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迷いの森

「旅人さんにあの木は何に見える?」

彼女は旅人の顔を見て、
少しハッとしてから微笑み、同じように木を眺めました。
旅人の顔にはやっと一筋の光が見えました。

旅人は、旅人ではありませんでした。
一人雑踏の中を呆然と歩いていたただのスーツを着た男でした。

これからどう生きていいかもわからなくなり、
誰を信じたら良いかわからなくなり、
なぜ自分が歩かなくてはいけないのかもわかりませんでした。

信号待ちをしていたら、急に目の前が暗くなり、
「あっ何も食べてなかった、貧血かな・・」
なんてぼんやり考えているうちに気を失い、
目を開けるとこの森の中にいました。

この森に入って時計は止まり、時間の感覚もわからず。
何も食べていなかったのに腹も減らず、
出口を求めて歩き続けているにもかかわらず、
一切足は疲れませんでした。
頭だけが異常にさえて、”むあっ”としたむせ返る暑さだったはずが、
頬がひんやりするほど空気が澄んでいます。

わけがわからず彷徨い続けた時に彼女と出会い、
自分が「旅人」であるということを告げられたのです。
はじめのうちは、からかわれているのかと信じていませんでしたが、
彼女はずっと隣にいてこの森を案内してくれていました。

彼女と話すと、絡まったものがほどけていく感じがして、
気が付けば彼女にいろんなことを話していました。
”こんな幼い少女に話してなんになるんだ?”
と疑問に思う時がちらっと出てきましたが、
それよりも話したくて楽になりたくてしょうがなかったのです。

彼女の顔を見ることがなんとなくできなかったので
旅人は彼女がどんな表情かはわかりませんでした。
彼女はただうなづき、旅人の背に手をあてて耳を傾け続けました。

思いきり話して、からっぽになった旅人に彼女は言いました。

「いい頃合いだね、ついてきて。」

そして旅人と彼女は泉と木にたどり着いたのです。


「あの木は、見る人によって変わるのよ。
 あなたの思考に、記憶に、根を張り巡らせてくれるの。
 あなたの代わりに。」


鏡のように見える青く透き通った
深い泉の真ん中に立つ一本の木は、
この迷いの森の真ん中にある場所です。

この場所に到達する前に挫折する人、
美しい泉に気を捕られてしまって、
木に気が付かない人、
迷いの森から出ることができずにいる人を彼女は見てきました。

この旅人さんは旅人さんらしく、
人の声に敏感で彼女の声に耳を傾けて信じてくれました。


旅人である自覚がないまま迷ってしまうと、
なかなかこの木までたどり着くことはできません。
かつて彼女も旅人だったので、それはとてもよくわかります。

他人の声が悪魔のささやきとなり、
悪魔のささやきから耳をふさぐうちに
迷いの森から導こうとする人の声も聞こえなくなり、
自分の中でただ堂々巡りを続けるのです。

彼女はその苦しみを知っていました。
なので、彼女はこの森の案内人になったのです。


「ねえ、旅人さん。
 自分のことを知ろうとする時に
 自分の中だけが真実だと思って探し続けるうちは、
 本当の自分にたどり着くことはできないのよ。
 あなたがこの世の肉体をもって
 生まれ、育ててくれた環境、出会った人、言葉、経験
 そのすべてがあなたの思考を作ったの。
 
 旅人さんが元々持って生まれたものは
 もうあなただけのものではないのよ。
 旅人さん?」


涙にぬれぐしゃぐしゃになった顔を乱暴にぬぐい、
旅人は少女を見ました。
まだ幼く見える顔だちに大人びた表情、細くなびく長い髪。
吸い込まれそうな深い黒と緑が混じったような瞳。

少女の顔をじっと見つめます。

「やっと私の目をしっかり見てくれたのね。良かった。」

彼女は微笑むと、
また旅人とともに木漏れ日がさして
キラキラと光る泉の先にある木を見つめました。

「旅人さん、大丈夫って3回言って」

彼女は遠くをみたまま つぶやきました。

「だ・・・大丈夫・・大丈夫・・大丈夫」

旅人は最初は震える声で疑問のように、
二回目は慈しむ深い声で、最後ははっきりと言い切るように言いました。

「ありがとう。
 その大丈夫の一つだけここに置いて行ってね。
 その代わり私からあなたにも贈るわ」


彼女は、白く細い手を泉の中に入れて泉の水をすくい上げました。
彼女の手の中でも泉の水は深い青色をしていたので、
旅人は目を奪われました。

その次の瞬間、
彼女は手を大きく広げると、冷たい水しぶきが
旅人の顔にももちろん彼女にもかかりました。

思わず目をつむりすぐに開くと、
森はなくなっていました。

旅人が元々いた交差点の真ん中にただ立っていました。
信号がチカチカと点滅し、旅人は急いで渡りきります。

自分は何をしていたのだろうか、
時計を見ると確かに森に入る前と同じ日にちで変わらぬ時間でした。
夢ではないことが、少し濡れたシャツと
頭に残る彼女の最後の言葉が物語っています。

「大丈夫・・。」

元旅人は、あの不思議な少女の言葉を何度も繰り返しながら、
背筋を伸ばしまっすぐ歩き始めました。

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