政治に関わる信条 19

 札幌の歳月は、「雪と光」に埋もれた歳月である。法学部の学生であるにもかかわらず、政治の周辺の事ばかりに延々と触れていた。フリードリッヒ・フォン・ハイエクやジョン・メイナード・ケインズを含む経済思想の世界では、経済思想史家の書を熱心に読んでいた。今でも、猪木武徳教授や間宮陽介教授の書は、馴染みが深い。法学部の隣に、文学部の校舎があったので、そこの西洋史学の友人を訪ねることを口実にして、研究室に出没していた。傍目から観れば、「どこの学部の者かが判らない」動き方をしていたのである。

 大学卒業後、何を職業として選ぶかは、明確なイメージを持っていなかった。高坂正堯先生や永井陽之助先生のような国際政治学者に憧れはしたけれども、実際に「学者」という職業を選べるかは、別の話であった。「外交官ではないが、それとは別の立場で日本外交を支援する」と公言はしたものの、具体的に何をするかのイメージは、出来上がっていなかった。

 そうしていた折、シンクタンクという枠組が視界に入ってきた。今では、日本でもそれがどういうものかが知られるようになったけれども、当時は何か「学界でも官界でもメディア界でもない」という趣旨で不思議な「知の職業」であると思われていた。米国のシンクタンクの実態を評価した『アイディア・ブローカー』という書を知り、自分が目指すのは、こういう世界なのではないかというイメージが浮かび上がり始めた。同じ頃、東京大学に進んでいた友人に、「君は、『学者』にはなるなよ」と告げられたことがある。「どういう意味か」と問い返したら、「学者と官僚とメディアと、あるいは民間企業の間を行ったり来たりする仕方があるのだ」と答えていた。後日、それが米国のシンクタンクの在り方を言ったものだということに気付いた。

 だから、今でも不肖・櫻田の「知の様式」は、そういうシンクタンク的なものだと思っている。現実社会の様々な問題に対して、対案を提示するのである。不肖・櫻田が実質、最初の書を出したとき、「政策提言型知識人」という自己規定をしていたのは、そういう事情を反映している。「自分は、『学者』よりも『軍師』がしたいのだ」という自己イメージが出来上がりつつあった。バブルの頂点を迎えた1989年、当時の不肖・櫻田は、それが新しい「知の在り方」だと思っていた。

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