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『A4サイズのセンチメンタル Review』ココロの処方箋⑵

 静岡に本拠地を置く秀英予備校は、僕の予備校講師キャリアの中でも数多くの大切な想い出を残してくれた忘れられない場所のひとつです。十年間に渡り、横浜の自宅から毎週、通い詰め、静岡の街も大好きになりました。時はまだ少子化が叫ばれる以前のこと。元より目立ちたがりの僕に、校舎の最上階にある最大収容人数317名の教室が受験生で溢れ返っている中での授業は、恍惚感に近い心地良さがありました。

 

 そんな大教室の片隅に遠藤梨恵(仮名)さんはいました。受験勉強の傍ら、父子家庭の環境下で幼い弟妹を四人抱え、母親代わりの家事(炊事、洗濯、掃除)が優先されるという生活の中で、彼女は国立、静岡大学を目指し、寸暇を惜しんで勉強していました。そんな彼女を更なる不幸が襲います。

 

 高校三年時の夏、彼女の父親が他界したのです。クモ膜下出血でした。彼女の目標でもあった静岡大学で海洋生物専門の准教授として日々、学生指導と研究に勤しんでいた父親。彼女への負担を心の底で詫びながら、誕生日には彼女の叔母に当たる妹に幼い弟妹を預け、毎年、必ずとびっきりの豪華なレストランで食事をご馳走してくれた優しい父親。それがいなくなったのです。何の前触れもなく。搬送先のベッドに横たわる顔を覆う白い布をめくると、今にも笑いながら頭を撫でてくれそうな姿のまま、家事に奔走する彼女の最大の心の拠りどころであった父親は、帰らぬ人となったのです。
 

 しばらくの間…を条件に彼女を含め、五人は彼女の叔母の元に身を寄せます。そして、彼女の身の上を知っている僕を含めた何人かの講師の心配を他所に、彼女は通夜と葬儀の日以外、授業を休むことはありませんでした。「気丈な子だねぇ」と、当時の英語科の看板講師だった女性は、彼女を称えました。僕もその言葉の軽々しさを気にも留めることなく、聞き流していました。
 

 


 人生において、必然や予定調和なんて、まずもってありません。「因果応報」と、スッキリ割り切れることも皆無といって差し支えないでしょう。いつも現実は僕たちの予想や期待を大きく裏切るのです。  

 


 彼女は見事、第一志望の国立、静岡大学に合格しました。自分の受験番号を合格者一覧の中に確認した足で、一年間お世話になったお礼を…と、彼女は予備校を訪ねます。そして僕に、「先生、受験が終わって、父の遺品を片付けていたら、父の書いた本の在庫があったんです。先生、貰って戴けませんか?」と、『海洋プランクトンの云々…』といういかにも難しそうなタイトルの本を二冊、手渡しました、社交儀礼的に中をパラパラとめくり、「お父さん、偉い人だったんだね。」と、これまた社交辞令程度の言葉で返礼しようと彼女の顔を見上げた時でした。

 


 彼女は泣いていたんです。声も上げず。静かに。

 ベタな映画のシーンでも見たことがないような大粒の涙を流しながら。

 小学校に上がる前にお母さんを交通事故で亡くし、今回、また掛け替えのないもうひとりの肉親を喪った哀しみを、幼い弟妹のために小さな身体でずっと抱えて来た分だけ一気に吐き出すように、それこそ滝のような涙が彼女の頬を伝っていました。あまりにも大きな、そして、大切な存在をなくした哀しみがどれほど壮絶なものなのかを、僕は掛けるべき言葉も思い付かないまま、胸を締め付けられながら見守る他ありませんでした。
 

 …「気丈」? 冗談じゃない。僕を含め、誰も彼女の哀しみを分かっちゃいないじゃないか。井戸の深みを地上から覗き見るかのように、その壮絶な哀しみの上澄みを遠目に見ていただけじゃないか。冗談じゃない。人間は誰も、簡単に強くなんかなれやしない。

 


 自分の軽薄さに対する自責の念と、向かう先のない怒りにも似た想いが僕を責め立てました。

 「先生、先生」と称えられ、多くの若者たちから注目されることに悦に入って、陶酔し続けて来た自分を振り返り、僕は僕自身、もっと学ばなければならないことを、人の心の奥底に敏感にならなくちゃいけないことを、改めて痛感させられました。

 

 人間は学ばなければなりません。しかし、何のために? それはきっと、自分と周囲の幸せを叶えるためなのではないでしょうか。人間は生まれながらの状態において、か弱く、また、聡明とはほど遠い偏狭さや愚鈍さを抱えています。そのため、簡単に我欲に突き動かされてしまう利己的な側面も持ち合わせている。言葉が過ぎるのを承知で言えば、性悪なる存在です。しかし、人間が他者と生活を共にする社会的存在である以上、私利私欲をのみ叶えようとすることは決して許されません。社会という場所は成員相互が譲り合い、互いの欲望の公約数的な充足で共存を叶えることを求めます。ここに人間が生まれながらの偏狭な視野を拡げ、他者理解と共感の幅を拡大させることが必要になるのであり、それが「学ぶ」ことの最大の意義なのではないでしょうか。「学ぶ」ことで人は人を許し、慈しむようになる。「学ぶ」ことで人と人がつながることが叶う。学ばざる者はそれができないために、簡単に人を傷付け、時に他の誰かの命さえ奪いかねないのです。未だ世界の各所で上がる戦禍の炎は、それが極度に肥大化されたものではないでしょうか。

 

 「教養は人を寛容にする」と言います。これは知性だけでなく、感情投影力も含めた「学び」による人間的成長の大切さを端的に語ったものだと僕は思います。その結果として与えられる社会的資格や、世間の評価も、「学び」の成果である人間的向上の一端を表しているのではないでしょうか。単に知識豊満で計算に長けた人が難関大学に合格し、その後、実社会で俗に言うところの「成功」を収めるわけではないでしょう。

 

 少なくとも僕は、これからもずっと現在進行形の状態で「学び」続けなければならないと痛感しています。遠藤さんの大粒の涙をぬぐってあげることさえできなかった情けない自分を、あれから何十年と経った今もまだ、許せない限りにおいて。


                                                                         現代文・小論文講師  松岡拓美

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