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みんなそろそろ「呪い」と「祝い」の話をしよう【新連載】

「高級住宅街に住む女性は、ほっそい小型犬を散歩させている」

あるコミュニティに存在する「祝い」と「呪い」をテーマに連載企画を始めようかな、と思っている。簡単に説明すると、ステレオタイプはなぜ生まれたか?を深掘りしてボトルネックを見つけるという企画だ。

例えば「高級マンションに住む女性」というコミュニティがあったとして、彼女らはなぜか「ほっそい小型犬を散歩させている」というステレオタイプがある。あと「胃にはオーガニック食材しかない」とか「週末はボルダリングに通う」とか「朝は一杯の白湯からスタート」とか「ふわふわのパジャマを着て、これでもかとスムージーをつくる」とか、そんなイメージ(ペルソナ)がある。

ある種の”宿命”というか……、生活しているうちに「祝い・呪い」が掛かったから小型犬を飼う羽目になるのでは、と推測している。その呪いの根源を解き明かしたいという企画だ。ちょっとまずはその「『祝い・呪い』とは何ぞや」から説明してみよう。

「祝い」と「呪い」は生き別れた双子

部首が変わるだけで、こんなに意味合いが変わるのってすごくない? 「祝い」というと、こう小鳥が飛んで、シロツメクサが絨毯のように咲いてて、なんか天使の羽を生やした真っ白なソプラノ歌手(だいたい北欧風の方)がこう、天高く美声をこう……みたいな感じのイメージ。

しかし「呪い」というと、なんか夜更けに墓場の隣で、枯れかけの柳にこうカンカンカンと釘を藁人形にこう……なんか、頭には2本のロウソク点けて目は血走ってて……カンカンカン!文脈のない言葉ぼそぼそぼそ……みたいな感じ。祝いと呪いはまったく真逆の性質を持つ言葉といってもいい。

でも、実はそもそも2つの漢字は似通った背景を持っている。つくりの「兄」という字は「祭主」という意味。示へんは宗教的な事柄を表す部首なので、祝いはそのまま「祭壇で祈りをささげる」という意味がある。一方「口」+「兄」の「呪」は祝い事を口から発する様子を描いており、祈りの言葉=祝詞という意味合いがある。ほぼ双子。漢字界のザ・たっち。

ではなぜ「呪」は不吉な意味合いを持つようになったのか。祝詞は「悪霊退散!悪霊退散」的な発音を示す言葉。それが敵を傷つけるというとらえ方に変わり、今の呪いをかけるという意味になった。超性善説。かつて桃太郎の暴力性を訴えて絶賛された新聞広告大賞作品を思い出す。

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とつらつら申したが、つまりは何が言いたいのか。「祝い」というポジティブな言葉と「呪い」というネガティブな言葉はまったく真逆と思いきや、実は表裏一体なのである。生き別れた双子なわけである。祝いは時に呪いになりうるし、呪いは時に祝いになりうるのだ。もっと具体的にいうために「個性」という言葉に置き換えて例えてみよう。

「祝い」=「呪い」が道を左右する

個性の代表格として「性格」がある。例えば思ったことをつい口に出してしまう石田石像という男がいるとしよう。中学1年生ごろに友人から「石田ってさぁ、ちょっと言葉きつくね。傷つくから、そこんとこ直したほうがいいぜ」と言われる(友人も結構ずばずばタイプだが)。そこで石田は自分が比較的、モノをはっきりというタイプだと自覚する。だいたいは、ここで3種類の行動パターンに分かれる。

①自分が知らぬ間に人を傷つけていないか、とても気になり始める

②「俺、発言力があるんだ」と解釈をして、物言いに拍車がかかる。

③「ほ~ん」と聞き流していつもと変わらない生活を送る

①と②の選択をした場合、つまり「呪われる」「祝われる」という状態になる。「私は思ったことを口に出している」という自意識が、ポジティブにもネガティブにも行動によって深まっていく。①の場合は「消極的になってしまい口数が減る」「言いたいことがうまく伝えられなくなる」「アドラーの『嫌われる勇気』を読みふける」などの行動が「祝い&呪い」を深めていく。②の場合は「積極的にリーダーに立候補する」「あまり周りの意見を取り入れられなくなる」「ヒトラーの『我が闘争』を読みふける」という行動が、自意識の重みを増していくわけだ。

そして「祝い・呪い」の象徴というべき行動が「あるコミュニティに属すること」である。人には元来社会的な欲求があり、マズローの五段階欲求でも第三層に位置している、生きていくために満たすべき強い欲求だ。

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はっきりとモノを言う人で構成されたコミュニティがあるとして、そこに属することで幸福感を得られる。「議論がすらすら進んで嬉しい」とか「傷ついてしまう人がいないからやりやすい」とか、そんな高揚感。もしかしたらそこで生涯の伴侶や朋友が見つかるかもしれない。

個性があるからこそ社会的な欲求が満たされるわけだ。はっきりとした物言いをフィーチャーされるにつれて呪いも深まることを忘れてはならない。逆に呪いをフィーチャーされるなかで祝いも深まっていく。良くも悪くも「思ったことをすぐに口に出す」という性格が石田を石田たらしめていくのである。

呪い=祝い=コミュニティ=カルチャー=ステレオタイプ

『「呪い」と「祝い」って人にしかない面白さだよな~。ロバは呪われねぇもんな~。ロバ、マジですげぇなぁ~」って数カ月前から常々考えていた。ライターとして200~300人にインタビューしたなかで、個性の話をしているときが最も面白かった。ただし面白いと感じるのは、私の主観も混ざっていることを前提にしたい。あとロバと人をすぐ対比させたがるのは、私の呪いだから無視してくれ。

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呪いと祝いを連載企画にするうえで、コミュニティを取り上げるのが最もやりやすそうだった。祝いと呪いはコミュニティにとてもよく顕れる。例えばよく聞くのは心理学者にはサイコパスが多い、とか画家には変わり者が多い、とか。コミュニティにはカルチャーが生まれるから。それはメインストリーム、ステレオタイプ的なイメージ像であり、その流れを追いかけることにインタビュアーとしての役割と喜びがあるのは間違いなかった。

つまり「類は友を呼ぶ」ということだ。シュルレアリスムの創始者・アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」のなかで「は?自分が誰だかわからない? 親しい友人を見てごらんよ。それがあなただから」と言っていて、私はいたく共感している。超分かりやすい。確かに~。という感じ。

しかし(ちょっと脱線するが)欲をいうと、メインストリームから逸脱したサブストリームを歩んでいる人(奇行種)と話している間がめちゃくちゃ楽しい。実際に話して面白いのは「分かりにくい人」だ。「個性がない方」「いわゆるコミュニティの方程式を外れている方」「わざとらしくなく、自然体の方」などは格別に尊敬をしているし、仏陀に近い阿闍梨だと思って接しているし、今後も長く離れない気がする。先述した3つの行動パターンのうち③を選んだ人が多いんじゃなかろうかな。

卵が先か鶏が先か

さて話を戻す。「呪い」と「祝い」をテーマに掲げて各コミュニティとその文化について言及したい。できれば理論武装のためにもコミュニティ内の人の声も紹介しようと思う。今のところ、まずは音楽関連のコミュニティを攻めていこうかな、と。何となく企画している記事は以下の通り。

・ビジュアル系好きの人は、なぜメンヘラが多いのか

・地下アイドルは、なぜ前髪を崩さないのか

・サブカルバンド好きには、なぜショートボブが多いのか

・ボカロ好きは、なぜ和柄にはまるのか

・ジャズ・ファンク好きは、なぜヒゲを生やすのか

軽く世論を調査してみると、これらの疑問を持っている人が多いことが分かった。もちろんステレオタイプなので、全員には当てはまらないものの、他の業界よりも濃度は高いのだろう。

あと昨日、友人から「サンリオの好きなキャラ」というくくりでもコミュニティが分かれると聞いた。「マイメロ好きはメンヘラ」「クロミ好きはビッチ」というステレオタイプがあるらしい。これはけっこうおもしろいので、どこかで取り上げてみよ。

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ここで挙がってくる問題がもう一点。「鶏が先か玉子が先か」。つまりビジュアル系にはまるからメンヘラになるのか、メンヘラだからビジュアル系にはまるのか、という問題定義がある。ここについても実際にコミュニティに話を聞きながら考えたい。

ただし個人的には「祝い・呪いを解くべきなのか、一緒に生きていくべきなのか」については正解がないと解釈している。またステレオタイプはステレオタイプなので、もちろん独断と偏見の枠は超えられないのも承知のうえだ。「啓発」は苦手なので、決して自己啓発を促すような真似はしない。では「目的は何なのか」と言われると困る。ただ、なんか楽しそうで書いてみたいのでやってみる。愉快犯の思想。

2週間に1本ずつくらい投下していけたらいいな、と。コミュニティやカルチャーに蔓延する呪い・祝いについて関心がある方はぜひ見てほしい。もし、賛同してくれる人がいたら一緒にやらない?と緩くメン募もしている……!

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