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福島の沿岸部に行ってきた。

- 自分の家に帰るのに許可がいる

あれから10年って言うけど、まだ何も終わっていない -

そんな言葉が僕の耳に今も強く残る。

震災から11年、福島県にある浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、南相馬市に行ってきた。訪れるのは今年で6回目になる。これらの街は東日本大地震以来、大なり小なり帰宅困難地域に指定されている。

僕が初めて福島の沿岸部に訪れたのは震災後5年目の2016年3月13日だった。

その年の初めに僕は大病をし、1ヶ月入院をしていた。退院してからも日常生活は普通に送れるものの、1,2ヶ月は自宅療養が続いていた。3月11日、TVでは震災関連のニュースが一日中流れていて、自宅で大してやることもなく、今年もこの時期がやってきたんだなと震災の番組を眺めていた。 

僕は昔から思い立ったらすぐ行動に移したり、気になったらすぐに調べたり、とりあえず動いてから考えるタイプだった。自宅療養にも少し飽きていた僕は気付けば、2日後には車を走らせ、福島に向かっていた。

なぜ福島に行ったのか。なぜこのタイミングで行ったのか。

行った理由としては単純だった。TVでずっと流れているニュース映像、リポーターやコメンテーターの話す内容や言葉、それらを自分の目で見て、自分で感じたかった。あんなにも大きな出来事が自分の国で起きたのにTVを通したことしか知らないままにしておくことが何となく嫌になった。

そしてなぜ震災当時ではなく、この5年目だったのか。
節目の5年というタイミングもあったけど、正直に言えば、それまでは行くのが怖かった。2011年当時は見えない放射能に怯えていたからだ。東京も混乱に陥っていた。東京まで放射能で汚染されるから逃げ場がない、物流が止まるという恐れから買い占めに走る人達でスーパーからほぼ全ての品物がなくなるなど、様々な憶測や情報が錯綜していた。東京の電力は福島第1原発で賄っていたこともあり、電力が足りず、東京を含めて関東は計画停電という名のもとに時間帯によって毎日2時間ほど停電になるなど、世間は異様な雰囲気に包まれた。
また僕がその当時働いていたお店は9割が外国人で成り立っていたお店で観光客や在日外国人は一気に日本からいなくなったことによりお店が潰れる寸前まで売り上げが落ち込んだ。今日のパンデミック以上に日本から外国人が消え、僕の周りの日本人でさえ、海外に移動したり、関東から離れた人達さえいた。僕自身も海外の友達から落ち着くまでこっちに来ればいいと言われるぐらいあの時期の日本は福島第一原発の恐怖に揺れていた。

その反面、対岸の火事のような感覚もあったことは否めない。いくら先に述べたようなことがあったとはいえ、東京では少しの我慢だけで衣食住があり、生活はいつもどおり送れたからだ。

今振り返ると自宅療養してTVを見る退屈な時間を送っていなければ、福島に行かなかったかもしれないが、それは今となっては分からない。

2016年3月13日。計画性もあまりないため、とりあえず福島第1原発に近い地域に行くことしか考えておらず、下調べもしないまま、福島の沿岸部に朝方着いた。

既に沿岸部は更地になっていていくつかの家が残っているだけだった。車を停め、家を近くまで見に行くと民家は荒れ果てていた。壁は朽ち果て、ガラスは割れ、破れたカーテンは風でバタバタと音を立てていた。周囲には誰1人おらず、更地となった沿岸部は海からの風を遮ることもなく、カーテンのバタバタする音だけがその辺りに鳴り響いていた。その異様な光景と風の轟音、そこに一人でいる孤独感に続いて津波の映像が頭によぎり、一瞬でその場にいるのが怖くなり、すぐに車に乗ってその場を後にした。

5年経ったとはいえ、福島第1原発周辺の道路は通行止めでどこもかしこも迂回させられた。いわゆる許可がないと入れない帰宅困難地域だ。その当時、その辺りには原発作業のトラック、業者関係の車だけが行き交い、一般市民の車は全く見かけなかった。僕のような取材陣でもない品川ナンバーを運転している車は向かう箇所箇所で何か場違いな視線を送られたのを覚えている。

土地勘もないまま当てもなく、車を運転していたところ、たまたま通りかかったのが浪江町の権現堂というところだった。二車線の道路を挟み、家がいくつも建っているごく普通の街並みだ。ただ、運転していて何か違和感を覚えたので車をふと停めた。車を降りるとそこから見える全ての信号が点滅し、辺りには人の気配がなく、車が通ることさえなかった。一言で言えば、ゴーストタウンだった。町並みは普通なのに誰もいない。家と家の間のどこまでも続く脇道を注視しても人の気配が全くない。スーパーを覗けば、何もかもが残されたままだった。映画でよくあるたった一人世界に取り残されたような感覚に陥った。

国道沿いのスーパー

- 人が誰もいなくなった街 -

その意味を本当に理解した。頭では分かっていたつもりではあったけど、東京で暮らす僕には全く想像しない、TVで見聞きしていたものとはまた違う現実がそこにはあった。

野球の春の選抜まで残り42日だったのだろう。
数字だけが取り残されている。
高校の部室は11年前からそのままだ。
11年間置かれたお弁当だろうか。
本当にそのまま時間が止まっている。

僕は福島に縁もゆかりもない。震災前にも旅行で行ったことさえないし、地理さえあまり分かっていなかった。そんな人間がなぜ幾度と無く足しげく通うのか。

それは一度でもあの風景、現状を見てしまうと自分の心に刻まれてしまう。そんなに大それたことじゃなくても良い。何か自分にできる事はないか。そんな思いが頭の片隅に常にある。

去年、震災10年目の年に改めて自分でできる事は何なのだろうと考えたときにやはり作品として残せないかと思った。地震や津波だけであれば10年後にはその土地や建物の復興はある程度できると思う。ただ福島沿岸部はそれとは違い、本当であればそこにあった人や生活、時間がすっぽりとなくなり、空白となっている。
もし自分の生まれ育った街から強制的に離れざるを得なくなり、時間も思い出も全てを置き去りにせざるを得ないこと。それを想像するだけで心が痛く、居た堪れない気持ちになる。

その木は枯れてもなお、力強く立っていた。
今も毎日登下校する子供達がそこにはいたはずだ。
この後ろには校舎があった。

自分の写真で世の中を変えようなどそんな烏滸がましいことを思いもしない。被災者の声を皆に届けようなどそんな偉そうなことも僕には言えない。

ただ、

自分が行って、見て、感じたことを写真と言葉で伝えること。

自分ができることを、自分ができる範囲で、自分から行動する。

僕はそれだけを大切にしている。

春になると人がいない街で桜だけは強く咲き続けている

今年で震災から11年目。福島沿岸部は少しずつ変わってきた気がする。
以前に比べて帰宅困難地域が解除されたところもあり、今まで見ることがなかった住民の住んでいる気配があったり、飲食店などのお店も増えてきた。ただ僕はあくまでも表面的な部分しか見れていないのではっきりとは言えないが、それでもその多くは一般住民というより原発関係であろう作業着を着た人が多く、車を運転していてもトラックなどが9割を占める印象だ。

今回の遠征で街が変わってきたというのは良い印象と悪い印象、二つの側面があった。
以前は家が多く残っていたのにそれらの多くは取り壊され、空き地や塀だけが取り残されているところが増えていた。人は住んでいないものの以前そこにあった街並みはなく、いくつかの家がポツンポツンとすきっ歯のように点在するだけで空き地が多く目立っていた。

やはり街が死んでいる。そう思った。

世間では復興を。とか、街の再建を。などと言っているが、果たしてこの街は復興するのだろうか。そもそもこの先、こんな現状の街を復興させることが優先することなのだろうか。正直に僕はそう思ってしまった。それはお金をかけるのは場所ではなく、人に対してなのではないかということ。

この11年で移住を余儀なくされた人々は今いる土地で新たな生活を送っている。今更ながら未だに原発の恐怖が消えない土地で、以前と比べて人がほとんどいない街にまた戻れるのだろうか。こんな状況で戻りたいのだろうか。

「この11年で移住を余儀なくされた人々は今いる土地で新たな生活を送っている」僕はそんなことを軽く言ってしまっているが、11年経った今でも全く前に進めていない人たちがいるだろう。家族や友人を亡くし、強制的に移住させられ、前に進もうとも進めない。そんな人達は人知れず、今も必死に生きている。

- 自分の家に帰るのに許可がいる

あれから10年って言うけど、まだ何も終わっていない -

冒頭に述べた言葉はそういった人達から聞かされた言葉だ。

復興という言葉は誰のためなのだろうか。復興という言葉は何を指すのか。

何が正解で何が不正解か。何がその人の為になって、何がその人の苦痛になるのか。答えは一つではなく、見る方向や立場によってその道筋は幾重にも変わる。

また今回の訪問で改めて考えさせられたと同時に自分は今まで暗い部分しか焦点を当てられていなかったのではないかと思う。福島をはじめ、被災地である東北全体の未来を考えると伝えられることは伝えつつ、この先はもっと明るい面を写真を通して伝えられたらと思う。

まだまだ他にも色々な思いや書き記したいことがあるけど、長くなってしまったので今回はここまでにしよう。

最後に福島の海は今年も穏やかで本当に綺麗だった。


写真家 / 石橋純

東京を拠点に世界中を飛び回り、海外に行く度に様々な国や地域の自然に触れ、その美しさをカメラに収めていくことに喜びを感じ、写真家を志す。
海外の自然から改めて日本の自然の美しさに気付かされ、登山家としても活動。Canon Image Gateway写真展 [極楽・風景時間]では数ある風景写真の中から10人のトリを飾る。
被写体は自然などの風景はもとより、東京・青山にあるBlue Note Tokyoではオフィシャルカメラマンとしてトップアーティストを撮影し、国内外モデルのポートレイトやストリート写真、 雑誌やカメラ機材のレビュー、メッセージ性を込めたアート作品を撮影するなど幅広いジャンルを独自の感性で撮影するフォトグラファーである。
また、ユネスコの無形文化遺産であるブラジルの伝統芸能「カポエイラ」を23年学び、Contra Mestre (副師範)の位を持つ。15年以上を子供から大人まで国内外で教えながら、TVやCM、アーティストのMVや広告などでカポエイラの監修や指導、そして自身もパフォーマー兼モデルとして活動する。

After taking up hiking and realizing how magnificent nature is in Japan, Tokyo-based photographer, Jun, enjoys capturing its beauty through photographs in his home country and abroad. Besides nature, his work covers a wide range of genres such as landscape, portrait, artwork, and street photography.

In addition, for more than two decades, he has been a practitioner of Capoeira, an Afro-Brazilian martial art recognized as a UNESCO Intangible Cultural Heritage of Humanity, and has risen to the rank of Contra Mestre.


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