見出し画像

病から得た気付き

はじめに

こんばんは。
今回は、私が2022年1月にがんと診断されてからの気づきについて書いてみようと思います。

今回は短く記事をまとめてみようと思ったのに2000字を優に超えてしまいましたが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。

突如崩れた日常

2022年1月に私はがんと診断されたのですが、発覚から3週間かからずに手術を行うことができました。幸い血液検査やCT検査などで異常は見られず、現在は経過観察となっています。来月に術後1年の検査を受ける予定です。

30歳で独身、仕事自体はタフでしたが充実はしており、広範な技術分野に関わることのできる今の会社で、これから自分がどんな専門知識を持ったエンジニアになっていくのか、この業界の中でどんなハッシュタグを自分につけていくのか、楽しみにしながら仕事をしていました。

そんな中で突然の診断でした。とはいえ、特に体調が悪くなったというわけではなく、目に見える形で起きた身体の異変に気付いてすぐ病院に行っただけで、薬でも貰って終わりだろうと思っていましたが、実際は違いました。

診断されてからは、まるで友達と飲み会の予定を合わせるかのように入院日を決めていく病院のいい意味でのルーティンワーク感に驚きましたが、それと同じくらい、普段通り仕事をしながら入院日に向けて準備を黙々と進める自分にも驚きました。「入院とかがんってもっと衝撃を受けるものではないか、自分の感覚がおかしくなっていないか?」と思ってしまったくらいです。

そんな私でも、入院して先生から病状について詳細な説明をしていただくと徐々に実感が湧いてきました。当然がんなので手術したとしても再発のリスクが0ではないこと、手術で切除できる腫瘍には限りがあり、またCT検査では小さい腫瘍が写らないので血液検査で定期的に腫瘍マーカーを見ていくことを説明していただきました。

海外で仕事をすることが1つのチャレンジだととらえていた自分にとって、少なくとも再発のリスクが落ち着く5年間はこの病気と隣り合わせであり、そこが海外駐在ができたとしても心配の種として自分に付きまとうことを理解した私は鬱々とした気持ちになりました。

そんな私の心の中で鳴り始めたのが「なんで俺なんだ」「俺はいつも損な役回りばかりだ」「こうやって一人で死んでいくんだ」というネガティブなセルフトーク(自分自身への語りかけ)でした。

心理学の世界では1日に数万回のセルフトークを無意識のうちに行っていると言われていて、この言葉が映像化され、映画を見たときのようにその映像は感情を想起させ、その時の感情こそが自己イメージの形成につながります。

このセルフトークの大半がネガティブになった私には、「まともに生きられていない自分」が自己イメージになりつつありました。このこうなると気持ちは沈む一方なのですが、自分が感じている不安をノートにひたすら書き出して落ち着いた後で、1つ気付いたことがありました。

それは、「昔も同じようなことがあった」ということです。

タダでは転ばなかった浪人時代

12年前、1年間の浪人期間を経て臨んだ試験で、「絶対に失敗できない」と自分を余計に追い込んでしまい、緊張して頭は真っ白。逆にほぼほぼ真っ白だった問題用紙の余白は簡単なはずの計算を何回もやり直して真っ黒。気付いたらすべての大学に落ちているという惨状を味わいました。

それから1年後、2浪させてもらって臨んだセンター試験。もちろん失敗は出来ません。どんなに失敗しても85%の得点率を取らなければ足切り(=二次試験の受験資格なし)に遭い、国立大学の前期試験は受けられません。

そういう時に限って、数学II・Bが私にとってびっくりするほど難しかったのです。時間をかければ解けるものの、60分では到底全問解き切れないと思いました。ただ、2浪目の試験に臨む前に私の中で一つ決めたことがあり、それに忠実に従いました。結果としてなんとか85点を取り、二次試験に進めました。

では、決めたこととは何か。それこそが「コントロールできるものに100%のリソースを使い切ること」でした。

問題が難しいなら、おそらくみんな難しい。
自分がこれまで勉強して培った学力に基づくアウトプットを100%場に置いてくることだけに集中する。
100点を狙えないことに焦るのではなく、回答用紙を回収されたときに持っているものを全て出し切った自分を想像する。

by 俺(20)

2浪した挙句第一志望校への入学は叶いませんでしたが、私にとってはこの思考を自分の中で作ることができただけでも学びはあったと思っています。

この経験を思い出してからは、自分のできることに専念しようと思い立ちました。患者として特にできることがないなら、やりたいことをやろうと病院ではひたすらに本を読み、毎日日記をつけることにしました。

手術がうまくいくか不安、うまくいってもこの先再発するかも、というのは自分で100%コントロールすることはできません。手術も、少なくとも私が自分でやるより先生にお任せした方がいいわけです。
(そもそもできるわけねーじゃんという話ですが)

そこにあるのは、「先生、私の身体の手術はお願いしましたよ」という景色でした。そのような思考、自分のcontrollableな世界に目を向けることが自分自身を縛り付ける不安や恐怖から解放してくれるのだと、11年ぶりに実感しました。

術後約1年を経て感じた違和感

病状の詳細な説明を受けて取り乱しかけた私を落ち着けたのはこの「コントロールできることに100%集中する」という思考でしたが、今となっては少し違和感があります。

というのは、今の私の脳が考えるコントロールの可否に基づく行動をとることによって、他の方法がスコトーマ(盲点)になりうると考えるからです。

では、どのように考えればより良かったのか。私なりの結論は以下の通りです。

自分が生きていくと決めた以上、自分の身に起こったことはすべて自己責任であり、だからこそ自分の本音の欲求に素直に従う。

by 俺(31)

センター試験本番が難しいと言っても、勉強ができていれば取りたい点数を取れるはず。難しいと感じるのは自己責任。それでも大学に行きたいという欲求があるからこそ、自分のベストを尽くす。

病気が自分の身に降りかかることも自己責任。生きていればそういうこともあるが、それでも生きたいという欲求に従い、生きることを選択して自分のやりたいことをやる。

極めてシンプルで当たり前のことのように思えますが、卑屈にならず、かといって他人のせいにもせず、そういった現実に対してフラットに向き合った上で自分は何がしたいのかを決めること。それこそが自分が大事にしたい考え方なのだといまでは感じています。

おわりに

また長くなってしまいましたが、今年の1月の病気の発覚から何を学んだのかをこの場に置くことができました。

もし読んでくださった皆さんのお役に立てたら嬉しいです。

それでは今日はこの辺で。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?