【都会と田舎】なぜ、昔の人は、自分語りを嫌ったのか?
良き自分語りには、
自分を語ることへの羞恥心が必要!
今日はそんなお話を、、、。
お盆が近いせいか、
他界した祖父母や父のことを
よく思い出すんです。
そして、こうして毎日、
私が自分語りをしてることを
祖父母や父が知ったら、
こっぴどく叱られたに違いない。
自分や家族についてペラペラ
羞恥心もなく、しゃべるなんて、
祖父母らには信じられないだろう。
私の郷里は草深い和歌山県の
中部の小さな町。
つまり、ど田舎です。
よく言えば、人の性質は質実剛健。
無言実行タイプが多かった。
悪くいえば、自分について
語れるセンスも感性もなかった。
寡黙でした。
自分語りをよくする軽妙洒脱な
都会の人間とは真逆でした。
それにしても、やはり東京者は、
なぜかくも自分について
よくしゃべるのだろうか?
その違和感は、
18才で上京した時から
54才の今もなお、続いています。
どうして東京者は
自己語りに取り憑かれているのか?
逆に、人口の少ない田舎人間は
自分語りを良しとしないのか?
それはたぶん、究極には
人口の密度に尽きると思うんです。
田舎では、
自分語りをしなくても、
どこの誰かは自明の理ですが、
都会に生きる人間は
人間が多過ぎて、
自分が!自分が!と
自分をアピールしないと
自意識過剰な人間は
まるで人間洪水の中で
溺れてしまう不安に
おちいってしまうからでしょう。
だから、
自分語りに羞恥心がない。
でも、例えば、太宰治は
あれだけ自意識過剰で
自分語りをペラペラ喋りまくる、
魂の弱い人間だったくせに、
そこはやはり青森の金木町生まれ、
田舎人間あるあるの、
質実剛健を尊ぶ心理がずっとある。
太宰治の家族は自分語りなど
蛇蝎の如くに嫌っていたでしょう。
そんな環境に生きた太宰は
自分語りをしまくりながらも、
質実剛健への回帰心理から
自分語りに対して
含羞や恥じらいがあり続けました。
そうした2つの矛盾する心理が
太宰の中で両輪となって、
彼を面白い文章書きへと導いていく。
太宰が、ただの自分語り好きなら
あれほどの立体感、緊張感は
出なかったでしょう。
最近、私の中では、
情けなくも、
自分語りに対して、
かつてほど、恥ずかしさが
なくなってきました。
慣れは怖い。
ただ、当たり前のように
自分語りをしがちになってきたのです。
そこには、2つの矛盾する要素が
ぶつかる緊張感が無い。
どんなに自分語りをしても
常に緊張感を持つには、
自分語りに対する羞恥心が必要!
というのが私の持論です。
お盆が近づいて、
他界した祖父母や父の気配が
濃厚になってきたから?
かもしれませんね。