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表現の自由とは何か

表現とはそもそも何でしょうか。それは、表に現れる、と書くように、私たちがパッと見てすぐにわかる部分のことですね。

その表現は元々はそれを表現した人の精神性が外に現れてきたものです。憲法では、表現の自由を、精神的自由というグループに含んでいます。

憲法は、国と国民との関係ですから、国民の表現の自由に対して、国があれやこれやと干渉することを防ぐ目的で設定されています。ここがポイントで、国が主体です。

ですから、検閲を禁止する条文などもあるわけですね。検閲とは、著作物を出版前に調査すること、そしてその内容によって出版を禁止することです。

ということは、国以外の人が、個人の表現物に対して、いろいろということは、憲法の保障の範囲外ということになります。

表現をすっと出して、それが人に受け入れられると気持ちがいいですよね。ですが、拒絶されたり、否定されたりすると気持ちが悪くなりますね。ですから、言いたいことを言えないというのも、精神の衛生に悪いものです。ですから、人権としてとても重要な地位を占めているのです。

ところが実際は、自分の表現が人に拒絶され、否定されたりすることは現実の世界でよくあるものなのです。

なぜならば、表現を相手に見せるということは、相手の精神にその影響が及ぶということにもなります。ということは、表現内容によっては、相手の精神に何らかの悪い影響を与えることがあります。

そのように、悪い影響を与えられた、あるいはその可能性があると感じた人たちが、その表現物に対して文句を言うことがあるわけですね。

では次に、自由とは何かということについてお話します。自由は、何でもかんでもやっていいぞ、というイメージを持つかもしれませんが、自分がやったことに対しては、必ず何らかのリアクションが生じるのが世の常であります。

例えば、私がとてつもなく高価な絵を持っていて、それを燃やしたとします。それは私の自由なので、問題ありません。ですが、それを燃やしたことによって、私の貴重な財産がなくなってしまったことになります。当然、その効果は私に及び、私は誰に対しても文句をいうことができません。

自由は、このように、何でもやっていいんだけど、でもそれから生まれた物事は、全部自分が背負わなければいけないんですよ。ということになります。

とすれば、自由という言葉は、軽さと同時にとてつもない重たいものを持っていることに気が付かれるでしょう。

表現の自由も、何だって表現していいんだよ。というのがその言葉通りの意味なのですが、その表現をしたことによって、必ず何らかのリアクションが産まれてくるわけです。とすれば、そのリアクションを食らうのは、あなた自身ですよ、という何だかとても厳しいものになるわけですね。

しかし、ここが難しいところなのですが、相手に自分の表現が到達してしまったら、ある意味取り返しがつきません。知った人間を記憶喪失にすることもできません。見られてしまった、知られてしまったらもうそれまでなのです。

ですから、何かを表現する前には、それなりに熟慮しなければなりません。

沈黙は金メダル 雄弁は銀メダルという言葉があり、口は災いの元という言葉があるように、ただ喋っただけなのに、それは多くの人の精神に影響を与えるものだということですね。

すると、その言葉の影響を受ける範囲の人たちに、それなりの影響が与えられていることになります。ここで考えるべきことは、抽象はどこか、ということですね。

例えば、男なんてみんなこんなやつら!と文句をいうと、男全員に対する攻撃だし、女なんてみんなこうだ!と文句をいうと、女全員に対する攻撃になります。

たいてい、全ての人に当たると言うことは常にないことなのですが、表現というのはその範囲や影響力が見えないため、個人の強力な武器ともなりうる、そうした性質をもっているのです。

責任という言葉は、まだ説明を差し上げたことはありませんけれども、自由と責任は大抵表裏一体であります。

ですが!ここからまた複雑な話になります。相手が気分を悪くしたからと言っても、言わなきゃいけないこともある・・・ということがありますね。例えば今回自民党が裏金を作っていたことが問題になりましたが、その際、収支報告書には記載しないでいいという「表現」が発出され、皆の精神に、「その表現に従おう」という気持ちが産まれたことになります。

ですが、逆に「そんなことをしてはいけません。」と異を唱える「表現」を行った人がいるとすればどうでしょうか。それは、裏金をそのまま作っておきたいと考える人たちの精神にとっては、嫌な「表現」ということになります。

政治家たちが、テレビに出ても、当たり障りのないことばかり言って、果たしてインタビューする意味もあるのかさえわからない、そういう文句ばっかりを口に出すのは、表現が我々に届くことによって、私たちの気分を損ね、そして、私たちの気が反抗的なものになることを恐れているからです。

もしそうした発言を受けますと、ツイッターやフェイスブックなどのSNSにばーーーっと書き込みが行われたり、政治家本人のブログにもいろいろな書き込みが行われたりして、いわゆる炎上という状態になるわけですね。

私はここで考えるのですが、政治家が嘘をついたり、差しさわりの無いことばかりを言い立てるのは、それを受けた国民たちが、やっぱり批判やバッシングを行ってくることから、自分達を守りたい、ということがあるからだと思います。したがって、特に情報拡散力を持つメディアを最も恐れているようであります。

個人的には、そこに彼らとのバッドコミュニケーションを感じます。

これを、萎縮効果といいます。普通は、この言葉はどちらかというと、国民側がこんな表現しちゃうと何か言われないかな?と思って、萎縮するときに用いられるのですが、こういう心理状態になることであれば、何でも構いません。

表現の自由は、一応認められているのですが、その制限する支配者は、他者の心の中に住んでいると言えるでしょう。

私たちの自由は、表現の自由にかかわらず、他者の心の中というものを、いかに考え込んでしまうかによって、自ら狭めてしまっているのであろうと思います。

ノートは、常識の範囲内で、ということもありますが、表現の自由を出来るだけ広く認める場所であっていただきたいものですよね。










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