ジュンヤ

とりあえず自分の遺書がわりに、 一般家庭では無い自分の生い立ち振り返ります まだ死なん…

ジュンヤ

とりあえず自分の遺書がわりに、 一般家庭では無い自分の生い立ち振り返ります まだ死なんけど 提唱者(INFJ)全人口の1% HSS型HSP(全人口の6%) の都内在住美容師

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小学2年生くらいまで祖母と義理の祖父と暮らしていた話し(幼稚園編)

物心ついた時から祖母と義理の祖父と暮らしていた 小児喘息持ちなのにタバコを吸いまくる祖母と義理祖父 幼稚園卒園まで毎年ハワイに行っていた 1978年から1984年位まで 1ドル220円位 実の父が3代目のボンボンだから可能だった 今にしては凄い事だったと思うが当時はそれが当たり前だった それ以外は普通の幼稚園児だったが、身体が弱いこともありよく休みよく入院していた 4回位入院していた記憶がある 早生まれで身体も弱いので、戦隊ごっこをしても男なのにピンクしかやらせてもらえな

    • ホスト遊びをして借金していた祖母

      3歳の頃から7歳位まで、祖母と義理の祖父に育ててもらったことがある。 祖母は母親の母親である 祖母は4回位結婚をしていて、実の祖父とは確か3回目の結婚だったと思う。 義理の祖父は近くのアパートに住んでいて、私の家に行ったり来たりしていた 私の覚えている祖母の印象は、タバコが大好きで、酒は飲まず、クリクリのおばちゃんパーマでがっしり体型、よくサウナに行っていた。 そんなそぼとの思い出の一つは、私が4歳位の時に夜中に寝床で1人で泣きわめいていた 泣けど叫べど誰も来ず、さらに部

      • エイズで亡くなった僕の伯父さん

        手先が器用でなんでも出来た伯父さん 母親の兄貴 日本各地を「男はつらいよ」の寅さんのようにテキ屋で日銭を稼いでいた 昔は手先が器用で手打ちのパチンコで出禁になるほどの器用さ 「これで勘弁して下さい」とお金を渡されると 器用だから真面目に寿司屋でお鮨を握っていたのに祖父に「テキ屋を手伝え」と言われテキ屋の道に 祖父とタッグで仕事をして日銭を稼ぐ日々 寅さんのようにのらりくらりと生きた 私が知る限り結婚して離婚して息子がいるみたいだが、その従兄弟とは会った事が無い 酒は飲ま

        • テキ屋の親分であった祖父さん

          昔、栃木県で有名な観光地でテキ屋をやっていた祖父 私の母親の母親の夫 祖母と祖父は離婚していて、私は会ったことがない 普通お盆などに祖父に会いに行くものだが、離婚していた為に毎年曾祖父の家にいっていた 母親から聞いた話しだと麻酔無しで盲腸の手術をしたと とても我慢強い祖父が珍しく腹が痛いと言い出した 医者に行ってみると盲腸が破裂して緊急手術になった だが恐ろしいことに祖父は麻酔が効かない体質で麻酔無しの手術になったのだが、破裂しているために散らばった膿を取るのが麻酔無しで

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          博徒であった曾祖父さん

          博徒であった、ひいじいさん 唯一覚えている曾祖父さんとの会話 昔、「じいちゃん、なんで背中に絵が描いてあるの?」 「おめぇも入れってみっか?」 そんな曾祖父さんに赤ん坊の頃に抱かれている写真が我が家にはある 母親の母親の父親 母親の父親(爺さん)と母親(婆さん)は離婚していて、爺さんの思い出と一緒に写った写真は無い 何回か私と会った事はあるみたいだが、覚えていない 主に曾祖父さんとは亡くなるまで、毎年一度は会っていた 曾祖父さんは栃木県では有名な博徒だったらしく、「眠り

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          横浜関内で産まれて

          昭和53年(1978)、今は無き横浜関内の弁天通り近くにあった国際親善病院で生をうける 病院の目の前は、今もある平和タクシーで2026年になっても変わっていないから驚きである 母は芸者 父は海苔屋の3代目だが母とは結婚はせず 母は、お妾さん 今風に言えば愛人であろうか 当時、母は24才 父は46才?だったかな 今の私と変わらないわけだから父も大したものである 昔、私が育った場所は横浜日本橋といわれ花柳界であった 母は横浜日本橋で唯一置屋の娘で京都で言えば10代の頃はバリバ

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