政治に関わる信条 18

 近時の対外政策評論の中で、不肖・櫻田は、対中関係や対韓関係を題材にしたものを数多く発表している。故に、不肖・櫻田の関心も、そこにあるのだろうと水を向けてくる方々がいる。けれども、少なくとも北海道大学法学部時代には、対中関係や対韓関係を含む「アジア方面」は全く馴染みのない領域であった。否、高校以前にも、その領域は全然関心を惹かなかったといってよい。だから、この辺りの領域に関する知見は、東京大学大学院時代に田中明彦先生のゼミに加わり、その後の「永田町時代」に必要に迫られて身に付けていったものである。要するに、日本の安全保障上、この地域の事情が直接に影響してくるから観察しておかなければならないという事情に因るものであった。

 だから、北海道大学法学部時代の国際情勢に関する勉強は、「日本」、「米国」、「ソ連・ロシア」、「欧州」の領域で終わったのである。

 米国に関していえば、斎藤眞先生や古矢旬先生が書かれたものを理解の基本にした。加えて、永井陽之助先生も、国際政治学者というよりは米国政治研究者という側面があるということも知ったので、永井先生の議論も相当に参照した。他に、本間長世先生や猿谷要先生の著作も大分、読んだ。

 実は、北海道大学に入学した直後、不肖・櫻田は、「新渡戸稲造の百年後の後輩」であるという意識を強く持っていた。だから、政治体制においては全く共感を持てなかった「ソ連・ロシア」と異なり、「米国」には相当な部分で惹かれるものを感じた。もっとも、米国に対する共感は、政治体制や社会の理念に対してのものであって、風俗であるとか文化であるとかといった領域には今でもあまり深い思い入れを持てない。唯一、米国で贔屓にできたアーティストは、「サイモン&ガーファンクル」であったのだが…。

 最近、グレン・フクシマ氏が「何故、日本人は共和党が好きなのか」という趣旨の論稿を発表していた。不肖・櫻田が共感を覚える米国とは、多分に新渡戸稲造が影響を受けた米国であって、「勤勉、誠実、謙譲、清潔」といった価値意識を体現するピューリタニズムの「古き良き米国」なのであろうと思う。それは、ジョージ・F・ケナンが「ニューイングランドの文明」と呼んだものである。ケナンの祖父であったかがウィスコンシンに最初の入植者として定着した挿話に象徴されるように、特に南北戦争後、「ニューイングランドの文明」は、米国の中西部に移植されたのである。今や、「ラスト・ベルト」と呼ばれる地域の白人層は、そうした人々の末裔である。

 だから、不肖・櫻田は、米国の白人層の気質を「人種優越主義」のものとして一刀両断する気にはならない。当節の日本では、米国の白人層の気質を嘲笑するような意見が多いのだけれども、それならば、「何故、新渡戸に類する明治の日本人は、現在よりも人種差別意識が露骨であったはずの米国に惹かれたのか」を慮ることは、大事かもしれない。

 北海道は、「日本の中の米国」であると思っていた。青森の「重たい雪」が津軽海峡を越えた後、一転して「乾いた雪」になったときの感触を忘れられない。海を越えて、「新世界」に足を踏み入れた気分であった。日本国内における「反米」議論の多くが、観念的なものにしか映らないのは、そうした不肖・櫻田の「実感」も反映しているであろう。

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