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相手への想像力。

昨日風がとても強く、仕事を終えて家に帰ると庭の洗濯物干しが倒れていた。干していた洗濯物は家にいた子どもたちが取り入れてくれたようだ。
改めて洗濯物を洗い直し、今朝、また干すタイミングになって改めて庭を見ると、物干しが倒れたまま、落ちていたハンガーはそのままになっている。
うーん・・・・これって、子どもたち(大学生二人)はどうも思わなかったんだよな。
そこから考えた「想像力」とは。

いわゆる想像力ではなくて。

子どもへの想像力、というと、なにかセンスであったり、生み出すものに対する力、を伸ばそう、みたいな使い方をすることも多いかと思う。
でも、今回の想像力は「相手の立場に立てるかどうか」ということと類義の使い方であるという前提で。人や人にかかわる相手への想像力、ですね。

じぶんのこどもでも何考えてるのかわからない時のほうが多いな。。

生き方について。

私の子どもに対する考え方のひとつとして、生き方には絶対干渉したくないと思っていた(私が干渉されたから)。
でも、そのおかげで何かが足りていないような気がする今日この頃。それが「想像力」なのか。
別に誰かに迷惑をかけたわけではないんだけど、というかそういう意味での広義での想像力は基本的なものは彼らに身についている、と思ってるんだけど。

うちの子たちの現状。

まず、子どもたちは家事をしない。
それは親がやるものだと思っていて、やってほしいときに頼むと「しょうがないな」というスタンスでやる。
私は、家事は生きるために誰もが必要となる行動だと思っていて、子どももいつか自分でやるだろうし、無理にさせたり、お仕事というスタンスも私があまり納得できていなかったから、家事をやってお小遣いをあげたりする習慣もなかった。

家事は誰がやるべきか、という問題は置いておいて、でも、例えば昨日倒れた洗濯物干しを放置しておくと「どうなるのか」。必ず次の日には母がまた洗濯物を干すだろうから、起こしておいてやるか、という発想にはならないのか。
それは母からの「勝手な期待」の部類なのかもしれないけど、同居している人に対して「家族だから」思いやらなくていい、ということではないと私は思っている。

核家族化とかも関係あるのかしら。

育て方の問題?

すべてがそれにつながらないけど、改めて子どもを育てるうえで、我が家では「それをやるとどうなる?」「その先にどういう未来がある?」というような質問も意識的に投げかけたほうがよかったのかな、と今となっては思う。
「そのうち気が付くだろう」と思っていた私の読みは、ちょっと違っていて、「教えられないと気が付かない」ということなのかもしれない。たとえ子どもでも、自分と同じことは考えてはいないのだ。

おもいやりって。

人を育てて、自分も育つ。

いくつになっても学びや刺激は訪れるものだ。たとえ難しい問題じゃなくても。
子どもが大学生になった今でも、子どもたちには学ばされる。それだけ、人を育てるって奥が深く、正解のない世界。親も探り探り、無理をせず、学ぶ姿勢も自分の感覚も、大切にしていけたらな、と。


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