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人の温もり人とのつながり

実家へ向かうパートナーを見送りに、東京駅へ行ってきた。駅構内は当然のごとくものすごい混雑で、年末年始の人の流れに本気度を感じた。

その帰りに寄った、百貨店の地下階にある老舗精肉店では大行列ができていた。現金を握りしめ、焼肉用高級ブランド牛を求めて7万円以上分を購入するご年配者。しゃぶしゃぶ用のブランド牛をもっともっととリクエストして3万円分ほど購入する親子。世間の消費意欲を目の当たりにした。冷蔵ケースからどんどん肉が売れてゆく様はものすごい。母に頼まれた小間切れ肉300グラムを購入するために列に並んだ自分がやや恥ずかしく感じるほどだった。

自宅に戻ると、いつもはチラシばかりが入っている郵便受けに封書が届いていた。発送元を見ると、愛媛に住む同年代の友人からで、一通の手紙に愛媛県産のお菓子とマスクが同封。「ずいぶんご無沙汰してしまっていて」と綴るほど、本当にしばらくぶりだった。

特に何があったわけじゃないけれど、他愛のない文面ではあるけれど、手紙を読んでウルっときた。メールでもSNSでもない、生身の文字にこんなにも気持ちが揺さぶられるとは。一人になると大抵涙もろくなってしまうのは年齢のせいだろうか。

そして、手紙に込められた温もりは格別なものであることをあらためて感じた。受け取ったほうは、こんなにも心温かくなれるのかと。まるで魔法のように。

同時に、半ば義務的に年賀状を書き終わらせた自分を恥じた。本来ならもっともっと、心を込めて書くべきものなのに。遠方では簡単に会えないご時世なのに。過ぎし先日、何となく書き過ごしてしまった自分に後悔し、「あゝ書き直したい!」とまで思った。

こういうことができる人(さらりと手紙を書ける人)は、自分も含め最近ではあまりいないように思う。現在の郵便料金さえわからなくなっているし。いつでもどこでも人とつながることのできる、デジタル化の時代のせいだろうか。

24時間365日、自分の好きなときに相手に届けられるデジタルツールは便利だけれど、だからこそ伝えることをつい後回しにしてしまい、かえって人と疎遠になっている気がする。年賀状だって省略することが推奨される時代、何をもって人とのつながりを意識すればよいのだろうと思うこともある。

先ほど精肉店で行列をなしていた人たちは、上質な肉を大量に購入した人たちは、ようやく今年は家族で、仲間で料理を囲むことができ、皆で年越しを迎えるのだろう。想像しただけでも心が温まる。人と人とが触れ合う、そういう光景が一時的に戻ったことだけでもホッとする。

さて、今日ももう日が暮れた。今年も母と二人で年越しをするため、これから千葉の実家へと向かう。実家では “子供” に戻り、時間をもて余すであろうことから、ゆっくりと手紙を書こうと思う。

そんな年末年始も、よいではないか★彡