見出し画像

アスペルガー母&息子のドーパミンの話。ドーパミンは人生の幸福度と、才能発揮に大きく関係している。文化の日、31歳の誕生日に会話したこと。

11月3日 文化の日。晴れ。

ドーパミンは人生の幸福度と、才能発揮に大きく関係している。

そして、服装に重きを置いてこなかった彼が、
外見は自分の中身と同じ、と言った変化の記録。

秋晴れが気持ちの良い今日。

息子が生まれてから31年。一度も雨が降ったことがない。

そう、本当に一度も。

文化の日、今日は彼の誕生日だ。

お祝いは家族行事、昨夜も家族4人で何気ない時間を共にした。

久々に会った息子とは、あらゆる話をしたがメインは

ドーパミンのはなし。

単純明快な快楽からでるドーパミンではなく努力をした上で出てくるドーパミンを得る必要性について。

単純に得れるドーパミンとは、たとえば情報過多な時代、スマホで興味ある情報を得るだけでドーパミンが出て、その瞬間だけの興奮、刺激が手に入る。自分が満たされたような気にはなるが

その瞬間が終わったあとは、快楽、たのしいと思う気持ち、ドーパミンが切れてしまうという問題がある。

何度も私自身と息子のアスペルガーには触れてきたと思うが(息子はADHDもあることが検査によって判明)こうした性質の人間の場合、通常はドーパミンが出にくく、朝起きれないとかいつもだるめ、注意欠損やコミュニケーションの欠落が甚だしく出てしまう傾向にあることは、現代ではかなり認知があがってきましたよね。


りゅうちぇることや息子のこと。

発達性障がいのこと諸々

同時に単純な生産性もない行為でドーパミンを無理やり得て心の安定を保とうとするので、依存症になり易いのよ。
なので同じ動作を繰り返しやり熱中しすぎて気がついたら朝とか、
ゲーム中毒、アルコールや買い物依存などに陥り易いとも言われている。

よって 端的な快楽ではなく

長続きするドーパミンを得ていく必要があるんです。

私たちの脳の仕組みを知る必要があり、何より肝心なのは、その成功体験を持つことだろう。

しかしこの話は、独特な素をもち生き辛さを抱える人間だけの話ではなく
すべてのひとに関係していると私は思う。

発達性障がいもグレーゾーンを含めたらとんでもなく多いというのもありますが、こうした傾向がゼロだったにもかかわらず、依存症が明らかに増えているのは、努力を要さないドーパミンを得れる行為が意図せずとも身近にありすぎるからなのでしょう。

努力を要さないドーパミンは、何度もその感覚を得たいがために繰り返し単純な行動にて無駄な時間を使ってしまう。結果、虚無感、やる気のなさ、自己肯定感の欠如、不安感ばかりが蓄積されていくが、気がついていない人までいる。

簡単に得られ、無残に消えていくから、繰り返す。本当に厄介ですね。

人間の脳は、本当は努力に価値を認めるようにできているのに、便利になりすぎた現代では、努力という言葉にさえ拒否反応を示すようになるまで衰退。

楽さ、便利さ、に走り長期的な取り組みには時間を使わなくなってしまったように思う。

ファッションもそうだ。表面的に自分の見栄えを良くしようとだけする行為は、単なる消費。世の中のありふれた情報や広告にまどわされ、毎日ポチを繰り返し、買い物依存になっているひともいる。

あるいは似合うを簡単に診断され、服が勝手に送られてくるシステムが大流行。そこから得れる良さもあるだろうが、着せ替え人形のようになった自分を、他者が褒めるのでやめられなくなってしまうようだ。

本当には褒められていないのに、その服かわいい、の一言が快楽になっていく。
アイデンティティーをすて、とっかえひっかえ着飾ることは、ストレス発散要素もあり、自分で考え大切にしたいものをちゃんと見つけようとする手間を省き、送られてきたものへの扱いには愛がなく、結果、安っぽいドーパミンに支配されるようになる。

これは発散にはなっても、癒しにはならず。

もしそれがベストなら私のサービスを待つ人にあふれるはずはないでしょう。

話を戻すが

忍耐と献身を要する仕事には頭と心を使う。行動には体を使い汗を流すものだ。
苦労が多く、時に心が傷つくことだってある。だからできれば苦労は避けたいと誰もが思う。苦労は買ってでも、、といわれた昭和時代の空気はなかったことのように、時代は努力を否定しだした。

でも、ほんとうはわかっているのに。
わかり易い事例で言えば、オリンピック選手を多くの人が賞賛するのは、その栄光は想像を絶する努力の上でしか到底手に入らないことを知っているからだ。

ドーパミンそのものが、その価値を得れることの崇高さを知っているから、努力を促してくれる。たとえば辛くても、しんどくても、その先にはきっと本当の幸せがあると、簡単に出てくるドーパミンとは質が違う働きをしてくれるのだ。頑張ることが辛い、しんどいだけでなく、それをやりきった時の清清しさまで感じさせてくれる。

なので、こうした努力の上で出せるドーパミンにはその快楽が長く維持できる力があり、その人は仕事や創作意欲、あるいは生きる意味、ミッションなどを心に燃やして、ひたすら何かに取り組むことができる。

息子が言うには、私はそういう人間なのだそうだ。

あれま、それは光栄な意見をもらって、なんだかちょっと嬉しく思ったし
彼の成長を感じたかも。

自分もそんな風に簡単に手に入れられるドーパミンではなく自らが行動することで得られるドーパミンを出せる人になりたいという。

創作の場に身をおく彼なら、描くことで得られそうなもの、と思うかもしれないがそんな簡単なものでもないこともわかる。

確かに自分自身が簡単な快楽を求め、それに惑わされる暇がない人間だということは自覚があるが、報われない苦労で疲弊することだってあるわけで苦悩もありますよね。

命を削ってまで集中する傾向があるし自分の価値観で動くので

コミュニケーションの欠落が起きたりもね。

でもその自覚を持ち、これでいいのだと開き直らないことも心がけてはいるんですよ。

息子が言うのは、大事なのは没頭できる行動と生産性(これが深い)心の余裕なのだそうだ。うむ、学ぶなぁ。学ぶ。

彼も死ぬほど生き辛さを抱える人間なので、沢山の苦労苦悩からしか得ることはできない何かを、良いほうにもっていこうと願う人間なのだと思う。

ただ描けてさえいればよい、という自己満足でもなく、彼の理想は高いものなのだろう。うん、理想は高く持て、とも思う。

ギャルソン着てきてた

そして、もうひとつ驚いたことがあった。

私と息子は似たような性質でありながら、

彼はこれまで、あまりファッションには興味を示さなかった。

よってお互い違う道で生きてきたが、彼のほうから

コムデギャルソン、川久保玲っていいよねと言ってきて、着ていたのはいつの日だったか、私が渡したギャルソンのアウターだった。

最近、服の整理をしたらしく、いいナと思ったものを残してみたらギャルソンだったというのだ。それからデザイナーも調べつくしたようでやっと私が言っていたようなことを思い出したという。

それなりに伝えてきたことはあるので、ようやく何かがつながった様で私がやっていることや職業のことなどにも興味を示していた。

ギャルソンはブランド価値云々よいうことより、なぜ自分にしっくりくるのか、ということを

「外見は自分の中身と同じだから」という一言で伝えてくれた。

あれまそれ、私のせりふみたいじゃないですか。

彼にとっての服装優先順位は、もって生まれた性質から、着心地しかなかったのだけれど、変わってきたみたい。

この話はむちゃくちゃ深いので、また。

毎年文化の日になると、彼は一つ年をとる。

そして、今の価値観を共に話せる時間だとしたら、

これほど良質なドーパミンが出ることはない。

君との出会いこそが ママのドーパミンである。


生まれてきてくれて、ありがとう。


髪の毛珍しく短く切っていたときの画像。今は腰まである。
彼の名前は 耀司氏からいただいた。

いいなと思ったら応援しよう!