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【村上春樹の予言】小説は世界の多様化に追いついて行けるか?

最近は、映画好きでも、
ディズニー好きか
ディズニー嫌いか、
マーベラス好きか、
マーベラス嫌いか、
もう色んな嗜好があって、
同じ映画好き同士でも、
話がわかり合えない場合が
ありますね。

小説好きと言っても、
SF好きでも、
海外のが好きな人、
日本のが好きな人、
もう嗜好がバラバラで、
なかなか話が盛り上がらない場合も
あったりします。

マンガ好き然り、
音楽好き然り、お笑い好き然り、、、。

まあ、だからこそ、
全く同じ価値観の人間で
集まりたいから、
オンラインサロンやnoteの
ニーズがある訳ですが。

なぜまた、こんなに、
嗜好がバラバラになったか?
というと、
それだけ、書き手が、
数も質も傾向も増えて、
色んな嗜好の作品が増えたから、
でしょうか?

例えはちょっと変かもしれませんが、
ドッグフード、キャットフードが
この20年で、明らかに
種類が何十倍になってますね。
昔は数種類しかなかった(笑)。

さて、こんな状況を、
村上春樹はすでにずっと前から
預言していました。

ティム・オブライエンという
アメリカ作家が書いた
『ニュークリア・エイジ』。
かなり長くて、
中身も核の恐怖を巡る
タフな作品ですが、
これを訳したのが村上春樹でした。

文藝春秋から1989年に出まして、
その訳者あとがきに、
春樹はこんな文章を書いています。

「この現代という時代にあっては、
小説というものも
世間の多くの事物と
同様にハイ・テク化している
……略……

小説だって日々技術革新の波に
洗われているのだ。
……略……
小説はある種の経済的有効性を
要求されることになる……
要するにある限られたポイントに
とぎすました力を集中して
そそぎこむということである。

もちろん小説的パースぺクティヴは
広くなくてはならないわけだが、
しかし現実的な小説のフォームと
いうことに関して言えば、
それはかつての時代よりはずっと
限定された形をとっている。
……小説がこの世界の多様化を
追いかけていくことが
できなくなってしまったからである。
あれもこれもというわけには 
いかない時代になってしまったのだ」
(文春文庫p651~652より抜粋引用)

そう述べた後、村上春樹は、
この『ニュークリア・エイジ』
という作品が描こうとしたのは、
精神性のあらゆる要素、
つまりトゥット(全部)だと書く。

ティム・オブライエンは、
もはや死語となっている
「総合小説」をこれで目指しました。
非常に頑固で真っ直ぐな
アーティストであるでしょう。

今、日本で生まれる、
漫画、小説、ドラマ、映画、音楽の
作品たちを翻ってみれば、
特殊性や細分化によって、
オタク的な、好みにうるさい
人たちを必死に引き付け、
買ってもらおうとしてる。

主導権は作家より読者側が
持っていますね。

村上春樹は1989年に、
上記のあとがきで、上記の通り、
現在のエンタメ業界の姿を
予言していました。

「教養小説」「総合小説」は
衰退してしまい、
一般教養(リベラルアーツ)の
重要性も今や不要扱いです…。

消費者の欲望を叶え続ける。
読者が欲しがる物を次々と、
作り、届け、買ってもらう。
それが「欲望資本主義社会」を
誕生させました。

私たちの欲望は
そんなに賢いでしょうか。

欲望をそんなに信じて
大丈夫なんでしょうか?

「子を虐待してはダメ」という、
当たり前の「共通言語」でさえ、
すでに個人的な感情によって
一部の親が破っているのは、
ご存知のとおりです。

『バベルの塔』の崩壊により
私たちは共通言語をなくしたと 
聖書は書いてるけれど、
テクノロジーと技術革新による
価値観の多様化は、
私たちから『普遍性』の大事さを
奪ってしまったようです。

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