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【文章の分類】私のこの記事は、エッセイ?随筆?コラム?論考か?

どんなに長くても分厚くても、
小説はどこまで行っても小説。

この「小」は
どこから来たのか?

それは
国家や政治を論じる「大説」との
比較から?らしい。

国家や政治を論じない、
一般人に向けた分かりやすい話は、
「小説」ということになるらしい。
小、と言われると、
なんだかセコい話みたいだ。

今は政治に関する話の方が、
せこくて、情けなくて、
大説の方が「小さな説」に
なってませんか?(笑)。

小説も、どこかでちがう名前に 
できなかったものかあ?

今は、呼び方の変更ではなく、
ちがう言葉で使われている。
作品、物語、フィクションなどなど。
作品というのは、万能に使えますね。

ところで、
コラムとかエッセイについて、です。
毎回、記事を書いて、
タグをつける際に、
私はいつもモヤモヤする。

今、私がこうして書いてる記事は
コラムか?というと、
コラムではない気がする。
コラムってのは、実力の高い作者が
独自のユーモアとぺーソスで
書き上げた記事って気がする…。
つまり、プロならコラム? 
それはちがうかなあ。
では、有料にしたら、コラムか?
うーむ、それもちがう印象だ。
有料か無料かは関係ないらしい。

さて、ではエッセイか?
noteのシステム上、
エッセイにする方が
読んでもらえる率が上がる気が
するんですが、書いた本人的には、
本当は、はなはだ恐縮しています。
はなはだ、僭越な気持ちだ。

あの、エッセイの神様、
向田邦子や須賀敦子らに
申し訳なさ過ぎる。
やはり、自分の書いたものを
エッセイと呼ぶのは
「神様」に自分を同等化するようで、
自惚れもはなはだしい(汗)。

ですが、
今のところ、残念ながら、
今の日本語には、
他にピッタリな言葉がない。

エッセイがいやなら、
日本語訳の「随筆」は?
作者・吉田兼好や紀貫之らに
さらに自分を同等化するようで、
さらに僭越はなはだしい。

随筆と名乗っていいのは、
一定の文学性が必要に感じる。
向田邦子なら、
随筆と読んでもいいのですが、
私の記事には文学性はない。
はなはだ、恐縮な気持ちになる。

たまに、学術的になると、
「論考」「論稿」という言葉を聞くけど、
私の記事には、まあ
論考、論稿、論衡といった
言葉を使うには、まだまだで、
見栄っ張りのようで恥ずかしい。

noteの記事は、
コラム、
エッセイ、
随筆、
論考、論稿、
これらのどれでもないようで、 
とりあえず的に、
エッセイを使ってるに過ぎない。
と、同時に毎回、
後ろめたい気持ちになる。

ところで、私は誰に
申し訳なくなるんだろうか?

徒然草の吉田兼好?
いや「エセー」を書いた
フランスのモンテーニュ?

そうした高いレベルを期待して
読んでガックリしてしまう
フォロワーさんにかな?

言葉は、必要なところには、
必ず、それにふさわしい言葉が
生まれてくるはずだ。

まあ、私の記事は、
とりあえず、記事か文章、
という呼び名しかないだろう。

でも、タグを付ける際には、
ついつい、たくさん読まれたい
煩悩にやられて(笑)、
エッセイというタグをつけてしまう。

読んで下さる方々、
まあ、エッセイとかコラムと、
立派なタグをつけていますが、
私のはぜんぜんまだまだ
馥郁たる香りもない文章です。
どうか、お許しください。
そのうち、何らかの香りが
ぶーんとすることを祈って。

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