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文字の裏にある意図

むかし、とある車雑誌を読んでて気づいたことがある。

おれの好きな車種について、ある雑誌では高評価で、別のある雑誌ではけちょんけちょんにこき下ろされていた。同じ車についての評価なのに、なぜこれほど違うのか。

答えは簡単で、前者はスポーツカー好きのための雑誌で、後者はファミリーユースの車を検討している人向けの雑誌だったから。前者ではコーナリング性能やスピードがどれくらい出るかなどが評価のポイント。いわゆるスポーツカー、あるいはスポーティな運転ができるかどうかが訴状に上がる。後者ではまず燃費、そして人と荷物がどれくらい乗せられて快適に移動できるかが焦点だった。となるとミニバンやSUVなんかだな。

ミニバンの雑誌でなんでスポーツカーを取り上げたのか疑問に思った。前者のスポーツカー雑誌ではミニバンなんか取り上げてもいなかったから、むしろそっちの方が潔いとすら思った(笑)。

要は、一応同じ「自動車」なんだけど、使う目的が違うんだよね。前者では、車は運転自体を楽しむもので、結果として移動してしまうくらいの感じ。後者では、車は移動するための手段で、本当の目的は移動して着いた先の観光やキャンプにある。だから評価の基準が異なるし、同じ車でもそれによって評価の結果は異なる。

ここで気づいたのは、同じものを見ているのに、何を意図して文字を書くかで文字として出てくるものは違うのだということだった。

媒体上にある文字は何らかの意図をもって書かれている。新聞、雑誌、書籍など、それが商品であればなおさらだ。この商品を売りたい、この事件を広めたい、こういう世論を喚起したい、知られていないこういう物語を知らしめたい。色々ある。

そもそもの話、意思なきところに文字は生まれない。なぜなら文字は意図を伝達する道具だからだ。文字である以上何らかの意図を必然的に内包しているのだが、それが「売り物」として存在する場合には、それを読んだ人に何かをさせたいという意図がより強く働いている。

文字を読む際には必ずと言っていいほど、誰かが何らかの意図をもってその文字を書いている。このブログですらそうだ。だから、それを認識しておかないと、見事に釣られて妙なものを買って後悔したり、おかしな思想に染められたりする。

筆者による意図は直接間接を問わず存在していて、間接的な場合には行間に含まれていたりする。例えば、「私はこういうことをして、こんないいことがあった」という文章があるとする。これには「だからあなたはこの本で紹介している商品を買うべきだ」という見えない文章が続いている。

学生時代には国語の授業なんかで「行間を読む」ということがトピックになる。あれは文学作品などがテーマなので、その行間を読めたら得をするかもしれないが、読めなくても損はしないだろう。その作品を深く味わえなかったというくらいで。

だが、実社会においてはそうではない。行間やその文章の裏にある意図に気づけないと、何らかの損害を被る可能性がある。

誰が、どの立場で、何を、どういう語り口で語っているのか、それは継続的なものかどうか、突然立場を変えていないか、色々と検討する余地はある。昨今では、原文は何語で書かれているのか、翻訳は正しいのかまで拾い上げる必要があることもある。

啓発本、論文、メディアの記事、インタビュー、ルポルタージュ、様々な「他人に読ませるため」に書かれた文章がある。それらは鵜呑みにしてよいものとそうでないものがある。鵜呑みにしてはいけないものを丸呑みすると、なにがしかの損をするだろう。物事は疑ってかかるべきなのだ。

ネットでの個人の発信は、そういう意味では異色で、大して意味のないものが書かれていて、裏を探る必要がないものがある場合があるが、何らか意味があったとして、それが何かに裏打ちされていないことが多いという意味では、疑うべき対象であることには変わりがない。そう、このブログのように。

とにもかくにも、まず疑うこと。他人に見せるために書かれた文章には、読んだ人に何かをさせようとする意図が含まれていることを認識すること。この情報の洪水の中で生きていく我々には、注意深さを超えた疑り深さが必要なのだ。

ということをおれは思ったが、これを読んだあなたは「ホントか~?」と疑わなくてはいけない(笑)。

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