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幸福と不幸は一生において均等か


良いことが連続して起きた時やこの上ない幸せを感じた時、「この後悪いことが起きそう」と思ったことはないだろうか。

一生の幸福と不幸はおおよそ均等になると聞く。

しかし自分はそんなことはなく、ある程度の人間は比較的幸福な出来事に恵まれた人生を歩んでいると思うのだ。(外れ値は除く)
なぜなら、人は幸福に慣れやすく、不幸はいつまでたっても慣れないからである。

というか、そもそもそんな主観的で且つ定性的なものをどう比較するんだという前提もあるが、ここはわかりやすく、ベンサムの功利主義の考え方を取り入れてみよう。

ベンサムの功利主義は、平たく言うと「快楽と苦痛を数値化し、社会全体の幸福量が最大になるように法律を制定すべきだ」という思想である。
例) 音楽鑑賞は10pt
     箪笥に小指をぶつけると-10pt 等

つまりは幸福と不幸を数値化して考えたとする。
一つ一つの行動や出来事に一定の数値が割り振られているとは思うのだが、幸福は不幸に比べて、一番最初に享受した数値から時間が経つにつれて、ないし回数を重ねるにつれて逓減していくと思うのだ。

まずは幸福な出来事を考えてみよう。
付き合いたてのカップルのアツアツさは何年も続けられるほどそう甘いものでもないし、大好きな曲に出会えても時間が経てば「殿堂入り」と称し何故か敬遠したりするし、身の回りにいる友人知人への敬意や感謝もいつの間にか薄れていく。
良い意味でも悪い意味でも自身にとって当たり前となっていく。
私がたまたま身を置いている環境であると、そう思うようになっていくのであろう。

やはり、時が経つにつれて、感じられる幸福は薄れていく。
悲しいかな、人間は欲深い生き物なのでそれは当たり前の現象なのかもしれない。
しかし明白なのは、当初幸福を感じた出来事や出会いを、あなたは今も享受しているということである。

不幸はどうだろうか。
パートナーとの別れ、親族との死別、友人との喧嘩、受けた裏切り、抱いた悲しみ、怒り。
これらは、逓減するにしてもしきれない。いつまで経っても慣れず辛いものだ。
思い出すだけで何度も涙が出てきたり、はらわたが煮えくりかえるような思いを抱く場合さえあるだろう。

負の感情に対して、もう慣れた、なんて、自暴自棄的な状態に陥っているだけであると思うし、強がりとさえ思うし、本当は助けて欲しいものなのであると私は考える。

以上のことを前提に考えてみると、同じ一つの幸福と不幸があるとしても、時が経つにつれて一つあたりに感じる幸福は逓減していくため、相対的に幸福が劣っているように見えてしまう。

ここで補足をすると、私は幸福な或いは不幸な出来事の「多さ」を比較しているのであり、個人の「数値」の総量で比較しているわけではない。

まとめると、私が考えたことはこうだ。

不幸にまみれた人生は、実際あるかもしれないが、人はそれと同じかそれ以上に幸福を享受してきているんだろう。
だが、きっとそのあり有難みをつい忘れてしまっているか、慣れきってしまっているかのどちらか。
享受した当初を忘れないよう、時々思い出しながら生きていくことが上記でいう数値を逓減させないための大事なことなのである。

そう考えると、自分の人生を卑下することなど全くない。
幸福にしろ不幸にしろ、自分の身に降りかかった出来事や出会いや経験は自らの人生の「厚み」につながっていく。

そう思い、日々生きてゆきたい。

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