【試し読み】岸辺露伴は嗤わない 短編小説集
『岸辺露伴は嗤わない 短編小説集』発売を記念して、冒頭の試し読みを公開させていただきます!
あらすじ
それでは物語をお楽しみください。
曰くのない人形
ここイタリアには〈泥棒市〉というものがある。
いわゆる蚤の市だが、他の地域で見かけられる市よりも雑多で、何より行儀が悪い。
歴史ある都市に相応しく、結構なアンティークも並んでいるが、その名の通り、拾い物や盗品、コピー品なども平気で並べられている。ごく一部の良心的な商人と、適当なガラクタを売る一般人、ゴミ捨て場から回収した品を扱う賢い露天商、あとは観光客を呼び込む海賊版専門店で構成された市だ。
置いてあるものといえば、立派そうな小物やオブジェがあったかと思えば、その横に不揃いなカトラリー、ヒビの入ったランプシェード、くすんだ燭台が並ぶ。あるいは積まれた衣服と、持ち帰ることを考えていない家具の山、そして明らかに偽物の宝飾品と紳士靴。
つまり美学のないことが美学。それが〈泥棒市〉だ。
岸辺露伴は漫画家だ。言うまでもなく、といった情報―――。
露伴は〈少年ジャンプ〉で〈ピンクダークの少年〉という作品を連載中の人気漫画家であり、現在は新展開への取材と休暇を兼ねてイタリアへ旅行中だった。
そうして取材先を巡っている時に、露伴は〈泥棒市〉を訪れた。漫画家として当然の興味だった。
「ヒトデ、好き? ねぇ、乾いたヒトデどう?」
商魂たくましい男―――海辺で拾った物を売っているそうだ―――が、先ほどから露伴に話しかけている。だが店先で佇む露伴は明らかに落胆していた。
(なにが〈泥棒市〉だ。普通の市場だろう)
名前に偽りあり、と露伴は思った。
昼間の市場は観光客と地元の人間、そして物売りでごった返しているが、まったく不穏な気配はない。
結局、いくら〈泥棒市〉と呼ばれようが単なる蚤の市だ。表通りに並ぶ露店には、雑多で珍しかろうが、通販で手に入るような品しか並んでいない。
露伴としては〈泥棒市〉の名の通り、一般社会では取り扱えないような品物が多く並ぶ光景を期待していた。
犯罪に用いられたか、犯罪の結果として持ち出された物品。実際に購入するかは別だが、そうした情念にまみれた品が、人間の欲によってあっさり売られている光景が見たい。そう思って、わざわざ足を運んだのだから。
(とはいえ、なんだかんだで楽しんでる僕もいる)
露伴のバッグには今、イタリアで出版されたパスタ専門の写真集が入っている。市場の古本屋で安く購入したものだ。
複雑な思いを抱える露伴。ここで帰るべきか、まだ見て回るかを悩んでいた。
「ねぇ、貝殻は? 綺麗なのあるよ」
先ほどから露天商の男が人懐っこく話しかけてくる。ずっと店先にいるのだから、これは露伴の方が悪い。
「いや、結構だ」
「そう? 綺麗だよ、シャコ貝あるよ」
パカパカと巨大な貝殻を開いてみせる男に対し、露伴は視線を送る。
「なぁ、アンタ。この辺で犯罪に使われた品を売ってる店とかないか? 教えてくれたら、そこのウニの殻か……、よくわからないが、そいつを買ってもいい」
その提案に男は笑顔を作り、嬉しそうにウニの殻を掲げてみせた。
「そういうのならルーチョだ。蛇の入れ墨がある男。あそこの路地を入ったところで店を出してる。ウニの殻、どっちがいい?」
「わかった、ありがとう」
露伴は男にユーロ紙幣を渡すと、ウニの殻を受け取ることなく教えられた通りへ向かった。
(なるほど、こいつは……たしかに〈泥棒市〉らしい)
路地裏に入ると雰囲気が変わり、明らかに観光客向けではない露店が並んでいた。
店先に並ぶのは、どこかから盗んだであろう自転車に、拾い集めた各国紙幣、古い携帯電話などなど。物売りたちも表通りの者たちとは異なり、薄暗い目をして露伴の方を見ていた。
「ルーチョの店ってのは、ここかい?」
やがて目当ての店を見つけ、露伴が近づいていく。
ちょうど額に蛇を這わせた男が、ごわごわしたブルーシートに商品を並べていた。それらの品物に統一感はなく、古本があれば陶器や食器類もあり、子供用の玩具と宝飾品が一緒くたにされている。
「ああ、俺がルーチョさ。中国人……、日本人? あー、誰かから聞いた? ようこそ、歓迎するよ」
ルーチョの言葉は大げさだが、露伴が見たかった〈泥棒市〉として、充分に役目を果たしている。
「じゃあ、このナイフなんか気になるな……。新品とは思えないヤツだ。説明してくれるか。興味がある」
「いいぜ。これは凄いモンだぜ、連続通り魔が使ってた凶器だ。ブスゥッ、ってな。これで五人が殺された」
「こっちの上等な女物の服は?」
「そいつは悲しいね、海に身を投げて死んだ女の服だ。警察の友達が譲ってくれたんだよォ」
「なるほどなァ、あの鍋は!」
「一家心中があった家から持ち出したぜ! 父親がコイツで毒入りシチューを作った。最後の晩餐さ!」
ルーチョは当意即妙に答えてくる。あまりの噓くささに、露伴も思わず笑ってしまうが、一方で興味も湧いてきた。
咄嗟に『曰く』をでっち上げて、彼は商品に付加価値をつけている。露伴のような人間にとっては『曰く』こそが価値になると知っていて、おどろおどろしい由来を語ってくる。噓の出来は悪いが、これこそ露伴が見たいと思っていた〈泥棒市〉の商人だ。
だから、露伴もルーチョの語りをもっと聞きたく思い、その〈人形〉を指さした。
それはくすんだ木彫りのもので、のっぺりした顔には何も描かれておらず、針金で繫がれた腕と足がある。首と両肩、腰に股関節、そして両肘両膝、手首足首、合わせて十四の関節。どこにでもあるような、古びたデッサン人形だった。
「なァ、この〈人形〉は?」
しかし、その言葉を聞いたルーチョがスッと表情を消した。
「いや、それはなんでもない」
落ちくぼんだ目で、ルーチョが露伴を見つめていた。
「なんでもない? 本当に?」
「ああ、それは……なんでもない。本当に『曰く』なんて……、何もない。ただの人形だよ。拾ったんだ」
「おいおい、噓だろォ? これだけ色んな品物があって、コイツだけ―――」
「ないって、言ってるだろッ!」
突如として叫び声を上げ、ルーチョが露伴に突っかかってくる。手を伸ばし、襟首を摑もうとしていた。
しかし、ルーチョの手が露伴の顔に届くことはなかった。彼は体勢を崩し、その場でがっくりと膝を落とす。
その顔に本の如くページが現れ、パラパラとめくられていく。
「〈ヘブンズ・ドアー〉。やれやれ、物騒だな」
露伴のスタンド能力。
自身が描いた漫画―――空中に描くことでも発動可能―――を相手に見せることで、その者の精神を本に変え、辿ってきた経歴や体験、内なる感情を読むことができる。加えて、ページに〈命令〉を書き込めば、その内容に従わせることすら可能。精神の奥に記された言葉は暗示の如く作用し、本人の意思では逆らうことができなくなる。
「さて、せっかくだから確認しておこう」
ブルーシートに並ぶ品物を避けながら、露伴がルーチョのそばへと近寄る。その顔に触れ、頰のページをめくっていく。内容はイタリア語で記述されているが、スタンド発動中の露伴ならば問題なく読める。
「ルーチョ・ポルテッリ。三十九歳、独身……。なになに、〈金槌のルーチョ〉とは俺のこと、だとさ」
露伴がさらにルーチョのページをめくる。すると、つい最近の出来事についての記述なのか、日付と共にルーチョ本人の感情がむき出しになった文章が現れた。
『一週間前だ! この日は最高ォ~。なんたって金持ちの別荘だ! いつもみたいに金槌で窓を割ってやるッ! 高そうなモンは全部もらって売ってやるぜ!』
露伴がページをめくりながら、ふむ、と息を吐く。
「いわゆる別荘荒らしか。ようやく〈泥棒市〉らしくなってきた。ま、僕が警察に突き出す義理もないがな」
そのまま次のページを開いたところで、例の〈人形〉についての記述があった。
『この〈人形〉も持っていこう。ベッドサイドに放置されてたヤツだが、どういうわけか俺のバッグの中に落ちてきた。一緒に持ってってくれ、って感じ。別に高そうなモンでもないが、なんだか気に入った』
見たかった情報だが、本当に『曰く』はないらしい。
もちろんルーチョが気づいていないだけで、この〈人形〉に隠し財産の暗号が書かれているとか、さる芸術家が使っていたとか、そういった『曰く』はあるのかもしれないが。
「せっかく〈泥棒市〉に来たんだから、何かそれらしいモノを買うつもりだった。他はクズばかりだが、いいじゃあないか、興味がある……」
露伴がページを閉じると、ルーチョがハッと目を開ける。
「ああ……、で、えーと」
目覚めたルーチョは直前までの記憶がないようだった。これも露伴が、〈ヘブンズ・ドアー〉で『大人しく岸辺露伴に〈人形〉を売る』という〈命令〉を書き込んだためだ。
「この〈人形〉を買いたいんだが、いくら?」
既に露伴は〈人形〉を買う気でいた。あらゆる商品に『曰く』を作る泥棒が、何一つ『曰く』を付けなかった、という付加価値がある。
「ああ、いいのかい? なんも面白くないぜ。ま、3ユーロってトコ」
「値段交渉の代わりに訊くが、本当に何の『曰く』もないんだな?」
「ああ、本当になんでもないぜ」
それを聞いた露伴が満足げに笑った。
「買った!」
これ以上の掘り出し物もないだろう。そう考え、露伴は気前よく三枚の2ユーロ硬貨をルーチョへ手渡した。
「へへッ、まいどあり~」
こうして〈曰くのない人形〉は露伴の手に渡った。
◇
それから一週間が経った。
日本に帰国した露伴は、杜王町にある自宅兼仕事場に例の〈人形〉を飾っていた。
かといって、露伴が人物のポージングに迷って人形をいじるようなことはない。頭で思い描いた動きは、大胆かつ正確に原稿に落とし込めるからだ。こうして〈人形〉は単なる置物になっているが、漫画家という職業柄、デッサン人形が机にあっても邪魔にならない。ウニの殻よりは、よっぽど。
その日も、露伴は〈人形〉を視界の隅に置きながら原稿を作成していた。
この夏の間、執筆作業を中断していたこともあり、心機一転といった具合だ。とはいえペンが止まるようなこともなく、午前のうちにあらかたの作業は終えられた。
だから、昼食がてらの休憩時間もしっかりと取る。
露伴は冷蔵庫の食材で簡単にオープンサンドを作り、コーヒーも淹れて、それらをリビングまで持っていく。テレビを点け、チャンネルをニュース番組に合わせる。
「む、この味はなかなか……」
イタリア土産のチーズをつまみつつ、露伴はニュース番組を流し見している。世間の動きを仕入れるためだが、あまり印象に残るような内容ではない。
だが、次に聞こえてきたアナウンサーの声に露伴は顔を上げた。
『昨日、イタリアで市街地にトラックが突っ込むという、大きな事故がありました』
テレビに映っていたのは現地で撮られた映像だった。
まず人々のわめき声と悲鳴が聞こえる。カメラは正面を向き、事故現場が映し出された。狭い路地に大型トラックが突っ込んだのか、周囲の家屋が崩れ、壁に車体がめり込んでいる。被害が大きく見えるのは、周囲に散乱する物の多さだった。割れた無数の陶器、大量の衣服、バラバラになった家具、それとヒトデ。
『事故があったのは現地で〈泥棒市〉と呼ばれる区画で、当時、多くの人々が密集していました』
これは、と露伴が顔をしかめる。
テレビに自分の見知った場所が映っている。つい一週間前に自身が訪れた地だ。多くの露天商が頭を抱え、その惨状を遠巻きに眺めていた。
画面がインタビュー映像に変わる。現地の人間が興奮した様子で受け答えしていた。
『暴走トラックだ、真っ昼間に! 商品もメチャクチャだ。でも待ってくれ、これは奇跡なんだ。これだけの被害で死んだのは一人だけ! 運転手すら無傷だ!』
テレビから流れてくる声に露伴は違和感を覚えた。
「今、アイツ、何か変なことを言ったぞ。事故で死者は出てるんだから、奇跡なんてことは……」
画面は再び事故現場を映し出す。
そこは露伴が〈人形〉を買った、あのルーチョが店を構えていた路地裏だった。
「いや、そういうことか。あんな狭い路地にトラックが突っ込んだのに、誰も巻き込まれてない、って、そう言いたいのか。だが、待てよ……」
最も被害の大きな場所が映る。レンガが崩れ、巨大なトラックの車輪の下でごわごわしたブルーシートがめくれている。通り魔のナイフが、自殺した女の服が、毒入りシチューを作った鍋が無惨に散らばっている。
そして、車体と壁に挟まれた何かがダラリと垂れる。
人間の腕だ。そこからドス黒い血が滴り落ち、ブルーシートに溜まっていく。
「死んだ。一人は死んだんだ」
予感めいたものが露伴の脳裏をよぎる。
『この事故による、日本人の被害は確認されておりません』
アナウンサーの言葉を区切りとして、番組は次のニュースに切り替わった。
いくら絵面がショッキングだろうと、遠く離れた国の事故を何度も伝えることはない。まして『不幸な一人』以外は、誰も死んでいないようなものは―――。
露伴は食べかけのオープンサンドを皿に置き、PCがある仕事場へと向かった。インターネットで事故のことを調べるつもりだった。
(僕は別に、旅先で訪れた場所が事故の現場になったことを悲しんでるわけじゃあない……。まして、特定の誰かを心配してるなんてことはない)
PCを操作し、露伴がネット上で情報を集めていく。現地イタリアのニュースサイトに飛ぶと、大々的に事故の様子が取り上げられていた。
(気になるんだ、気がかりと言ってもいい……。これだけの事故が起きて―――)
ニュースサイトには、ただ一人の犠牲者となった人物が写真つきで報じられていた。
額に蛇の入れ墨がある男。ルーチョ・ポルテッリ、その顔。
「やっぱりそうだ! ルーチョ、死んだのは〈金槌のルーチョ〉ッ! あれだけの事故で一人だけ死んだ男ッ!」
思わずのけぞった露伴の視界に、例の〈人形〉があった。
それは何も言わず、ただジットリとした湿気のような雰囲気を帯びて佇んでいる。特にポーズもつけていない、ただ立っているだけの姿。
「単なる〈偶然〉だと……、普通に考えてもだが、そう思える程度だ。何人も犠牲者が出そうな大事故で、たった一人だけ死んだヤツがいる。ただの〈偶然〉だと……」
露伴が〈人形〉に手を伸ばす。
「だが頭のどこかで考えてる……。その〈偶然〉の出どころは、この〈人形〉なんじゃあないか、って」
伸ばされた手が〈人形〉に触れそうになる。
その時、不意にチャイムが鳴った。
◇
何度もチャイムが鳴らされている。
当然のように露伴は居留守を使うが、訪問者が諦めることはなく、次は玄関ドアが叩かれ始めた。
(一体誰だ、こんな時に……。編集者じゃあない。急ぎの原稿はないからな……)
訪問者は一向に帰る気配を見せない。知り合いなら事前に連絡をよこすか、呼びかければいいだけだ。だから訪問者は露伴の知らない人物だろう。
ドアを叩く音が大きくなっていく。まるで吹雪の日に助けを求めるような、言葉にならない必死さを感じる。
(いい加減にしろよな。もう少し続くようなら警察を呼ぶか)
そう思った露伴は、訪問者の正体を探るつもりで玄関へと忍び足で向かった。
露伴は息を殺し、なおも叩かれるドアに身を寄せる。
「ロハンさァん、キシベ・ロハンさァん」
外国なまりのある男の声だった。痰のからんだ嗄れ声だから、いくらか老齢だろう。
「知ってるんですよォ、出てきてくださァい」
その言葉はイタリア語で話されていた。思わず露伴が顔をしかめる。
まさか旅行先で出会った人物が訪れたのか、それとも忘れ物を届けに来た親切な人間か。様々な理由が思い当たるが、このタイミングでイタリアから来た者がいるとすれば―――。
「ロハンさん、〈人形〉持ってますよねェ。ロハンさァん……」
次にチャイムが響いた瞬間、露伴はドアを開いた。
玄関先にいたのはスーツ姿の小柄な老紳士だった。先ほどの荒々しい行動とは打って変わって、彼は満面の笑みを浮かべ、露伴に握手を求めようとしてくる。対する露伴は空中に手を振りかざし、有無を言わさず〈ヘブンズ・ドアー〉を発動させた。
老紳士の顔が本となって後ろへと倒れた。
「人が見たら、ビビってるだとか、警戒しすぎって思われるかもな。でも用心はする、しっかりと……」
露伴はゆったりと老紳士へ近づく。
老紳士の服装はしっかりとしており、縞のスーツも革靴も上等なブランド物だった。彫りの深い顔は柔和で、豊かな白髪もきっちりと揃えられている。苦労のない身分のようだった。
「バジリオ・ピスタリーノ、六十七歳。ローマ在住……。大手飲料メーカーの元最高執行責任者……」
露伴が老紳士―――ピスタリーノの頰に手を当て、その経歴が記されたページをめくっていく。
「コイツは、スタンド使いじゃあない……。だが、あの〈人形〉を追ってイタリアから来た」
やがて目当てのページに行き当たり、露伴はその内容を注意深く読んでいく。
『最悪だッ! 別荘荒らしのせいで! 金目のモノなら買い直せばいい、だが〈人形〉はダメなんだ……。警察にも頼れない……』
イタリア語で荒々しく記された記憶。ピスタリーノが〈人形〉に強く執着している様子が読み取れた。
『私はマフィアを使って調べさせた。どうやら〈泥棒市〉のルーチョが〈人形〉を日本人に売ったらしい……。さらにタクシーの運転手やホテルの従業員の情報から、そいつが漫画家のキシベ・ロハンだとわかった。なんとかして取り戻さなくては……』
露伴がページをめくろうとする。その時、不意に閃くものがあった。
「なるほどな、コイツはルーチョの被害者なのか。それで盗まれた〈人形〉を追って、わざわざ遠く離れた日本までやってきた……。その行動力、何がそうさせるのか、気になってきた……」
ペンを胸ポケットから取り出すと、露伴はピスタリーノのページに『岸辺露伴の質問に噓をつかず対応する』と書き加えた。
「このまま読み進めてもいいが、あえて本人の口から聞いてみたい。あの〈人形〉につきまとう『曰く』というものを」
パタン、と本が閉じられた。
露伴が背を向けたところで、ピスタリーノが目を覚ました。
「ようこそ、ピスタリーノ氏。僕が岸辺露伴だ」
「あ、ああ……、自己紹介したかな?」
本にされていた間の記憶はない。ピスタリーノは玄関先に突っ立っている自分を意識したのか、慌てて取り繕い、再び手を差し出してくる。
今度は、露伴もその手を握り返した。
◇
露伴はピスタリーノを自宅に招くことにした。
廊下を通り、露伴自らが客人を案内していく。仕事場まで入らせることにいささか躊躇したが、肝心の〈人形〉があった方が話しやすい。全ては彼から『曰く』を訊き出すためだった。
「ロハンさん、私は―――」
二階の仕事場に入ったところで、露伴は後方のソファをピスタリーノに勧めた。そのまま自身は仕事机に備えた椅子に腰かける。
「余計な前置きは結構。アンタは〈人形〉の持ち主だった。それを取り戻すために日本まで来た。それも一人で。―――ところでコーヒーでも? あまり長居はしたくないだろうが」
「いえ、こちらも結構。仰る通り、なるべく早く済ませたいのです」
ピスタリーノの意を汲み、露伴は机に置きっぱなしの〈人形〉を手に取った。
「コレ、そんなに大事なものなのか……」
これ見よがしに露伴が〈人形〉を振ってみせると、ピスタリーノが目の色を変えた。
「ああ、〈人形〉だッ!」
「おっと!」
小柄なピスタリーノが猛獣の如くソファから飛びかかる。露伴の手にある〈人形〉を奪い取ろうとしたが、それは呆気なく防がれた。
「待ってくれ、ピスタリーノ氏。これは僕が対価を払って手に入れたものだ。今の〈所有権〉は僕にある」
「そ、そうとも、君に〈所有権〉がある……。だが、それを私に譲って欲しいのだ。金ならいくらでも払う」
「実に金持ちらしいセリフだ。聞き飽きるほどにね」
目の前の老紳士に奪われまいと、露伴が〈人形〉を高く掲げた。
「別に〈人形〉は譲ってもいい。でもなァ、その代わりに聞きたいことがあるんだ。少しいいかい?」
ピスタリーノは荒く息を吐き、威嚇するように下から露伴を見上げている。あまりに必死な表情。まるで中毒者がヤクを求めるような、あるいは砂漠で一滴の水を欲するような。
だからこそ露伴は、その渇望の理由を知りたいと思った。
「あくまで想像なんだが、この〈人形〉には僕の知らない『曰く』があるんじゃあないか? でなけりゃ、ここまで〈人形〉に執着するってのは、ちと異常だぜ」
その質問を受け、ピスタリーノは姿勢を正して前を向いた。先ほど、〈ヘブンズ・ドアー〉で書き込んだ効果が現れたようだった。
「いや、何もない。『曰く』なんて、何も」
「はぁ?」
返ってきた答えは、以前に〈泥棒市〉でルーチョから聞いたものと同じだった。しかし、今回に限って〈噓〉はあり得ない。少なくとも、ピスタリーノは『曰く』がないことを〈真実〉だと思っている。
もちろん、それに納得できる露伴ではない。
「僕の訊き方が悪かったか? つまり『曰く』ってのは、実は有名作家の作品でしたとか、中に宝石が入ってるとか、そういう直接的なものでなくてもいいんだ。持ってると金が舞い込む気がするとか、セクシーな美女にモテまくるとか、逆に〈不運〉になるとか……。そういう感覚的なものでも、何か『曰く』はないか、って訊いてるんだ」
懇切丁寧に説明する露伴だが、対するピスタリーノは首を横に振るだけだった。
「ないんだ、本当に……。『曰く』なんて。私は〈人形〉を手に入れたから金持ちになったんじゃあない。もとから仕事は順調で、地位と名誉を手に入れた後に〈人形〉を手に入れた。むしろ、浮き沈みなんてまったくなかった」
ピスタリーノが痛みに堪えるように顔を歪ませる。
「これはなぜなのかわからない。〈所有権〉のある君には、多分わからないし、本当は私もわかっていないかもしれない……」
やけに持って回った言い方だった。しかし、今にも泣きそうな老紳士の姿に、何か〈真実〉めいた、伝えたくても伝えられない感情が滲んでいた。
「わかった。もう少し訊き方を変えよう。アンタは〈人形〉を取り戻さないと、何かマズいことになるのか?」
「わからない。それも……」
「じゃあ、もっと簡単な質問にしよう。アンタは〈人形〉をどうやって手に入れた? どこかで買ったのか?」
ああ、とピスタリーノが表情を明るくさせた。ようやく答えられるとばかりに、大げさな身振りで話し始める。
「買ってはいない。友人から譲ってもらったんだ。若い頃からの友人で、彼はフィレンツェの絵描きだった。だから、多分だが、彼は普通のデッサン人形として〈人形〉を購入したはずだ」
「ほう、その友人とやらに詳しい話は聞けないのかい?」
「聞けないんだ」
不意にピスタリーノは目を見開き、その場で膝をついて顔を覆った。
「彼は死んでしまった……。自らのアトリエで一人、絵筆を眼球に突き刺してッ!」
「オイオイオイ、待ってくれ。あるじゃあないか……、ちゃんとした『曰く』ってヤツが。この〈人形〉を持っていた人間が、その絵描きとルーチョ、もう二人も死んでいるんだぜ」
露伴は改めて、自らが手にする〈人形〉を観察した。
なめらかな木の質感。どこにでもあるようなデッサン人形。しかし、由来を知ると不気味に見えてくる。
「例えば、アメリカのスミソニアン博物館にあるらしいな、持ち主が次々と死ぬ〈呪われた宝石〉というのが……。この〈人形〉も、そういった『曰く』を持っているんじゃあないのか?」
「違うッ! そういう『曰く』はないんだ……」
ピスタリーノの顔を覆う手に隙間が生まれる。その奥にある暗い目が露伴を見ていた。
「その〈人形〉をもらったのは四年前で……、私の友人が死んだのは一年前だ! あらかじめ君の疑問に答えるが、彼は〈人形〉を手放したからって生活が変わったりもしていない。死んだのも事故だ。転んだ拍子に、筆立てへ顔面から突っ込んだらしい……」
ボソボソとピスタリーノが〈人形〉の経歴を語ってくる。その間も、露伴は〈人形〉をまじまじと見ていた。
この時、露伴は油断していたのかもしれない。社会的地位のある老紳士が、まさか暴力に訴えてくることはないだろう、と。
だから、一瞬ではあったが、背を向けてしまった。何気なく〈人形〉を窓から漏れる光にかざしていた。
「ま、そうなんだろうさ。持ち主が次々と死ぬ、呪われた〈人形〉だとして、それを取り戻したいっていうのも奇妙な話だ。理由があるとしたら―――」
露伴が振り返ると、老紳士が小さな体を折り曲げていた。
クラウチングスタートの要領で足に力を入れると、まるでロケットが飛び出すように、ピスタリーノが一直線に露伴へと突っ込んでくる。
「ハッ!?」
小さな砲弾となったピスタリーノが露伴の体を押し倒す。二人まとめて仕事机に衝突し、筆記具が周囲に散らばった。
「ウウウッ! 〈人形〉をよこせッ!」
この老体のどこに力が秘められているのか、ピスタリーノは露伴の襟元を両手で摑み、全身の体重を乗せてくる。
「まだ三年以上あるが、これが〈残り時間〉なんだッ! 毎日見せられて、耐えられない! 早くしろ!」
意味不明な言葉を吐きながら、ピスタリーノは鬼の形相で露伴を絞め上げてくる。利き手で〈人形〉を持っているから、咄嗟に〈ヘブンズ・ドアー〉で反撃することもできない。
倒れたまま露伴は思考する。喉元を絞められているから、満足に声も出せない。自由な足で蹴り上げれば解放できるだろうが―――。
(荒っぽいやり方は好みじゃないが……)
やむを得ない判断だった。露伴は左足を床につけたまま、右膝でピスタリーノの下腹部を打った。
「グゲッ!」
くぐもった呻き声。露伴の体からピスタリーノが離れ、作業机の上まで吹っ飛んでいく。
だがピスタリーノの執念―――、恥も外聞もない生命への執着心が、この一時、冷静な露伴の思考を上回った。
「取った! 〈人形〉だッ!」
あっ、と露伴が自身の手を見る。それまで握っていたはずの〈人形〉は失われている。足に意識をやった瞬間に奪われたのだ。
仕事机の上で咆哮するピスタリーノ。その手が高く掲げられ、戦利品たる〈人形〉を示した。
「キャホホッ! これで〈所有権〉が移ったァッ!」
露伴は持ち直し、即座に〈ヘブンズ・ドアー〉を再発動させようと手を伸ばす。
しかし、ピスタリーノはサルのような動きで跳躍すると、壁際の本棚に指をかけて弾みをつけ、露伴の頭上を越えていく。それを目で追うように振り返るが、老紳士は早々に仕事場から逃げ出し、バタバタと廊下を駆けていった。
「別に〈人形〉は返すつもりだった。『曰く』さえ聞ければ良かった。だが、なんだ、あの異様な執着心は……?」
露伴は息を整えつつ、ピスタリーノの去っていった方を見た。
「まだ全てを聞けていない。きっと隠された『曰く』がある!」
その時、露伴の視界の端に奇妙なものが現れていた。
だが露伴は未だに気づいていない。ピスタリーノを追うために駆け出していたからだ。―――だから、視界後方から追ってくるデジタル時計のような物体は目に入らない。
カチッ、と音が響き、虚空に浮かぶ時計が変化した。33の表記が32に減少する。
残り時間は『6日と12時間32分』……。
読んでいただきありがとうございました!
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