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新型ファブリーズ 〜怨念〜

「あれだよ」

漁村の長が指差したのは、浴槽型の大きなこんにゃくだった。

「ありがとうございます」

腰にちからを入れて砂浜から海原へと押し出す。いかんせんプニプニしているので、力が伝わりにくい。それでもこんにゃくは這いずるように砂浜を進み、寄せては返す波の出入り口までやってきた。


「ひとりになりたい」
口子は3時間前にふと思い立った。最近はどうも忙しい。やたらと食事に誘われるし、仕事は次々に決まる。ライン、スラック、メッセンジャー、チャットワーク。あらゆるアプリがひっきりなしに現実に引き戻す。落ち着かない。口子は、いつもパンパンに気を張っていた。

部屋のソファに沈み込むと、外から子どもの泣く声が聞こえた。車が去っていく音もする。朝11時の快晴だ。何を泣くことがあるか。てめえ首都高に乗ってどこいくつもりだ停まれ。理不尽にも口子は爆発寸前で、乱暴にコーヒーカップを流しに放り込む。カップの持ち手はガチャリと欠けて、なんとも情けない姿になった。

「ひとりになりたい」

ともかく家は気が休まらない。たまらなくなって外に出る。路地で老夫婦とすれ違った。スーツ姿の青年が、小走りで脇を駆け抜けていった。口子は固く固く目を閉じて大通りに出る。乗用車が立て続けに6台も通り過ぎた。路面のヴィーガン食専門店の店員は、気が狂うほどの大声で客を集める。なぜか泣きそうになり、目を閉じて歩く。さよなら、さよなら、さよなら、さよなら、さよなら、さよなら、さよなら、さよなら、さよなら、さよなら、さよなら、さよなら、さよなら、さよなら、さよなら、さよならと、ただその4文字だけを繰り返す。心に鼓膜があるとすれば、とうに割れていた。彷徨っているうちに、口子はふと潮風を聞いたのだった。


こんにゃくの船に乗り込むと、長が腰まで海水に浸かりながら、船を押してくれた。長ネギを2本手渡し「あんまり遠くに行くんじゃないぞ」とにっこり笑う。口子は「ええ」とだけ返して、波のおもむくままに海原へと進み始めた。

ざぁと聞こえるたびに砂浜は遠ざかっていく。寄せる波より返す波のほうが強いことを知った。海鳥がヤァヤァと鳴いている。ちゃぷんと海水が跳ねる音がする。口子は安心した。やっとひとりになれたのだ。ふぁとあくびを漏らしつつ寝そべろうとしたときにポケットのスマホが震える。ホームボタンを押すと「取材・執筆のご依頼です」と件名が表示されたので、口子は上半身の力だけで、できるだけ遠くにスマホを投げ捨てた。そして悠々と寝そべった。

陽射しはもう傾き始めていて、夕陽は山の向こうに落ちようとしている。あたりは橙とも群青ともいえない色合いに包まれる。丑三つどきなんかより、よっぽど化け物が出そうな気配がする。この時間がイチバンいい。いわゆるマジックアワーというやつだ。ヤァと海鳥が鳴いて、ねぐらに戻っていく。口子はそっと目を閉じて、磯の香りを嗅いでいた。

次に目を開けると、もう朝だった。いやもしかすると昼かもしれない。燦々と照りつける太陽は口子の肌を焼く。冬だというのにとてもあたたかい。もう港は見えない。東西南北のすべてが海に囲まれている。だだっ広い。海はこんなにも広かったのか、と口子は思った。

ちゃぷんという音はもう聞こえない。海鳥も今日は鳴いていない。辺りはしんと静かで、口子はひとりでポツンと寝そべっていた。とても幸せだった。何もないことでこんなにも満ちるなんて不思議だ。不足ばかりなのに満足。変なの。そんなことを考えながらウンと背伸びすると、お腹が鳴った。

もしかすると、あたしこのまま餓死するかもなぁ。口子は思った。こんにゃくを食べればいいのか。でも食べたら沈むなぁ。じゃあ餓死のほうがいいのかな。なんて考えているうちにすべてがどうでもよくなって、もう一度眠ることにした。海の揺れは心地がいい。あぁ、二度と明日が来なけりゃいい。

しかしもちろん明日も明後日もやってくる。海に出て5日が経ち、口子は喉の渇きと猛烈な空腹感を覚えた。それでも満ち足りている。不可思議な多幸感に支配されながら、彼女はまだまだ海を漂うつもりだった。たとえ餓死したって構わない。白骨化して誰にも見つからなくてもいい。こんにゃくと骸骨なんて、いい組み合わせだなぁと、痩せこけた頬で笑う。ハハハと声を出したが、もう声は出なかった。そのかわりに、今日は海鳥が盛んに鳴いている。舵がないこんにゃくはどこまでも進む。死体をのせて、海原を漂う。

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