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【書く】自分への「恥じらい」という感情をポケットに

「恥じらいはいつもポケットの中に」。
くらもちふさこ先生の漫画の
タイトルをもじってみました。

このネット時代は、
恥じらいなど持っていたら、
自分で自分を発信するなんて
出来なくなる時代ですね。

恥じらい、含恥、羞恥心。
これは、文字を書き読む喜びを、
つまりは「創作」を知った人には
非常にややこしい感情ですね。

日本人は元来、昔から、
恥じの意識を重んじる文化でした。
欧米が「罪」を重んじるのに
比例するかのように。
「私ごときが、人様に、
ものを申し上げるなど、
おこがましくて」といった風な…。

自分とは何か?
他人に何かを伝えるとは何か?
といったテーマは永遠の課題ですね。

ところが、ネット時代、
SNS時代にあっては、
自分から自分の声を出さないと、
いないも同然になってしまう苦しみ。

ビジネス書や自己啓発は
恥じらいが無くてもいいんです(笑)。
私はこんな知恵があるよ…
私は人にものを教えることができるよ…
そうした恥じらい無き自惚れがないと、
ビジネス書の作者にはなれない
のかもしれません。

だけど、文学は心のデリケートな
機微を描くものです。
人さまの心の庭に土足で
自分をひけらかしても、
受け入れられるはずがありません。
小説、エッセイ、詩歌などは
前提として、伝える恥じらいがないと、
薄っぺらになりますね。

作品が深みがあるかどうか?は
書いている人が自分自身に
含恥を持っているかどうかに
かかっている気がします。

想えば、太宰治も村上春樹も
糸井重里も谷川俊太郎も
つまりは、おじいさんたちは
明治以来の恥じの文化を
当たり前に、無自覚に、
引き継いできました。

面白い作家には死の気配と、
恥じの感覚が備わっている。

おじさん未満では、
伊坂幸太郎かなあ…?
伊坂さんの初期の作品には
死の香りが漂うし、
創作するものとしての
自身への恥じらいがありました。

読書礼賛、創作礼賛の時代。
そんな時代だからこそ、
自分への恥じらいをポケットに
忍ばせていたいもの。

それに、このネット時代、
発信などしないサイレントな
人々の中に、本当の賢者が
いっぱいいるのも忘れたくない。
私の周りにも、SNSなんて
自分では絶対しないという、
でも、文章もうまく、博識な人が一杯。
理想は、そんな人にも誉めて貰える
深い卓説と気配りに満ちたものを
いつか書いて行きたいですねえ。

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