政治的なことは、個人的なことである。~あまりに多元的な現代社会への一考~

1.多元的過ぎる社会

 先月、統一地方選挙が行われた。さまざまな候補者が、全国各地で自分たちの主張を行い、有権者が投票した。そして、(特に若者の)投票率の低さが今回も嘆かれ、恒例行事と化している。(若者の投票率は、相対的に見れば何十年も前から割合としては常に低いのだが、この「最近の若者は投票しない」という評価が妥当かどうかは、また記すことにする)
 しかし、私たちは何を指標にして投票をするだろうか。LGBTQを始めとするジェンダー関連の問題、在日外国人の問題、自然環境の問題、賃金の問題、労働環境の問題、教育の問題・・・。候補者たちは、多種多様な問題を取り上げて、その解決をすると訴えたはずだ。
 しかし、こうした問題は複雑に入り組んでいる。例えば、LGBTQに関しても大きく取り上げてほしい当事者がいる一方で、ただ他の人と平穏に暮らしたいだけの当事者もいる。そうした当事者であれば、大きく取り上げられることを良しとはしないだろう。(何かのタイミングで当事者であることが「バレて」しまった時、差別の目であれ、配慮の目であれ、今までと同じ生活は困難になってしまうからだ)
 また教育問題についても、教員の労働時間の問題(労働環境に関連)や、モンスターペアレントの問題(家政の問題や性別役割分業の問題などに関連)や、ブラック校則の問題(人権問題などに関連)など、そこからさらに数多くの分類をすることが出来る。
 以上のように、幅広く複雑に入り組んだ社会の中で、一体誰に一票を投じるべきなのか。指標がさまざま過ぎて困惑し(もしくは投票しても変わらないと絶望し)、結局行かなかったという人もいるのではないだろうか。それが、低い投票率の一因となっている気がして仕方がない。
 これまでの政治が何も変わっていないと感じるのも、政治に求めることが多種多様すぎるということもあるだろう。このような多元的過ぎる社会においては、これまでの政治の形では、全員に対して「変わった」と思われる社会には出来ない。

2.任せていたことを自分でも考えるしかない

 では、これからどうすればいいか。正解は分からない。しかし、確実にしなければならないのは、今まで政治や行政に任せていた部分を自分たちでも考えるということだ。
 現在では、「政治参加=投票」という人が多いはずだ。確かに、投票行為は政治参加として重要なポジションにある。しかし、それだけではこれからは不十分となる。投票後の政治、行政の動きをチェックして、何かよりよくすることは何かを考えて、思いついたらそれを提案する。もしくは、自分たちの周りの人と協力して、そうしたアイデアを実現できるか試す。そうしたような動きもこれからは必要となってくるだろう。
 以上のことは何も大きなことではなくても良い。例えば、在日外国人の問題であれば、友人が外国人を差別するような言葉を使った時、それは違うと教えることもその1つである。(もちろん、自分が言わないようにするのは前提である)
 そのようにして、現在の社会問題をそれぞれの個人の問題として落とし込めれば、みんなが良い方向へ「変わった」と感じられる社会と進めていけるのではないだろうか。

3.最後に

 この文には「政治的なことは個人的なことである」という題をつけた。お気づきかもしれないが、これは「個人的なことは政治的なことである」という、フェミニズムにおいてとても有名な文言からつけている。これは、それまでの社会で見えづらかった「女性」という規範の中の苦しみを、個人で片付けるのではなく、社会として考えようとする言葉である。
 今回述べてきたことも、これと似たようなところがある。どうしてもこれまでの政治は、投票に重きが置かれすぎていなかったか。それ以降の政治家の動きをどこまで知っているか。本来私たちが動かしていくはずのものを、「政治家の問題」として片づけてはいなかったか。
 そうしたところを見直し、もう1度個人の問題として捉える。そして、社会としてそうした問題を改めて考え直す。これからの政治が求められるのは、その部分である。

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