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旅の終わりと京のものづくり体験 #16

東海道を歩いて、ようやく京都までたどり着いた。総距離約500km、総数22日の旅だった。

ゴールの三条大橋に着いた時の感動は言葉に表せないほどだった。わたしはしばらくの間、呆然と橋に立ち尽くした。

ここで問題が発生した。わたしは燃え尽き症候群にかかってしまったのだ。

この一年間、京都に着くことだけを目標にひたすら歩いて来た。しかしその目標が達成された今、何をやればいいんだろう。

その時の自分は全身から力が抜けて、歩く力すら湧いてこないような状態だった。

とりあえず事前に「組紐づくり」と「箸づくり」の予約をしていたので、京のものづくりでお茶を濁すことにした。

まず向かったのは組紐作りのお店。初老の男性講師が紐の編み方を教えてくれた。

組紐というと複雑な編み方をイメージしていたが、初心者向けの場合はとても簡単だった。

組紐作りでは丸台という、中央に穴が空いた台が用意されている。台の外側には糸が巻かれた木の玉が4つセットされており、これを組玉と呼ぶ。

その組玉を、まずは「左上と右下」、次は「右上と左下」という順番で右回りに移動させる。すると穴の中心にセットされた糸が自然に編まれていくのだ。

30分ほどで作業は完了。講師の人が編んだ糸に金具をつけて、ブレスレットに加工してくれた。

さっそくブレスレットを手に付けてみる。糸の色は「青・水色・黄緑・金色」の4色で、涼しさにあふれた色合いだ。

組紐をよく見るとそれぞれの糸が緻密に編み込まれているのがわかる。大人が着けても違和感がない、落ち着いた一品だった。

教室にはわたしの他に学生カップルが参加していた。仲睦まじく組紐作りをしている二人を見て、急に自分の恰好が恥ずかしくなった。

その時、わたしはジャージ姿だったのだ。

理由はこうである。無事に京都にたどり着くことだけを考えていたわたしは荷物を軽量化させるため、最低限の持ち物しか用意していなかった。そのためジャージしか着るものがなかったのだ。今考えるとかなり非常識である。

京都滞在最終日。わたしは箸作りを体験をするためにある工房へ向かった。もちろんジャージ姿だ。

そこは友禅染や箸づくりなどを開催している町工房だ。明治時代に創業したその工房は和の情緒にあふれていた。

テーブルに着くと箸の材料である木の棒を渡される。木材は京都の銘木、北山杉を使用しているとのこと。

「箸は四角い箸と丸い箸がありますが、どちらにデザインしますか?」
講師の人に聞かれたので、わたしは丸い箸を作ることにした。

作業には「豆かんな」というハンディサイズのかんなを使う。

さっそく豆かんなを使ってみる。シャーっという小気味よい音と共に木が削れると、杉の上品な香りがあたりに漂う。

まずは持ち手の部分から削っていく。木は四角くカットされており、丸みを出すのはなかなか技術のいる作業だった。

続いて箸先の部分。持ち手の部分は太く、先は細くしなければならないのだが、棒を先細りさせるのはけっこう難しかった。

工房は静かで、かんなで木を削る音だけが響く。

ずっとかんなを持っているうちに、指が筋肉痛になってしまった。わたしは時折休憩を挟みながら作業を続けた。

削りの作業は2時間続いた。かなり地味な作業だが、これが全く飽きなかった。

何度も細かい部分を削って手直しをすると、ついに箸が完成。

後日、完成した箸を使ってみたが、とても使いやすかった。

北山杉の箸はとても軽く、持っていると実感がないほどで、すいすいと箸運びができる。
そしてほんのりと漂う杉の香りもいい。食事の邪魔をしないさりげない香りを楽しめる。

箸が完成したら箸袋を友禅で染める。箸作りのおまけかと思っていたが、この作業も楽しかった。

友禅染では絵が描かれた型が用意されている。わたしは「富士山と月」「川ともみじ」の型を選んだ。

箸袋に型を当てると、刷毛で染料を塗っていく。

友禅の染料は化学染料とは違う、独特な色の深みがあった。何度も塗ることで厚みが出るので、コントラストを表現するのが楽しい。

わたしが富士山の頂上を青く塗っていた時のことだった。間違って刷毛が当たり、月まで青く塗ってしまった。

ああ、失敗してしまった。

あわてて月を黄色い染料で塗りなおすと、嬉しいことが起きた。

青く塗った部分がもやになって、おぼろ月のような色合いになったのだ。失敗が思いも寄らないデザインを生んだ瞬間だった。

川ともみじの型もうまく塗れた。もみじの色を一部薄く塗ることで、紅葉に染まりかけた葉を表現できたのだ。

箸づくりが終わるとわたしは駅に向かった。そして売店で会社の人と家族に「そばぼうろ」と「生八つ橋」を買った。

おみやげを買うともう本当にやることがなくなったので、新幹線に乗って東京に帰った。

車窓の景色を眺めていると、ときおり自分が歩いた道を見かけることがあった。新幹線なら2時間で行ける道のりを、よくもあんなに時間をかけて歩いたものだとしみじみする。

東京駅で降りると日本橋まで歩いた。そして西の方角に向かって立つ。すると自分の意識が地続きになって伸びていき、京都まで伝わっていくのを感じた。

――この道をひたすら歩き続けると、京都まで行ける。

信じられない思いだった。しかし、自分は確かにそれをやってのけたのだ。

旅の途中では「こんなに辛い思いをして、いったい何になるのだろう」という葛藤を何度も感じた。

しかし、こうして旅を終えた今ならわかる。これから先の人生で、たった一回でも

「あの旅は楽しかったな」と思い返すことがあれば、それだけで十分なのだ。


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