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鈍行

目的地に向かって走る鈍行の中で、私はこんなことを考えた。


鈍行はレールに沿って動く。しかし、動力源である電気は電線に沿ったパンタグラフから供給していて、見方を変えれば電線に吊り下げられているようにも見える。敷いてあるレールは補助であり、パンタグラフが主役なのだ。

景色が一瞬にして変わった。窓の外からは緑がよく映えていた。

ついつい思考に体が乗っ取られてしまう。どうしても目的地に着くことよりも今考えていることが優先されてしまう。居眠りから覚めたように思考の終焉は突然で、時間を忘れさせる。

窓の外は暗くなった。トンネルに入ったようだ。学生服を着た自分が映る。いつ見てもおかしい顔だ。

高校の入学式の後、中学の友達と学生服で集まったときのことを思い出す。皆ブレザーが大半だったので学ランを着ていた自分は浮いていた。桜並木の下で撮った写真は見ずとも思い出せる。「また集まれるといいなあ」誰かがそんなことを言っていた。トンネルを抜けた。

あと三駅で目的地につく。夕焼けが目を刺す。海が見え、太陽が海面に溶け出している。海岸の近くに点在する黒い岩たちには、フナムシやカメノテが張り付いた様が容易に想像できる。海で遊んだこともあった。海水で体中がベタついて、嫌な気持ちと嬉しい気持ちが混在していた。いつも足のどこかを切って痛い思いをしていた。砂が足に吸い付く感覚も思い出せる。今になって全てがかけがえのないものだったと気づいた。

鈍行の中には誰一人いない。車掌の姿も見えない。それでも鈍行は動き続ける。外の人間にはどう見えているだろうか。小さい子供が興奮して指を差し、必死で母親に鈍行の存在を知らせるだろうか。線路との摩擦音で昼寝から目覚める者もいるだろうか。

そこまであと一駅だった。誰も乗る者がいないので、停車しても意味なく扉を開けて閉める時間だけがある。もちろん降りる者もいない。私はただそこへと向かっているだけだった。同乗者がいてくれたらどんなに良かったか。いてくれたら今この瞬間も思考なんてする必要がないのに。

病院は暗くて静かだった。静かというよりも人間が何らかの圧力によって息を潜めているといった感じだった。嘔吐や叫び声、金属音も時折聞こえたが、静かなことに変わりはなかった。看護師は一定の時間になると体温や血圧を測り、労いの言葉を毎回かけていった。私はそれに何も答えずただじっとしていた。たまに主治医がまたもや労いの言葉と病状について詳細なことを語っていったが、私は依然としてじっとしていた。消灯時間になると毎回私は月を見た。眠れないわけでもなくすることがないからでもなく、月を見ていた。理由があるとすれば目の前にあったからである。カーテンと窓枠の隙間から見える月はひどく明るかった。日によって色が違い、なんとなく模様も違って見えた。切って貼ったように夜に強調されたその月はまるで私のために拵えられたもののように思えた。

日に日に私の体は重力を大きく受けるようになった。立って歩く力さえない。月を眺めては、ため息をついて過ごした。

そして、月とは反対に私の体は翳りを帯びていた。何もかも忘れていった。月の光もあの日の記憶も。


鈍行がだんだん遅くなる。そこはもうすぐだった。ブレーキの音が山の頂から海の底まで届いているような気がした。静寂が訪れた。ホームに降りると同時に黄色い光に包まれた。カーテンと窓枠の隙間から見たあの月の光だった。受けていた重力は頭上に放たれた。扉が閉まる音がした。


「やっぱりパンタグラフが鈍行を吊っているように見えるな。ロープウェイみたいに」
「そうかな。どう見てもレールに接して走っているように見えるよ。重力があるからね」
「重力か。じゃあ逆に重力が無かったらパンタグラフが吊ることになるな」
「いや、その場合は鈍行も電線もレールも一緒に宇宙に行っちゃうよ」
「そうか。そうだな」


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