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【Kindle激増時代】編集者は本当に不要なのか?

編集者は家庭教師です。
それも、無料の(笑)。

文芸雑誌では、
それが文春でも新潮でも
中公でも河出でも、
まず一度書いた原稿を
担当編集者に出すじゃないですか。

すると担当編集者が
1〜数週間後に、
色々な視点から
赤字や鉛筆字を入れてきます。

その時、編集者は何を
目指しているか?

ズバリ、自社の新人賞や大賞に
「合格」できるよう、
指導してくれるんです。

傾向は誰よりわかってるし、
選考委員の好みもわかってる。
前回、前々回での裏事情まで
目撃してきてます。

なので、
●一人称で書くか三人称で書くか?
●エンタメ度はどれくらいにするか?
●主人公は男?女?何歳前後?
●サブキャラはどうするか?
●時系列は単線にするか、
過去回想はどれくらいいれるか?
●職業はどれくらい特殊か?
●共感しやすい作品にするか?
共感より圧倒感を出すか?
●読者層はどんなイメージか?
学生?2030代男子?男女半々?

こうしたことについて、
最初の打合せで決めるんですが、
得てして、原稿を書いても、
最初に打合せたようには
ならないものです。
 
いざ、書いていて、色々と
思い浮かぶから、
その新しいイメージが
よく思えたり可愛く思えたり。

実際に本当に新しいイメージが
良いなら編集も合意するし、
それが本来の創作です。

全部最初に決めた通りになるのは
脳が120%発揮されなかった証拠。
だから、違うのはいいんです。
怖いのは、単に気まぐれなアイデアに
過ぎなくなってる場合です。

それはおそらく著者本人は
まずジャッジできません。
そこを見きわめるのが、 
担当編集です。
 
その担当も、自信ない時は
編集部で目利きの上司や同僚に
見せてから、
返事をしてきます。

こうしたルーティンは当然として、
さらに、その出版社が主催する
文学新人賞や大賞に
受かりやすいようアドバイスを
びっしりしてくれる。

しかも雑誌に載ったら、
原稿料がもらえる。

文芸雑誌は今、たいていが
一万部前後なのに、
なくならないのは、
それは、未来の新人に対する
作家になるためのレクチャー教室、
という役割があるからです。

まあ、文芸雑誌にのるなんて
そもそも凄い1部かも
しれませんが、、、。

そういえば、
講談社の野間文芸賞を経てきた
作家って、ちょっと似た傾向が
あるなあ。
河出の文芸賞も、
新潮の三島由紀夫賞も、
文春の芥川賞も。

ふわっと全体から漂う何かが
違いますねえ。
最初に、家庭教師さながら
小説レクチャーを受けたからか?

まあ、それに、
編集者だって自分が
新人賞の作家を輩出できたら
嬉しいですからね。

プロの編集は
ずっと食べていける職業作家に
なれることを見通しながら
赤字をいれます。

その書き方が最善ですか?
ここはちょっと集中力が落ちた
箇所ではないですか?大丈夫ですか?

そんな意味をこめ、
最善の作品になるよう、
再考を求めるために赤字を書く。
赤字通りにしてくれ!
なんて傲慢なつもりはありません。
最善ですか?
「ただなんとなくそう書いた」
なんて一行もないように。

そのかわり
赤を入れる編集者も
まず、しっかり集中力を整え、
電話やら他の仕事を全部片してから、
ちょっと散歩して、気分も整え、
外の冷たい空気を取り入れ、
頭を真っ白にします。

これが出来ない時は、
原稿読みはしません、できません。
他人の人生を預かるような行為に、
体力やメンタルが不調では、
取り組めますんから。

つい数分前までやっていた
校正やらデザインやら
他の仕事は全部忘れて
頭を真っ白にして、
出来立ての原稿と
向き合います。

でも、作家によっては
細かく赤字を入れられても
編集者の意図がわかりにくい、
という方もたくさんいます。

たとえば、
漫画畑では、
岡崎京子さんがそうです。
彼女は音楽に例えると
すぐ編集者の意図や願いが
わかったそうです。
これはビートルズで言うと
ポールマッカートニー風ですが、
本当は、ジョンレノン風なのが
欲しいんですが、とかなんとか。

まあ、極端な例ですが。

新人は自分をよく知ってますが、
編集者は何十人の新人作家が
どうもがいていったか知ってます。

世には、赤をいれることを
そもそも誤解した、
出版社や編集者を良く思わない
人たちが、けっこういるの、
最近noteで知るようになりました。

編集者のいないのがいい、
そんな話を聞くたびに
赤字って死にものぐるいで
フラフラになって
入れてるんだけどなあ、
と思って、一般的な裏事情、
描いてみました。

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