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退屈しない人生

今年も半分を過ぎた。

上半期を振り返ってみると、これまでの自分と比べて、ささやかながらいろいろチャレンジしたなぁと思う。

“チャレンジ” は言い過ぎかもしれないけれども。

顔に目立つ複数のホクロの除去手術を実行したり、“ヒトカラ” で数時間歌い続けることをストレス発散にしてみたり、十数年も接点のなかったなつかしい知人らに手紙を書いて送ってみたり。

ずっと断り続けていた同期会に思い切って参加して、日付が変わる頃まで飲んで語り合ったり。

私のことを知る人には「何かあったの?」と言われるかもしれない。

いいや、何もない。

何もないからこそ、気になっていたことを少しずつやってみているだけで。

概況に変化はないけれど、心境の変化ってやつかな。



先月、パートナーが上場企業の取締役に就任した。以前よりプレイヤーとしての実績のみならず、マネジメント能力の高さを知っている私は、彼がようやく役員になれたことに心から安堵した。

一方で、年齢的に人生の折り返し地点に立つ中で、いつまで元気でいられるだろうとか、彼といつまで一緒にいられるだろうとか、とかく不安になりがちな私。

役員は重責を負う立場で気力と体力を要するし、彼のこれからが心配だ。加えて、いまや企業は社会から多くのことを求められる時代だし。

対して当の本人は、あまり遠くの未来までは考えない性分のようだ。考えナシというわけではなくて、「心配ばかりしてても仕方ないでしょ」というスタンス。

一日のルーティンをちゃんとこなす。やるべきことを淡々とやる。しっかり食べて早く寝る。と、そんな感じ。将来への不安なんて、ほとんど聞いたことがない。

以前の私は、杞憂というか抱いている不安をわかってもらえないこと(共感してもらえないこと)にやや不満を持っていたけれど、最近は彼のおかげ?でだいぶ訓練されてきたみたい。いちいち不安がることは少なくなった。

それよりも、いまを大事に過ごそうと。だから、気になることがあれば素直に接してみようと。

先日、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ていて、印象に残るシーンがあった。

晩年の源頼朝が人生を回顧する中で、妻の北条政子に対して自分と夫婦になったことを「悔やんではおらぬか」とたずねる。

政子は迷う様子なく「退屈しなかったことは確か」と返す。

「悔やんでいる」「悔やんでいない」の答えとは次元の違う、なんて素敵な返し言葉なのだろうと思った。さすがは抜群の感性を持つ三谷幸喜氏の脚本。

人生なんて、言ってしまえば喜怒哀楽の繰り返し。何のために生まれて死へ向かって生きていくのか、その真理を理解することは難しい。ただ、楽しくて嬉しいことばかりでなければつらくて苦しいことばかりでもない。

それらをすべてひっくるめて「退屈していない」と表したことに、私はすっかり腑に落ちた。

そして、ふと、自分の人生はどのように幕を閉じるのだろう?という想像が脳裏にチラつくようになった。それは決して悲観的ではなく、あくまでも客観的に。

もし、早かれ遅かれそのような時を迎えたら、「いろいろあったけど、『退屈しない人生』だった」と思える最期でありたいと思うのだ。

また、それと同時に、「私はいま人生のピークにいる」とも思うようになった。

ストレス満載だけれども仕事は充実している(ほうだ)し、健康で生活に余裕もあるし、母は年老いてきたけれど大きな病気もなく元気だし、籍は入れなくとも心から信頼できるパートナーがいる。

連絡の取りやすい友達や親類は数人くらいしかいないけれど、交友関係でいま困ることはない。

結局は独身だから、老後は一人ぼっちになるかもしれないけれど、その頃には私のような処遇の人はごまんといそう。

そう考えると、何も不自由していないいま、私は人生のピークにいるのではないか。それならば一つ一つの出来事をしっかりと味わわなければ。平穏な現在にありがたみを感じて過ごさなければ。

…なんて、最近の私はちょっとだけ達観できている。

だから下半期も、この調子でインスピレーションみたいなものを信じて、気になったことに対しては少しずつチャレンジしていこうと思う。

「退屈しない人生」を目標に。

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