政治に関わる信条 16

 札幌での生活は、1986年春から1991年春までである。四年プラス一年プレミアの歳月であった。札幌の冬で驚いたのは、特に一月の半ば頃に一晩で軽く1メートル近くは雪が積もることもあるということだった。そういう環境であったから、なかなか外には出られないのである。一年目の冬であったか、北二十四条辺りの道で転倒し、救急車を呼ばれたことがあった。脳震盪を起こしたようで、救急車が来た時には覚醒していたのだが、救急隊の隊員に、「もう大丈夫ですよ」と告げたら、その隊員が「折角来たのだから乗っていけ」と半ば強引に病院に担ぎ込んだわけである。こういう冬の風景であったゆえに、図書館から晴れた日に大量に書を借りて自宅で読むという習慣がついた。

 どういう書であったか。実は、国際政治に限らず、様々なジャンルの書を読むという方向に走ったために、当初、目指していた猪木正道、木村汎、高坂正堯各先生のような「京都大学系学者」の書よりも、「東京大学系学者」の書を読む時間が相当に長くなったのである。不肖・櫻田は、心理的な憧憬の部分では、京都大学系に近いものを感じているけれども、実際の人間関係では、東京大学系の人々に近い。北海道大学法学部で教えを受けた先生方が、そうした方々であったからである。田口晃先生であるとか、古矢旬先生であるとか、長谷川晃先生であるとか、中村研一先生であるとか、酒井哲哉先生であるとか、川崎修先生であるとか、山口二郎先生であるとか、もっと古い世代でいえば丸山真男の直系の弟子であった松沢弘陽先生であるとかである。東京大学と京都大学の「学の雰囲気」の違いを札幌で体験できたのは、実に、宜しいことであった。

 その頃、体験したことで印象に残っていることがある。何かの折に書いた論稿を斎藤眞先生の直系である古矢旬先生のところに持って行って、感想を求めたところ、豪く酷評されたのである。古矢先生曰く、「君の書いたものは、スーパーマーケットから魚の切り身を買ってきて、皿に並べただけの代物で、とても料理とは言えない…」。なるほど、若い時には、「よく勉強しました」というだけの原稿を書いて悦に入ってしまうことがある。論稿を書くのと料理を出すのは、「自分の味」を模索するという意味において、似たような営みであるということに気付かされた。自分の「味」や「スタイル」を築くのが総ての物事における「最初の目標」なのだと悟った。

 政治評論を含めて何らかの論稿を書く際には、「著者名を明記しなくても文面だけで誰が書いたかが滲み出てくるような文章」を書く。その大事さを知ったのが、古矢先生との遣り取りだったかもしれない。北海道大学法学部在学中は、古矢先生のことを「怖い先生」だと思い、会う時にはいつも緊張していたのだが、後日久々に会った折には、先生には柔和な表情で接していただいた。

 東京大学に移った後、不肖・櫻田のスーパーヴァイザーを担当していただいたのが、古矢先生の兄弟子に当たる五十嵐武士先生であった。結果として、高木八尺以来、斎藤眞先生、五十嵐武士先生、そして今では久保文明先生に至る東京大学の「アメリカ政治外交史」講座の学風の洗礼を受けることになった。五十嵐先生も古矢先生以上に、不肖・櫻田にとっては、「怖い先生」であった。だが、知識人として血肉になったものは、五十嵐先生に教えを受けた中で多くある。

 徹底した「西方世界」志向の不肖・櫻田の思考スタイルは、こういうところにも強められているかもしれない。

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