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なぜアーティストになったのか。最終章 東京編。

どうも藤本です。
いよいよ上京を経ての東京編。
高校を出て18歳から東京で過ごし今年で10年目になります。
今の様なスタイルになったのは最近で、その少し前はアーティストというよりラッパーとしての活動がほとんどでした。
沢山の出会いや別れがあり、多くの変化を経験し様々な価値観に触れました。
その約10年を経て今感じる事をざっくりとお伝えしたいと思います。
そして微量ながらでもこれからアーティストを目指す方の参考になればと思います。

ラッパーを志し東京へと引っ越しました。
両親に迷惑ばかりかけてきた私はせめて学歴をと思い東京モード学園へと入学しました。「せめて学校には行ってほしい」という親の思いがあり、なんの当てもなくラッパーになると言いながら東京へと向かう息子に気休めながらの安心をと思っての選択でした。
なぜモード学園なのか。音楽の学校でもよかったのでは?
その答えはとてもシンプルで、当時のモード学園のcmでは鎮座DOPENESSがラップをしておりこの学校では現存するどの学校よりもラッパーに出会える確率があるかもしれないと思い選びました。
とはいえ流石にファッション・アパレルの学校なのでそこにラッパーはいないだろうと思っておりラッパーと知り合いの人がいれば御の字、紹介してもらおうと思って初日のレクリエーションを迎えました。
すると隣の席の奴がなんとラッパーだったのです。
彼こそがBefore Sleepin' Showerの立ち上げ人でありトラックメイカー、今でも藤本潤の楽曲やエンジニアをしてくれているeddieeでした。
他のメンバーwisteria,aonisai,ch_illともモード学園で出会いました。なのでBS'Sのメンバーとはほとんどがあの学校での縁でした。
そこからDADAやitaruとも出会っていくのですが、BS'Sのお話はまたの機会に。
18歳で出会いそこから今に至るまでの9年間はほぼ全て彼らと作ってきました。
私に東京を教えてくれ、HIPHOPを教えてくれ、仲間達と作る一つの物語を教えてくれました。
沢山の苦労や苦悩、挫折やすれ違い、そしてそれ以上の喜びと作品を築いてきました。
私にとってのHIPHOPとは、自身の機軸でもありますが彼らとの絆こそが何よりの定義として心にあります。
彼らと出会えたことが私にとってかけがえのない財産であり、モード学園という選択をしたことは間違いでは無かったと心から感謝しています。
せめて学校にはいってほしいという親の温かな思いも今となってはとても大切なきっかけになったのだなと思います。

生意気で愛想もなく斜に構え続け、おまけに頭も悪いクソガキ共でした。
先輩や後輩、大人の方々には煙たがられ、沢山の揉め事や失敗を繰り返してきた愉快な仲間達です。
作った曲も鳴かず飛ばずでしたが、とても楽しく日本のHIPHOPをやれていたと思います。
そもそも"日本のHIPHOP"とは?日本語ラップというは呼び方もあります。
今でこそ少なくなってきましたが「日本人がアメリカの真似事をしているだけ」などと言われることもよくありました。アメリカ人ではなく日本人にです。
ですが今日本には演歌や民謡以外の沢山の音楽があります。もちろんロックもあります。はっぴぃえんどやブルーハーツなど素晴らしいロックに影響を受けた人はどれほどいるでしょう。異国の文化であろうとこの素晴らしい日本という国は、独自の進化を経て日本のものに落とし込むことができます。
もちろんHIPHOPもそうだと思っています。そして私は日本のHIPHOPの形は完成に限りなく近付いていると思っています。
アメリカが生み出した手法や表現に敬意を込めつつ、日本には日本の美しさと文化があります。そのいくつもの歴史とリアル、豊かなアートが生きる未来を織り成し紡ぐことが今日本のラッパーに求められている様に感じます。それこそが日本のHIPHOPの体現だと考えます。
時には「君のやり方や姿勢はHIPHOPに失礼だ」と言われることもありました。
否定などこれまで滝の様に浴びてきました。そしておそらくこれからも浴び続けていくでしょう。それでも己を信じ、時には自分に負けないよう歩み続ける、藤本潤はそんな日本のHIPHOPのアーティストでありたい。


そもそも前回の記事ではなぜラッパーなのかという説明もかなりあっさりとしていましたが私が思うにそんなものでいいのではないでしょうか。
もちろん中にはそのことで救われた、親や環境の影響で必然的に、そんなドラマティックな展開も数多くありますが、始めた理由なんてなければなくていいのだと思います。
音楽を多くの人に届けるためにはバックボーンや物語があった方がいいこともシチュエーションによってはあります。ですがとってつけたメッキはすぐに剥がれますし、見透かされ本来のすばらしい作品が軽くなってしまう原因にもなります。
過去に理由がなければ今から作っていけばいいのです。
「思い立ったが吉日」自分にしかない理由を今から作っていきましょう。
「人とのコミュニケーションを図るのがとても苦手だった私に唯一繋がる手段として長けていた事が”もの作り”だったこと。そこからラッパー、アーティストを生業として志すに至ったことは必然だったように思う。」
これらは今振り返ってみた時の私自身の精神の本質部分であって理由ではありません。
私自身のなぜアーティストになったのか?の理由はとても簡単です。
私自身をここまで育ててくれた家族、東京に夢を追って出ていく私を応援してくれた地元の親友達、そして東京で共に戦い続けてくれた仲間達にとって自慢の人間であれる様に。ただそれだけです。
私にとって大切なみんなの日常に明日も頑張ろうと思える光をと思い藤本潤は音楽を作ります。
この思いは18歳の頃ラッパーになりたいと思った時から変わりません。
劇的なドラマがあったわけでもなく、地位や名誉もない私が今日まで希望を持って歩んで来れたのは間違いなく彼ら彼女らのおかげなのだと心から実感しています。

もの作りと歩み続け、言葉に惹かれ、愚直に光を目指すことを許容してくれた人々に囲まれ助けてもらい続けた27年でした。
これからも続く挑戦の中で少しずつでも恩返しと喜びを与えれる人間になれるよう歩んでいきたいと思います。

四章に分けて無名のアーティスト『藤本潤』の生い立ちとアーティストになるまでの精神面を紹介させていただきました。
ご精読ありがとうございました。

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藤本潤 
熊本出身。
1993年生まれ。
作曲、プロデュース、映像ディレクターなど幅広く手掛けるアーティストでもあると同時に、クリエイティブ集団Transistory Projectの運営も行なっている。
ラッパーではjumLiv(ジャムリブ)の名義で活動をしておりHIPHOP集団Before Sleepin' showerのリーダーも務めていた。
日本語と和の精神をスタイルとしたジャンルレスに表現を行うアーティストである。

ストリーミング配信
https://www.tunecore.co.jp/artists/JUN-FUJIMOTO#r752260

Transistory Project - 雪のあかり
https://youtu.be/AbsiZP6TNRg
藤本潤 - YES
https://youtu.be/wEQILKzffTY

instagram https://www.instagram.com/junfujimoto_81
Twitter https://www.twitter.com/JunFujimoto_81
TikTok www.tiktok.com/@junfujimoto_81

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