に踏み込み、互いの息吹を感じ合うところに協働が叶う、と。
 高校時代の卒業アルバムに残る体育祭当日のスナップ。クラス全員の集合写真の後列右端に、大城隼人が写っています。私と肩を組んで、少し含羞(ハニカミ)ながら。
             解答例作成 現代文・小論文講師  松岡拓美


 知育偏重教育への反省と巻き戻しから始まった「ゆとり教育」に限りなく近い視点で、今般の大学入試改革があります。そこに問われるのは、通り一遍の知力や学力の類だけではありません。従来から医学部入試に義務付けられて来た面接・小論文に窺えるように、その趣旨(コンセプト)は人間性そのものを問う人間(ヒューマ)主義(ニズム)への回帰であり、大いなる前進なのではないでしょうか。

                  現代文・小論文講師  松岡拓美


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