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おもち顔に塗って息止まる

妻は子どもよりもへその緒のほうをかわいがった。それは生まれたときからで、するん とスムーズに現れて大声で泣く赤ん坊には目もくれず、隣のトレーに置かれた赤黒いへその緒に「かわいい」と笑顔を向けた。

妻はへその緒を成美と呼び、肌身離さず身に付けるようになった。出かけるときはカバンに忍ばせ、青いワンピースをつくり、一緒に入浴をして、眠るときは枕元に置いて絵本を読ませた。

私は子どもに由里と名付けた。由里は母乳を与えられず、なかなか育たなかった。泣き声も小さかった。私はその声を聞くたびに、ぬるいミルクをつくった。泣きながら飲む彼女の小さな小さな頭を撫でていると、可愛くて仕方がない。私は抱っこひもを付けて、毎日、会社に連れていった。

由里は営業部でも、ときたま泣き出すことがあったが、社内の人間は嫌な顔なんてしなかった。それどころか私が忙しいときは、ミルクをつくってくれたりオムツを取り替えてくれたりと、多分にお世話をしてくれた。一度、女性社員に「奥さまに任されては、いかがですか」と訊かれたことがある。「妻はへその緒にかかりっきりで」と答えると彼女は「なるほど。それは仕方ないですね」と難しそうな顔をして、由里の頭を撫でた。

ある日から、妻は元気をなくした。「成美が、成美が」と、じょじょに縮むへその緒を見て狼狽し、泣くようになった。そのころの成美は真っ黒で、細く短くなり、言葉は話さないけれどたしかに衰弱していた。私と妻、由里、成美の4人で小児科に向かい、医者に成美を診せる。医者は心拍を聞き、ペンライトで光を当てた。小さな袋と小さな注射針を使って、点滴を打つことになった。妻は待合室にいる間、涙を流した。「いじらしい。私は母親失格だ」と言葉を漏らす彼女を、私は抱きしめることしかできなかった。由里は妻の指を握りしめて、不思議そうな顔をする。妻は娘の手を見て、もっと泣いた。

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