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漫画「ひゃくえむ」から考える、何かをする目的

大好きな漫画の一つに魚豊先生の「ひゃくえむ」がある。
タイトルの通り、100mをテーマにした漫画だ。

物語中にはタイプの異なる魅力的なキャラクターがたくさん登場する。
全員に共通する、というか魚豊先生の作品全般に共通する特徴として、「言葉が非常に端的である」ということが挙げられる。
短い、だけど核心をつく。
ただ、流し読みをしてしまうと意味をとらえ損ねてしまう。
そんなフレーズが続く。

主人公のトガシは生まれもった短距離走の才能により、小学生時代から全国1位というサラブレッド。
特に走ることに対し、楽しさや魅力を感じているわけではないけれども、100mが速く走れる、ただそれだけで大きな存在価値になることを感じて日々を過ごす。
そこに現れたのが小宮。彼は、「走っている間だけは、嫌なことから逃避できる」というめちゃくちゃネガティブな原動力で100mに臨む。

いわば、陽のキャラクターであるトガシがそのまま活躍すれば王道のストーリー漫画になるであろうが、そこに一捻り加わるのが本書の面白いところ。
詳細は漫画に譲るとして、将来、小宮は日本を代表する選手に、一方でトガシは企業との契約更新に毎年肝を冷やすような2流の陸上選手となります。

ここで浮上するのが、何のために走るのか?問題です。
いくら頑張って練習したところで、日本一にはなれない。
さらに不条理なことに、仮にどんなに速く走れたところで、人間には必ず死が訪れる。突き詰めるとニヒリズムに行き着くのかもしれないが、結局、いくら速く走り脚光を浴びたところで、それは刹那のことに過ぎない。
じゃあ、練習も頑張ることも速く走れることも無駄なのか。

紆余曲折を経たトガシはそんな難問に対し、異なる観点から答えを見出します。自分が楽しいから、気持ちいからではない。自分が直向きに走る姿が、一人でも良い影響を与えるのなら、それだけでいい、と。
内村鑑三さんの著作にも、後世に残せる貴重なものとして「生きる姿勢」があることが述べられており、それに通ずる部分があります。

ちょっと抽象的に考えると、100m走に限らず、人生のあらゆることに同じことが言えるかもしれません。
偉くなろうが、いくら金持ちになろうが、いくら美人と結婚しようが、いずれ命は果てる。
結果が全て、というのであれば、全部が「死」で終わる。
でも、トガシが自ら悩み抜いて辿り着いた答えと同様、人生にはプロセスがあり、そのプロセス自体が周囲に良い影響を及ぼす可能性に満ちている。

そう考えると、「後世の人たち、自分の生き様、みといてくれ!」と思って生活するのも良いかもしれませんw
素晴らしい漫画です。
ぜひ、一読を!

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