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看護学生の実習きろく、精神科病棟のきおく


某月

卒業までの一年は毎日、病棟で看護実習がある。今日から数週間、私はここの病院で精神科実習を受ける。精神的健康の援助を必要とする人々に対し、個人の尊厳と権利擁護を基本理念としてその人の生活を支援するために。


某月

その人は薄暗い独房の中央にあぐらをかいて座っていた。

座禅を組む僧侶のように、ただじっとして動かない。

彼の目は、ずっと床に置かれたトレーを見つめていた。

トレーの上にはご飯、汁物とおかずがのっている。彼の昼食だ。

私は息を殺して鉄扉の両目サイズの小窓から彼を覗いていた。思わず言葉がでてしまった。

「食べないんですか? 冷めちゃいますよ」

次の瞬間、彼はキッと私をにらむと目の前のトレーを私めがけて投げつけてきた。

「バァーン!」とトレーや食器が金属の扉に当たり、大きな音が廊下中に響き渡る。私は「ヒェッ」と声をあげてしまった。

親切心で言った言葉も、その人には届かない。まだ、心臓がドキドキしていた。

気を取り直して、となりの独房の小窓をそおっと開く。そこには鉄格子の付いた窓の前を休むことなく行ったり来たりしている人がいた。

閉鎖病棟にいる急性期の薬物やアルコール依存症の彼らは、人間はこんなふうにもなれるよ、と私に教えてくれた。


某月

この日は女性患者の開放病棟での実習。

施錠されていないその部屋に入った途端、患者さん達から歓迎を受けて少し戸惑った。精神の発達障害がある彼女たちは言う。

「看護婦さん、お菓子買っておいたよ!」

「ねえねえ、おせんべいあるよ!」

彼女たちは自由に使えるわずかなお金で、病院内の売店で買い物することができる。注意を引きたい何人かはお菓子があると言って私たち、看護学生を取り囲む。それを見た病院のナースは「ほらほら、いいから……」と彼女たちを注意した。この、“お菓子あるよ攻撃”は毎日続いた。まあ、彼女たちの挨拶がわりなんだろう。そんな事は意に介さずに、窓から秋空を見上げて宇宙と交信している人もいた。

作業の時間が来ると彼女たちは、所定のテーブルの位置に着く。その時、あるテーブルから私の名前を呼ぶ人がいた。こんな所に知り合いなんかいないぞ、と思いながら声の主を見た。

「ああー!!」と私。

「やっぱり、そうだ」と声の主。

見覚えのある赤いメガネをかけた顔が微笑んでいた。高校時代のクラスメートだった。学年でいつもトップクラスにいた成績優秀な彼女が、なんでここに?

「どうしたの?」と私が驚いて聞くと、「勉強が好きで夜も眠らずに勉強していたら不眠症になった」らしい。それだけの理由ではないだろうが、私は本当にビックリした。

私が彼女の顔を見ていたら「鼻に汗をかいてるでしょう?薬のせい……」とメガネをかけ直しながら、私が思っている事を先読みして答えてくれた。

付録を組み立てて雑誌にはさみ、販売できるようにする軽作業を日課としている彼女は言った。

「こんな単純作業やってられないのよねー」と馬鹿にしたような目で周りを見渡した。どの女性たちも黙々と手を動かしている。

彼女のプライドが言わせた言葉だろうが、確かに私の知っている彼女がいる場所ではないと思った。とその時、彼女は私を指差して大声で言った。

「この看護婦さん、よく校則にひっかかってたのよー。髪の毛とかスカートの丈とか、ねー?」

ぶったまげた。やはりサイコか?彼女の言葉の暴力に私は苦笑した。



某月

今日は精神病院、年に一度の運動会だ。私たち看護学生も競技に参加する為、いつもの白衣から運動着に着替えた。患者さんたちは楽しそうに紅白のハチマキをつけて興奮気味だ。

参加できない重症さんは、鉄格子のついた窓から運動場を見ている。いつか、あの人たちもあの部屋をでて表を駆ける日が来るのだろうか。

徒競走が始まった。運動会定番の曲「天国と地獄」が参加者をあおり立てる。どの人たちも各々の全速力で駆け抜けて、見ていて気持ちがいい。途中、スタートのフライングを何度もする人がいたり、「ヨーイ、ドン」でクルッと後ろを向いて逆方向に走る人がいたりして皆の笑いを誘った。

私が数人の看護学生と競技を見ていると、一人の男性患者さんが話しかけてきた。「お姉さんは走らないの?」と聞かれ、「アレ?」と思った。声がおばさんの声だったのだ。髪は坊主頭で服も男物を着ていた。小太りの体型は女性の乳房なのか何だかよくわからなかった。「私とだったら、そこいらの男なんかより全然いいよ」と誘われた。

病院の運動会で坊主頭の女性に声をかけられて、私は複雑な心境に陥る。



某月

精神科実習、最後の日。数週間はあっという間に過ぎた。

自分の精神と引き換えに世界を売った人がいた。愛に自分たちを引き裂かれた人がいた。盗んだバイクに乗って何かを掴もうとした人がいた。

何故だろうと思う。彼らの気持ちを理解したいと思う。でも、解らなくて当たり前なのだ。彼らは私たちの知らない扉を持っていて、私たちの知らない向こう側に住んでいるのだから。

病院を出る時、声をかけられた。

「明日もお菓子、買って待ってるからね!」

私は今日で最後とは言えなかった。

その人の顔は希望で輝いていたから……。















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