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僕が出会った風景そして人々(番外編⑧)

さて、話を元に戻そう。はからずも初心者の僕がリーダーにされてしまい、波瀾万丈のスタートを切った発掘調査だったが、やがて待ち望んだ正規の調査員”ジャングルK内”が加わり、やっと現場らしくなった。

 K内氏は、ジャングルというあだ名の如く顔面は髭ボウボウ。クロマニョン人的な顔立ちにサングラスをかけており、おまけに肩をいからせて歩くので、見た目はかなりコワい。
 話しぶりも、低い声で「ボソボソ・・・」で、近寄りがたい雰囲気を醸し出していたが、知り合ってみるとなかなかお茶目な男であった。
 何かの拍子にサングラスを取ったところを見たら、ひげ面に似合わぬつぶらな瞳だったので、笑いをこらえるのに苦労した。彼の場合、サングラスは必需品だなと思った・・・。

こうして、K内調査員とI塚Y田G藤S西M村Tムラといった、ハチャメチャなメンバーによる発掘調査が本格的に始められたのだった。

現場の人間模様

K内調査員は野球が大好きで、昼休みになるとキャッチボールをやりたがった。しかし、補助員の連中は殆どが、それぞれ夜の間に自分のことでエネルギーを使い果たしており、昼休みは彼らにとって貴重な休憩時間。誰も一緒にやりたがらない。ぐうたらのМ村だけはいつも暇であったが、彼はほぼ毎晩、酒を飲み歩いており、日中はいつもぐったりしている。

結局、いつも犠牲になるのは、人に頼まれるとイヤと言えないI塚君だった。

昼休みに誰よりも早く弁当を食べ終えると、K内は決まってこう言った。

「よおチャイ塚!キャッチボールやろうぜ」

チャイ塚というあだ名は僕が付けたものだ。この場合の「チャイ」は、「ちっちゃい」の「ちゃい」と同じニュアンスであり、決して蔑称ではない。そう、彼はなんとなく「チャイな奴」なのだ。チャイ塚君、これを読んでいたらどうか許してね。

このあだ名は本人以外、たいそう評判がよく、現場の人間はみな彼のことを「チャイ塚」と呼びたがった。

あるとき、現場で一番年下の補助員がI塚君に向かってこう言った。
「チャイ塚ァ、この図面の書き方、教えてよ」
 彼はT美(美術大学)の現役学生だった。名前を忘れてしまったので、仮にB君としておこう。普段からやや生意気な印象を与える青年だったが、自分より年上で、しかも根拠不明の自信に満ち溢れている連中に混じって、少々背伸びをしていたのかもしれない。
 とにかく、そんなB君からタメ口をきかれたI塚君は、むっとした表情でこう言った。

「おいお前、オレより年下のくせにそんな呼び方するなよォ。チャイ塚さんって言えよなー」

I塚君は、ホントに優しい男なのであった・・・。

そうそう、B君に関しては、こんなこともあった。

あるとき、深堀ふかぼり(関東ローム層を深く掘削する調査)の真っ最中に、M村がB君をからかってこう言った。

「おい、Bよ。オメエはやせっぽちで体力もねえな。少しはオレ様を見習えよ。見ろこの筋肉をよ!」

すると、B君が鼻で笑いながらこう切り返した。

「M村は、脳ミソも筋肉でできてるんじゃないの?」

これには、その場に居合わせた全員が腹を抱えて大爆笑した。

以来、M村は脳ミソが筋肉でできていることになった・・・。

M村君は明○大学を卒業したが就職せずに発掘のアルバイトをしていた。一見して無頼のやからで、「しょーがねえですぜ」が口癖であった。
 彼とはよく一緒に酒を飲んだが、パチンコが大好きで、酔っ払うと決まって「みちづれ」を歌った。
 当時、僕もかなり破滅的な生活をしていたが、M村はそれ以上で、給料日になると飲み屋に行って貯まったツケを払うのだが、その場でまた飲み過ぎてツケをこしらえたり、給料日の翌日にK内調査員から金を借りたりしていた。
 やがて彼は現場を去ったが、風の噂でその後新聞記者になったと知った。
滅茶苦茶なことをしていた男だったが、おかげできっといい記事を書いていることだろう。

そういえば、B君はT美の学生だったが、TムラもT美卒だった。
 数年後に僕が付き合うことになったタマ○さんはM美卒。
 遺跡の世界とは無縁だったが、中学の同級生で、舎人時代を共に過ごし、今なお交友がある畏友O君も、一時M美受験を目指していた。
 調査会の面々はユニークな人間ばかりだったが、特に美大生には独特の感性があると感じた。
 
さて、前にも少しお話ししたが、当時、遺跡調査会は自治体の限られた予算で運営されており、通常は一つの現場が終了すると、予算の関係で一部の者を除いて一旦解散することが多かった。その後は残ったメンバーで細々と整理作業を行い、調査報告書を作ることになる。
 やがて、新しい現場が始まるとふたたび調査補助員を募集するのだが、運良く(?)前のメンバーが復帰することもあれば、初めの時の僕のような、未経験の者が入ってくることも多かった。

このように調査会の人々は離散・集合を繰り返していたが、たまに、原因者(遺跡調査のきっかけとなる開発行為の主体者)が国や公共団体、大企業などで対象面積も広い場合は長期間の調査となり、当然予算も多くなるので、調査会の常駐メンバーでは足りず「○○遺跡調査団」という形で臨時の調査チームを結成する場合があった。
 このような時は、調査員や補助員も大勢必要であり、経験豊富な猛者たちがかき集められ、それに混じって新人たちも入ってきた。

こうして、また新たな関係ができあがり、時にはアツく真剣で、時には滑稽な人間ドラマが展開されていくのだった。

当時の遺跡調査会(団)というのは、どこもみな、さまざまな理由で少しだけ人生の回り道をしている・・・そんな若者たちが集まる場所だったように思う。

あの頃、僕たちはあの場所で、互いの傷を舐め合っていたのだろうか?
 そう。それぞれが常に何かと戦っており、心をすり減らし、屈託をかかえ、飢えていた。
 だから、酒を飲んでけんかをすることもあったが、相手を精神的に追い込むようなことはしなかった。

彼らの多くは、発掘現場という居心地の良い場所で人生の選択を先延ばしにしていたのかもしれない。もちろん僕もそうだった。

(続く)


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