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映画「からっぽ」@ポレポレ東中野のレビュー

「アイデンティティ」を辞書でめくると、以下の通りになる。
「自分が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること。主体性」。

「オリジナリティ」を辞書でめくると「独創性。創意」とある。

果たして、アイデンティティやオリジナリティとは、この世に存在するものなのだろうか、と考えさせられた。

からっぽの梗概について

物語は絵描きの由人がバーの店員のまちと知り合うシーンからはじまる。彼は彼女に「絵のモデルになってほしい」と頼む。彼の絵に惹かれたまちは、自身をキャンバスの自分に委ねていく。

まちはバーの店員のほかに、ケーキ作りのライン作業員やメイドカフェのスタッフ、レッドブルガールならぬソーダ飲料水ガール、コンビニ店員、清掃員とあらゆるバイトをしている。それぞれの職業にしたがって、キャラクターがまったく違う。衣類を保管するためにコンテナを借りているが、住まいは決まっていない。作中では由人やアートライターの洋の家に住むようになる。

まちはモデルとしての自分になるため、作者である由人の言葉をすべて録音し、暗誦するようになる。

「自分=相手」という鏡の摂理

作中、まちは周りの人物によって自分の姿をころころと変える。アイデンティティが主体性だとすると、欠如していると言わざるを得ない。「からっぽ」なのだ。

例えば自我をプラスチックのコップとする。風が吹けば、空のコップは倒れて飛ばされてしまう。だから安定するために他人と関わる。周りに寄りかかることで、まちのコップにはあらゆる要素が注がれる。誰かの液体で満たされると、少し風が吹いても倒れない。

しかし胸に手を当てて考えてみると、誰しもからっぽなのではないか。属するコミュニティによって、表情や口調を変える経験は誰しも持っているだろう。それどころか人単位で変化する。だって、誰しも安定したいからね。人は、ひとりきりではからっぽなのだ。

仏教の世界には諸法無我という言葉がある。例えばAという男が、世界で1人ぽっちになったとする。人はおろか動植物もない。だから時間という概念すら起こらない。空間の仕切りもなくなる。そもそもAという呼称はいるのかと疑念が湧く。Aというくくりを外されたとき、彼には何も残らない。無我。からっぽなのだ。

逆にいうと、周りの人によって、AはAであり続けられる。名前が設けられ、役割が与えられ、我が生まれる。つまり「私」などハナからいない。ただし諸法無我は根本的な状態を指す言葉で、我の強弱は人によって差があるのも確かだ。

「私は私だから」という台詞をよく耳にする。周りに拠らない強い言葉だ。かたくなで厳しい。その点、何かに寄りかからねば自分を満たせないまちは、弱いかもしれない。しかし、柔軟で優しいのもたしかだ。キャラクターとして、主人公として、魅力的だった。

ミステリアスな表現の美しさ

作中、どきりとするシーンがさまざまある。
なかでも、まちの服装の遷移は、作中を通してメッセージを発していた。赤い絵画に近づくために、まちはインナーもアウターもマフラーも真っ赤なものを身に付けるようになる。己の哲学やセンスが、まざまざと変わりゆく様子は、思わずゾッとする。

またラストシーンにも注目したい。雪山のロッジに男たちを残し、まちは自転車で颯爽と一本道を走り去る。どんどん小さくなるまちを観ていると、恐怖が押し寄せてきた。

まちはこれから、何に寄りかかって生きるのだろう。または男たちを捨てて空っぽになったまちは、これからどうやって自分を満たすのだろう。彼女がペダルを漕げば漕ぐほど、恐怖は増していった。

2つのシーンはささやかに進む。派手な演出も、メッセージに触れることもない。想像力をかきたてる、嫌味のない映像がとても美しくて、見惚れてしまった。

新鋭が発したタマシイの叫び

「いったい私は死ぬまでに、何人になるのよー!」。監督の野村奈央さんは観客にメッセージをぶつけている。

彼女は武蔵野美術大学に通う24歳で「からっぽ」は卒業制作で撮ったという。観覧前に映画の公式サイトを見た。そこには監督のメッセージが綴られていた。

驚いたのはその長さだ。よほど愛を込めて作った映画に違いない。私は熱のこもった文章を思わず何度も読み返してしまった。観ることを決めたのは、彼女の文章を読んでしまったからだ。

彼女は「私らしさ なんて言葉は呪いだと思う」とも言っている。たしかにそうである。私は鏡であるので、「私らしさ」とは、つまりあなたらしさなのだ。「あなたらしくいて」という言葉の先頭には(私の目に映る)という呪いがつきまとう。「ありのままの君が好き」という愛の告白は「(私が感じる)ありのままの君が好き」という自己愛である。

みんなホントはからっぽなんです

マズローの言う通り、人は社会に属したい。そして認められたい。愛されたい。そのために異質になりたい。私だけの魅力を知りたい。アイデンティティを確立したい。オリジナリティを見つけたい。じゃあ私らしさってなんだろう。私らしさってどこにあるんだろう……と、順繰り考えて模索する。他人から認められることで、社会的な欲求や自己承認の欲求が満たされる。嫌われないようにハリボテのオリジナルを大切に守る。でもみんなホントは からっぽ なのだ。あの人もこの人も、からっぽなのだ。ハリボテなのだ。

私は鑑賞後、ふらふらと家に帰りながら「からっぽでもいいじゃないか」と考えていた。自我なんてもの、ハナからない。諸法無我である。そのぶん人や自然に感謝するべきだ。からっぽな自分を満たしてくれるのだから。からっぽな自分を認めてしまえば、なんとなくなく足取りが軽くなった。

野村奈央監督の「からっぽ」は、12/28までポレポレ東中野で上映されています。人の本質をトントンと指先で叩いてくれるような作品です。ぜひご鑑賞ください。

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