夜来たるもの
私は夜の闇が嫌いだ。
そう、子供の頃から大嫌いだった。
日中は暗がりで息をひそめているが、陽が沈み、世界が夜の闇に閉ざされた途端、呪われた異界の者どもが蠢き始めるのに違いない。
大人になった今も、夜は部屋の灯りをつけたままでないとコワくて眠れないのだ。
そんな自分が、よりによって恐怖小説を書くようになるとは・・・。
書斎にこもり、パソコンのキーボードを叩き続けていた私は、視界の右端を白い影が横切ったような気がして手を止めた。
ゆっくりと立ち上がった私は、右手のベランダに歩み寄った。
夜になって降り始めた雪が、空の彼方から絶え間なく舞い降りてくる。
風も出てきているようだ。先刻見えたと思ったのは、風に舞う雪だったのだろうか。サッシのガラスに顔を押しつけながら外を見た。
あたり一面、銀世界だ。
降り積もった雪が、あらゆる物音を吸収してしまうためだろうか、外界はしんとして静まりかえっている。
『さあ、早く片付けてしまおう』
私はデスクに戻り、短編小説の続きを書き始めた。
真冬の夜遅く、誰もいない寂しい道を一人きりで歩く少年の話だった。
・・・雪明りの中、少年は降り積もったばかりの雪を踏みしめながら、夜の道をひた走った。
『なぜもっと早くあいつの家を出なかったんだろう』
彼は、友人の家で遊びに夢中になり、つい時間を忘れてしまった自分の愚かさを嘆いていた。
所々に佇む人家もみな明かりを落として静まりかえっている。
『・・・?おいおい、誰だよこんな夜更けに』
少年は、前方からこちらに向かって歩いてくる人影を見た。
遠くて表情はうかがえないが、白い服を着た髪の長い女だ。しかし真冬の夜更けにたった一人とは・・・。
彼は薄気味悪く感じたので、帽子の庇をぐいと下げ、目を合わせないようにうつむき加減で歩いた。
二人の距離は次第に縮まり、「サクッ、サクッ・・・」という雪を踏みしめる音が、はっきりと聞こえるようになってきた。
少年は一刻も早く女をやり過ごそうと歩を早めた。
『すぐそこまで来てる・・・』
怖くて顔を上げることもできない。
「サクッ、サクッ、」「サクッ、サクッ、」
今まさに女とすれ違うと感じた瞬間、二つの足音が重なった。
「サクッ」
・・・と、彼の心配をよそに、二人はあっけないほど簡単にすれ違った。
少年はほっとして思わず太い息を吐いた。そして、よせばいいのに思わず後ろを振り向いてしまったのだ。
「?・・・ヒイッ!」
立ち止まった女が振り返り、じっとこちらを見ている。
真っ赤な唇の両端がつり上がり、にたりと笑っているようだ。
少年は恐怖に怯え、小さく悲鳴を上げた。
彼は無我夢中で走り続けた。
いつの間にか、夜空に大粒の雪が舞っている。
ひゅうひゅうと、風も吹き始めている。
電柱の灯りの範囲を通り過ぎるたびに、雪が純白の輝きを見せた。
帰る家はすぐそこだ。もう少しの辛抱だ。
だが、先ほどから背後に誰かいるような気がしてならない。
『だめだ!振り向いてはいけない。このまま走るんだ』
少年は心の中で強くそう思いながらひたすら走り続け、とうとう家にたどり着いた。玄関の前に立ち、急いでドアノブを握る。
「ギイイ・・・」なぜか不気味な音を立ててドアが開いた。
少年は急いで玄関に入り、後ろ手でドアを閉めた。
気がつくと薄暗い玄関の上がりかまちに母が立っており、陰気な表情を浮かべながらつぶやいた。
「遅かったじゃない。・・・ねえ、あなた。誰かと一緒に来たの?」
少年はかぶりを振った。
「あなたがドアを開けたとき、後ろに女の人が立っていたような気がしたんだけど。白い服を着た」
それを聞いた途端、少年はゾッとして後ろを振り向いた。
「ドアを開けてみてちょうだい」
少年は思い切りかぶりを振った。絶対に開けてはいけない。強くそう思った。
「お客様かもしれないわね。開けなさい。さあ早く。」
少年は、勇気を振り絞ってドアを開けた。
「ギイイ・・・」
不気味な音を立てながらドアが開くとそこには白い服の女がいて赤く血走った眼を見開き少年に向かってニタリと笑い口が耳の下まで裂けた。
えも言われぬ恐怖に襲われた少年は、救いを求めて母親の方を振り向いた。
廊下に立つ母親が、薄気味悪く微笑んだ。
「ほーら、いるじゃない。」
少年の恐怖に怯える悲鳴が夜のしじまを引き裂いた。
終わり
私はペンを置くと、深くため息をついた。
一応書き上げたが、どうにも気に入らないところがある。
今夜中に手入れして完成させなければ。
それにしてもだ。
『夜は嫌いなんだよ』
とそのとき、私はベランダに佇むものを見た。
・・・白い服を着た髪の長い女?
『なんだって?』
ふと、我に返り、ベランダに歩み寄った。
外はあれほど降りしきっていた雪が止み、一面の銀世界となっている。
誰もいない。何かの間違いだったのか。
今書いている小説のせいで、ちょっと神経質になってるのかな。
私はふたたびデスクに戻るとパソコンに向かった。
『いや?待てよ』
不意に私は、背後に何者かの気配を感じてゾッとした。
それは私の背中越しにパソコンの画面を覗き込んでいるようだった。
長い髪の毛の端が私の背中に当たってサラサラと幽かな音を立てた。
私は手の甲を口に当てて必死で悲鳴を押し殺した。
そう、絶対に振り向いてはいけない。
このまま朝までこうしていれば、きっと後ろのモノは消え去るだろう。
額に脂汗を流しながら、私はひたすら画面を見続けるのだった。
夜は怖い。
もしも貴方が夜にこれを読んでおられるなら、一人きりだとすればなおのこと、くれぐれも気をつけていただきたい。
そう、貴方の背後に何か気配がしても?
絶対に振り向かないで。
ほら・・・。
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