櫻田淳

政治学者

櫻田淳

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マガジン

  • 愛知和男氏との対話

    櫻田淳が永年、仕えた愛知和男氏(元防衛庁長官、元環境庁長官)の時事所見を紹介しながら、当節の日本と世界を考えるマガジンである。

  • 政治に関わる信条ー余は如何にして政治学徒になりし乎

最近の記事

愛知和男氏との対話 05

■ 地球ファースト  愛知和男氏はこう語った。  「アメリカ大統領選挙もいよいよ大詰めであるが、四年前の大統領選挙でトランプ候補が称えたスローガン『アメリカ・ファースト』はその後多くの人が使ってすっかりおなじみになっているが、このスローガンが及ぼした悪影響は計り知れないものがある。即ち世界のあらゆる分野での分断の動きである。一方、昨今地球環境問題をはじめとして協調協力が求められている課題は多い。何とかして今の分断の流れを止め、協力と協調の流れに方向を転換させることができな

    • 政治に関わる信条 24

       1991年3月、急遽、札幌から東京に移ることに決まった。東京大学法学部では、その年から大学院重点化が始まり、それに合わせて公共政策大学院型の修士課程も新設された。後に東京大学でも北海道大学でも、公共政策大学院が設けられるけれども、その過程は、その先駆けのような位置付けであったといえる。当時の学生募集要領には、政策アナリストを養成するという趣旨のことが記されていたと記憶する。その要領を見た時、「これこそ自分が求めていたものだ」と実感したのである。  3月初頭であったか、その

      • 政治に関わる信条 23

         1989年夏、社会に出るには装備、弾薬、兵糧の類が足りないと思い込んだ不肖・櫻田は、急遽、大学院進学志望にに舵を切った。ただし、北海道大学では色々な先生方のゼミに参加していた手前、どれが専門かを明確に語ることはできなかった。北海道大学入学以前、国際政治を勉強したいと思っていたのだが、その思いは外れて道草を食う感じになっていたのが「札幌の歳月」である。だから夏以降は、大学院進学のための勉強に半ば慌てた形で取り組むことになった。受けたのは、東京大学と北海道大学であったか。もうひ

        • 政治に関わる信条 22

           幾度でも書くけれども、北海道大学に籍を置いていた五年は、「バブルの狂瀾」の期間と重なる。ところが、そうした世の中の空気とは縁のない生活を当時の不肖・櫻田は送っていた。一九八六年、一九八七年、一九八八年の三年は、ミハイル・ゴルバチョフの改革に目が移ったものの、国際情勢が激しく動いているという意識はあまりなかった。国内でも、昭和天皇の御不例が語られるようになった一九八八年秋までは、国内のぐだぐだな状態がやたらに目についた。「経済は一流、政治は三流」という自嘲気味の言葉が大手を振

        愛知和男氏との対話 05

        マガジン

        • 愛知和男氏との対話
          6本
        • 政治に関わる信条ー余は如何にして政治学徒になりし乎
          24本

        記事

          政治に関わる信条 21

           北海道大学法学部時代は、「バブルの狂瀾」の最中である。就職戦線も、学生主導の「超売り手市場」であった。同輩の学生諸君の中には、八社位から内定をもらったという人物がいた。聞けば、数社の就職に関する説明会に同時に出て行って、宿泊費と旅費を懐に入れていたそうである。途方もない詐欺だと思ったが、そうしたことがまかり通る時代であった。当時は一九八九年夏、日経平均株価が四万円に到達する寸前の時代であった。  不肖・櫻田も、周囲の例に漏れず就職活動を行ったのだが、あの時代であるにもかか

          政治に関わる信条 21

          愛知和男氏との対話 04

           愛知和男氏は、こう語った。 ■ シニア世代の活躍を支える  「現在内閣には、女性活躍担当大臣がいて、女性の活躍についてはないKぁくとしても、本格的に推進してきており、社会的にも女性進出が著しい。(国際比較に拠れば我が国はまだまだだと言われるが)」。  「私は、シニア世代の活躍を推進する施策が必要であると思っている。確かに最近では定年が延長されシニア世代の活躍を社会が望んでいることは少しずつ浸透しつつあると思う」。  「確かに寿命が延びて男性でも平均寿命は八十歳を超えてい

          愛知和男氏との対話 04

          愛知和男氏との対話 03

           愛知和男氏は、こう語った。 ■ 石破茂氏の姿勢  「自民党総裁候補による合同記者会見があった」。  「テレビでこの模様を見ていて、十年程前のアメリカ大統領選挙を思い出した。ブッシュとゴアの戦いである」。  「公開討論会でゴアが、ブッシュがしゃべっている最中、ため息をもらしたり首を振ったりいかにもブッシュをバカにしている姿勢と受取られる行為があったのだが、これが非常に評判が悪くゴアはだいぶ票を減らしたと言われている」。  「今回の自民党の総裁選挙では石破氏の態度がゴア氏の

          愛知和男氏との対話 03

          愛知和男氏との対話 02

           愛知和男氏はこう語った。  ■ マスコミの礼儀知らず  「安倍首相の引退会見をテレビでみていて、感じたことを述べてみたい」。  「まず会見場に首相が登場したときに、すでに会場にきて椅子にすわっていた記者たちはだれも立ち上がろうとしなかった。アメリカの大統領の場合、ホワイトハウスの会見室に大統領が登場すると全員起立して大統領を迎えることが通例となっている」。  「それと質問する記者は冒頭、永年ご苦労さまでした、とねぎらいの言葉をいうのが常識だろうと思うが、一部の記者以

          愛知和男氏との対話 02

          愛知和男氏との対話 00

           この度、不肖・櫻田のnote記事のマガジンの中で、「愛知和男氏との対話」と題したコーナーを設けることにした。  愛知和男氏は、不肖・櫻田にとっての「永田町における『師匠』」である。氏の傍らで、併せて十年近く政治の現場を観た。他の政治学者の方々の多くは、留学先を海外大学・研究機関に求めているであろうけれども、不肖・櫻田にとっては、永田町がその「留学先」であったといってもよいであろう。  愛知氏の傍らに居た時節は、一九九三年の細川護熙内閣成立から二〇〇〇年森喜朗内閣に至る時

          愛知和男氏との対話 00

          政治に関わる信条 20

           北海道大学法学部時代の回想ということで、既に19編のnote記事を書いた。現時点では、25までは書こうと思っている。取り敢えず、本「20番」記事では、書を通じて影響を受けた知識人のことを箇条書き的に書いておく。  1.ニコロ・マキアヴェッリ   前にも書いたとおもうけれども、彼の著作の検討が政治学徒にとっての「イロハのイ」である。後に、筑摩書房から全六巻ほどのマキアヴェッリ選集が刊行されたときには、思わず全て買ってしまったわけであるけれども、当時は「中公バックス」のもの

          政治に関わる信条 20

          政治に関わる信条 19

           札幌の歳月は、「雪と光」に埋もれた歳月である。法学部の学生であるにもかかわらず、政治の周辺の事ばかりに延々と触れていた。フリードリッヒ・フォン・ハイエクやジョン・メイナード・ケインズを含む経済思想の世界では、経済思想史家の書を熱心に読んでいた。今でも、猪木武徳教授や間宮陽介教授の書は、馴染みが深い。法学部の隣に、文学部の校舎があったので、そこの西洋史学の友人を訪ねることを口実にして、研究室に出没していた。傍目から観れば、「どこの学部の者かが判らない」動き方をしていたのである

          政治に関わる信条 19

          愛知和男氏との対話 01

           愛知和男氏はこう語った。  ■ 駐米大使 安倍晋三 というアイディアはどうだろう  「アメリカの駐日大使には大物政治家がなっていた時期がある。例えばモンデール副大統領、マンスフィールド上院議員院内総務、下院議長などである。主要国の大使にはいわゆる外務官僚がなったのでは十分な役割を果たせるとは思わない。わが国の駐米大使はアメリカの駐日大使とのバランスを考えても、日本の総理大臣経験者がなってもおかしくないと思う」。  「この度退陣される安倍晋三氏はアメリカからも高く評価さ

          愛知和男氏との対話 01

          政治に関わる信条 18

           近時の対外政策評論の中で、不肖・櫻田は、対中関係や対韓関係を題材にしたものを数多く発表している。故に、不肖・櫻田の関心も、そこにあるのだろうと水を向けてくる方々がいる。けれども、少なくとも北海道大学法学部時代には、対中関係や対韓関係を含む「アジア方面」は全く馴染みのない領域であった。否、高校以前にも、その領域は全然関心を惹かなかったといってよい。だから、この辺りの領域に関する知見は、東京大学大学院時代に田中明彦先生のゼミに加わり、その後の「永田町時代」に必要に迫られて身に付

          政治に関わる信条 18

          政治に関わる信条 17

           前にも書いた通り、北海道大学法学部時代は、そこに在籍していた政治学系の先生方には軒並み、お世話いただいた。後に実際に私立大学で教鞭をとるようになって驚いたことは、学生がひとつのゼミにしか参加できないシステムになっているということであった。北海道大学でも東京大学でも、学生が三人や四人の先生のゼミに同時に参加しているというのは、当然のことだったので、このことには長く違和感を感じた。不肖・櫻田は、その故に北海道大学では誰の弟子かは明確に語り得ない存在である。東京大学では五十嵐武士

          政治に関わる信条 17

          政治に関わる信条 16

           札幌での生活は、1986年春から1991年春までである。四年プラス一年プレミアの歳月であった。札幌の冬で驚いたのは、特に一月の半ば頃に一晩で軽く1メートル近くは雪が積もることもあるということだった。そういう環境であったから、なかなか外には出られないのである。一年目の冬であったか、北二十四条辺りの道で転倒し、救急車を呼ばれたことがあった。脳震盪を起こしたようで、救急車が来た時には覚醒していたのだが、救急隊の隊員に、「もう大丈夫ですよ」と告げたら、その隊員が「折角来たのだから乗

          政治に関わる信条 16

          政治に関わる信条 15

           外務省の学生向け催事「ザ・フォーラム」で外務大臣賞をもらって、その席で「外交官にはなれないが、別の立場で日本の外交を支援仕ります」と語ってみたものの、札幌に帰った後、実際に何をすべきかは全く見当がつかなかった。差し当たり、外交、国際政治関連の書を従前以上に手広く読む生活に入った。  ところで、この外務省の催事は、実質上、「安倍晋太郎の遺産」でもある。当時の安倍晋太郎外務大臣が、中曽根康弘内閣下の「国際国家・日本」の大義を具現化するべく、創設したのが、この催事だったそうであ

          政治に関わる信条 15