音楽に愛された詩人のこと
タイムラインがお悔やみであふれている。
すごく有名な人だし、もっと彼を好きな人がいっぱいいるから、私が特に書くことはないと思っていたのだけれど、音楽家の武満徹と彼の対談を読んでいたら「言葉はどうしても音楽にはかなわない。僕はきっと、死ぬまで音楽に片思いし続けるのだと思う」というくだりがあり、いやいやこの人ほど音楽に愛された人はいないのではないか、とふと2010年にひらたよーこ+矢野誠が出した『少年』という谷川俊太郎の詩をうたにしたアルバムが聴きたくなって引っぱりだしてきた。
そしてやっぱりと確信した。こんなに音楽に愛された言葉たちはない、と。実際に、『少年』の中のすべての曲は、詩ありきで作られたという。
「どんな天才も音楽を創りはしなかった/彼らはただ意味に耳をふさぎ/太古からつづく静けさに/つつましく耳をすましただけだ」(「音楽ふたたび 少年11」)
意味、意味、意味。
私たちは意味の奴隷だ。そう気づいていないからよけいやっかいだ。
それはどういう意味?
あの人は誰?
いつから始まったの?
誰が言っていたの?
どうしてそんなことをするんだろう。
いつ、だれが、どこで、なにを、なぜ、どのように。
どうでもいいではないか。
それを知ったところで、少し賢くなったところで、私たちはしあわせになるのだろうか。
なってきたのだろうか。
文明の進化とは、人類のしあわせとそれとが無関係であることの証明である。
音楽は、孤高にただあり続け、人々をつなぐと錯覚させることに成功すると、またひとりでどこかへ行ってしまう。
人を動かすことができるのは意味のないものだけだ。ただしそこにも人は意味を見出したがる。名前をつけたがる。人のできることは意味を発見することだとばかりに。
生まれてから死ぬ間に、自分で作りだした物語を意味で色づけして通りすぎるのに忙しくする。その死を悼むのにもまた意味がついてまわる。忙しい。
悼まれる当人の方は「僕は年とった少年で/まだ生まれていない老人だ」(「ヒトなんだ 少年6」)とうそぶいて、散歩に出かけているくらいの身軽さで逝ってしまった。
「愛することをおぼえ、死ぬことにさえ歓びを感じて」(「母に会う 少年4」)
ちゃんと予告編をみて、ロードショーを観に行くように。
最後に発表した詩が「感謝」だなんて、どれだけできすぎているのだろうか。私の祖母も、死ぬ間際に意識を取り戻し「私、危篤ですか?」と聞いて、家族や医師たちをギョッとさせたあと「皆さん、ありがとう」と言って亡くなったが、あざやかで淡々とした死にざまというのは可能なのだなと思った。うらやましい。
ところで「少年」というのはまさに彼の本質だと思う。
意味のないことを繰り返したがる少年性は、ときに近い人を困惑させたかもしれないが、多くの人をはっとさせ、深淵に近いところに導いた。