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【短編】テールスライドを食らえ

半田畔さんから短編の原稿を頂きました! 北國先生に続いて、スポーツ×恋愛が依頼内容です。半田さんが選んだスポーツはサーフィン……コロナ禍で久しく忘れていた海の情景がよみがえる、素敵な短編です。半田先生は『ひまりの一打(集英社文庫)』も絶賛発売中!! ゴルフ小説に挑戦しております!! 半田さんは実はJブックス新人賞出身。インタビュー記事も掲載しますので応募者の方、見てみてください!

作者プロフィール

半田畔(はんだほとり)

2012年、ジャンプ小説新人賞銀賞を音七畔名義で受賞、『5ミニッツ4エヴァ―』でデビュー。2015年に「風見夜子の死体見聞」が富士見ラノベ文芸大賞・金賞を受賞、同作を刊行、以後半田畔名義で活動。一迅社文庫大賞の審査員特別賞を受賞、『人魚に嘘はつけない』を刊行する。集英社文庫『ひまりの一打』など著作多数。


テールスライドを食らえ


 大吉は波に殺された。大吉というのはわたしの恋人で、プロになって三年目のサーファーだった。
 出場するはずだった大会の三日前に、荒れた海に漕ぎだし、そのまま帰ってこなかった。波が好きな彼は、よりにもよってその一番大好きなものに命を奪われた。ぜんぜん大吉じゃない。凶だった。大凶だった。
 彼の「波」好きは徹底していて、海の家でバイトをしていたわたしに、最初に声をかけてきたきっかけも、名前に波が入っているからという単純な理由だった。彼はわたしのつけたネームプレートを指さし、言ってきた。
「その名前の漢字、なんて読むの? かなみ?」
「はなです。花と波で、花波」
「いい名前。波が入っているのが特にいい」
「よくないですよ。『はな』にしたいなら、花だけでいいのに。わざわざ波までつける。余計ですよ」
海沿いの町で生まれると、高確率で親が海に関する単語を名前につけようとする。もとからその町で育ったひとではなく、都心から越してきた両親にとくに多い。中学校まではクラスに二、三人は「潮音」や「海斗」がいた。高校からは、なるべく陸の奥地を目指して進学したので、海にかかわる単語がついた名前のひとと会うことは少なくなった。だけど大学生になったいまでも、たまにこの、地元コンプレックスのようなものを抱くときがある。彼は初対面からその心のデリケートな部分に、最短距離で触れてきた。
「波がついてるなら、よく泳ぐの?」
「いいえ。偏見です。ご注文は?」
「サーフィンは?」
「海に入るのは好きじゃありません。べたべたになるし、シャワー浴びるのめんどくさいし、すぐ陽に焼けるし」
「残念。一緒にやりたかった」
「サーファーなんですね。ご注文は?」
「練乳かき氷ひとつ」
「サーファーっぽくない」
「偏見だ」
 笑うと、深くも浅くもない、絶妙なえくぼができるひとだった。そのときの最初の会話で、プロのサーファーになって一年目だということを知った。そしてこれ以上深く知りあうこともないだろうと思っていた。軽いし、へらへらしてるし、平気で女を捨てそうだし、車を運転しても、きっと信号無視とか、速度オーバーとか、車内で音楽をがんがん鳴らすとか、そういうことを平気でするようなひとたちの一部だと思っていた。
 大吉がそういう種類のひとではないことを知ったのは、最初のデートに誘われたときのことだった。
「観たい映画があるんだ。一緒に、どうかな」
 陽に焼けた腕を伸ばし、差し出してきたのは映画のチケット。目を合わせようとすると、そらされた。耳のあたりが赤くなっていることにすぐに気づいた。
 二回目のデートで告白されて、そのまま付き合った。彼はわたしの嫌がるようなことは決してしなかった。一緒に海に散歩にでかけることはあっても、無理やりサーフィンに誘ったり、押しつけてきたりするようなことはしなかった。その謙虚さも作戦の一部だったのか、付き合って三か月後にはわたしもサーフボードを手にしていた。彼が知り合いのサーフショップの店員に口利きをして、格安で譲ってもらった。大吉やその店員は、サーフィンの専門用語を丁寧に教えてくれた。そしてわたしは一週間で飽きてやめた。
やっぱり顔は潮風でべたべたするし、髪もごわごわになるし、波が来るたびに海水が喉に入って焼けるような思いをするし、最悪だった。あと、単純にわたしはサーフィンが下手だった。砂浜に戻り、拗ねるわたしを彼の小さな手が撫でてくれた。
「また気が向いたときでいいよ。いつか、一緒に乗れたら最高だ」
「もう乗らない。わたしは砂浜で見てるから、行ってきていいよ」
「いや、悪いよ。着替えて街にでも遊びにいこう」
「ほんとはまだやりたくてしょうがないんでしょ。我慢しなくていいから」
「うん。そうだな、やっぱり我慢はよくないよな」
 砂浜に刺したサーフボードをつかみ、大吉は海に走り出していく。そんな後ろ姿を見て笑う時間が好きだった。水平線に陽が沈んでいくのを眺めながら、波に乗り続ける彼を見るのが好きだった。ボードの上に立ちながら、彼はたまにわたしに手を振ってくれた。
 再び砂浜に戻ってくると、大吉はわざと濡れた髪を振り回して海水を飛ばしてくる。わたしは怒ったふりをするけれど、濡れた犬とじゃれるみたいで楽しかった。
「一緒にやろうな。いつか、乗ろうな」
 そのいつかは永遠に訪れなかった。大吉は波に殺された。
 彼が亡くなって一年近くが経ったころ、わたしはようやく海を見られるようになった。砂浜に下りられるようになるまで、それからさらに二か月ほどかかった。
 そしてわたしはいま、サーフボードを抱えている。


 わたしのサーフィンへの挑戦に、大吉の昔馴染みであるサーフショップ『三好』の店員、みっちゃんが付き添ってくれた。
「本当にやるのか?」
「やるよ。ここまで来て引き返さないよ」
 ウェットスーツに身をつつみ、サーフボードを片手に立つ。五月の海は、海水浴客があふれかえるにはまだ早い。水温は陸地の季節から二か月遅れるというのが、幼いころから聞かされた定説だ。本当かどうかは知らないけど、嘘だとも聞いたことがないから、たぶんそれほど的外れな常識でもないのだろう。とにかく、わたしはいまから、三月の気温のなかに飛び込むことになる。
 海にほとんどひとはいない。ほかのサーファーに迷惑をかけることはないだろう。だいたいのサーファーは、トンネルを越えた向こうの海に行くので、ここはちょっとした穴場のスポットになっている。
「みっちゃん。サーフボードもそろえてくれて、ありがとう」
「去年くらいに買ったやつ、あっただろう」
「あれは大吉のやつと比べて長いから。乗るなら、同じ長さのやつがいい」
「初心者は普通ロングボードを使うんだ。中級者や上級者になると、ミドルレングスやショートボードを使う」
「つまりどういうこと?」
「難しいってこと」
「よかった。不可能って言われるかと思った」
 できないわけじゃない。
ということで、海にいざ前進。同じくウェットスーツに着替えたみっちゃんが、同伴してくれる。どでん、と膨らんだお腹がぴちぴちのスーツに包まれていて、揉みしだきたくなるのをこらえる。
 足を取られる砂浜から、徐々に波打ち際の堅い砂へ。スーツが保護してくれない足に、海水が勢いよく抱きついてくる。足首にまきつけられたリーシュコードと呼ばれる紐が、しっかりとボードにつながっていることを確認する。わたしは飼い主で、この子は大事な犬だ。
足元から海水の冷たさが這い上がってくるが、ここは思い切りよく飛び込み、全身を早々に濡らす。覚悟していたほど冷えることはなく、すぐに体が慣れた。
 ボードに乗り、うつぶせのまま漕いでいく。右手、左手、と順番に水面をかき、進む。波がくれば一度手を止め、やり過ごす。そしてまた沖まで進む。
「上手いじゃないか」横でみっちゃんが褒めてくれた。素直に感心し、驚いてくれていることがわかる。
「前に一度、大吉とやったから」
「にしたって、スムーズなパドリングだ。初心者は沖に向かうまで一苦労ってひともいるんだから」
「たぶん、手が大きいからだよ」
 大吉はわたしの手の大きさも褒めてくれた。サーフィンに有利な手だ、と自分の手とわたしの手を比べて、羨ましがっていた。大吉の手は、一般的な男性の手よりも、少し小さかった。
「でも、ここからわからない。波の乗り方はぜんぜん知らない」
「そもそも、どうしてサーフィンをする気に?」
「わたしがわざわざ海に入る理由は、ひとつしかないよ」
 手伝ってくれるみっちゃんに嘘は言えない。みっちゃんもきっと、大吉のことが理由に関わっているとわかっている。わかっていることをわたしもわかっているので、わざわざ言わない。代わりにこう補足する。
「大吉が亡くなって、去年、わたし就活しなかったでしょ」
「うん」
「で、今年大学卒業して、いま無職でしょ」
「ああ」
「つまりそういうことだよ」
 どういうことだ、とみっちゃんはつっこんでこなかった。こぶりな波がひとつやってきて、二人でやり過ごす。それからまた進む。
 みっちゃんは話題を変える。
「やりたい技があるんだったな」
「うん。なんちゃらテールってやつ」
「『テールスライド』。大吉が一番得意だった技だな」
「それ、それ」
 波がくる。やり過ごす。進む。
「他の技は別にどうでもいい。それだけ身につけたい。それだけやりたい」
「あのな、そういうわけにはいかない。テールスライドをやるためには、いくつかの技術を身につける必要がある。山登りと一緒だ。山頂までの段階がある」
「順序があって、そのために必要なルートがある」
「そういうことだ」
 山頂まで運んでくれるヘリコプターを期待していたが、そんなものはないらしい。
「で、わたしはいまどこらへんにいるの? 山のなかには入れた? 中腹くらいにはきた?」
「とりあえず、やってみればいい。ちょうど良さげな波がきそうだ」
 視線の先、海面が盛り上がってくるのに気づき、見よう見まねで準備する。足をばたつかせ、ボードの向きを変える。陸地のほうに向き、波を背にする。
 タイミングを見計らい、パドリング。このあと大吉はボードの上に立っていた。波の斜面をすべり、上へ下へとジグザグに移動し、波の頂点のところで、ボードのおしりのところを叩きつけながら向きを変え、派手にしぶきをあげて――
「……あ」
 波が行ってしまった。加速が足りなかったらしい。ボードに立つ暇もなく、置いていかれ、さびしく取り残された。陸地近くでしぶきをあげ、そのまま乗るはずだった波が砕けて消える。
 イメージ通りにはいかない。簡単ではないこともわかっていた。そして始めた手前、いまさら不安だとも言えない。前途多難。
「ようこそ、ふもとへ」みっちゃんが笑って言った。
 結局この日、わたしが波をつかむことはできなかった。
 大吉が褒めてくれたこの大きな手は、ことごとく、欲しいものを逃していった。

     *

「やっぱり大きいな、手。羨ましい」
「大吉が小さいんだよ」
 ベッドに寝転びながら大吉が手を重ねてくる。掌同士を合わせると、指の第一関節分、わたしのほうが長く飛び出ている形になる。厚さや幅は同じくらいだけど、指が長い。
「水をかくのにきっと有利だ。すいすい進むぞ、これは」
「もうサーフィンはやらない。この前失敗したから」
「無理にやれとは言わないよ。ただ、武器になると言っただけ」
「それはやれって言ってるんだよ。言ってることになるんだよ」
 つけっぱなしのテレビからは、誰かが辞職したり、交通事故を起こしたり、俳優が電撃結婚をしたり、どこかの会社の車がリコールを起こしたり、アイドルが引退したりするニュースが流れていて、いろいろ大変そうだった。そういう苦労や不幸は、どれもすべて、自分にふりかかることのない出来事だと信じていた。
「花波は大学、卒業したらどうするんだ? どこかに就職?」
「そりゃあ、するでしょう。理由もなく無職ってわけにはいかない」
 大吉は在学中にプロになり、そのまま会社員にはならず、サーファーの道を歩んでいる。この同棲中のマンションの家賃も、七割が彼の負担だ。完全に腰かけてしまっている。
「卒業したら、都内に?」
 重ねていた手を離してくる。そのときになって、大吉の質問の意図をようやく理解した。いま住んでいるこのマンションをどうするのかとか、わたしが通勤の都合上、都心にもっと近い場所に引っ越すことになるとか、そういう心配をしているのだろう。
「就職したら、ここの家賃は折半ね」
 返事のつもりで、そう答えた。サーファーの彼の活動を支えられる存在でありたい。そして自分自身も自立し、社会とかかわれている人間でありたい。
 返事の意味を理解したようで、大吉は安心したように、また、わたしの手に自分の手を重ねてきた。将来の話をしたあとは、何事もなかったかのように、手の話題に戻っていく。
「大きいなぁ」
「もうその話はいいよ」
 過去の自分に会えたら、こう言い聞かせてやるのに。
大きい分だけ、こぼれ落ちたとき、悲しさも重いんだよ。


 台風が去ったあとの海は荒れていることがほとんどだ。それでも大吉はサーフボードを抱えて行ってしまった。三日後に大会が控えていて、その練習を少しでもしておきたいのだと、話していた。玄関で見送りをしていたときも、海のほうからやってくる風が、靴箱の埃を落とすほど強く吹きこんでいた。
「花波は?」
「大学。二限から」
「いってらっしゃい。気をつけて」
「そっちも。夕飯、何かリクエストは?」
「麻婆豆腐がいいな。豆腐が大きくて、あまり辛くないのがいい」
 たぶん、それが最後の会話だったと思う。
 買った豆腐は開けることなく、そのままごみ箱にぶちこまれることになった。彼が見つかったのは翌日の朝だった。犬の散歩をしているお年寄りが、サーフボードと一緒に打ち上げられている大吉を発見した。
 火葬が済んだあと、みっちゃんがこんなことを言っていた。
「わからない。あの大会に、どうしてあんなにムキになってたのか」
「……大事な大会だったんじゃないの?」
「町主催のしょぼい大会だよ。大吉にとってはなんのキャリアにもならない」
 賞金も少ないはずだ、とみっちゃんは答えた。生活の足しに出場するつもりでもなかったらしい。
 大吉はどうして、わざわざ危険な海へ練習に向かったのか。その行動の意味は、いまだに明らかになっていない。

     *

 砂浜で、みっちゃんのスマートフォンを使って動画を確認する。海風のせいで、砂が何度も画面に乗っかり、払いのけるのにうっとうしかった。
 波の斜面をすべっていく大吉が映る。波の底へ向かい、なんらかの体重移動をしたのか、スムーズに切り返す。ボードの先端が波の頂点に向かう。
「これがボトムターン」みっちゃんの解説。
波の頂点に向かうと、また体重移動。底へ。
「トップターン」
 動画を止めて、みっちゃんがさらに続ける。
「見ろ、レールを使ってるんだ。サーフボードの側面の部分。ここを上手く使って、上下移動する。これがレールワーク」
「続きを」
 みっちゃんが画面をタップする。動画が再生される。
 波の頂点に向かい、そのとたん、しぶきがあがる。ボードのおしり、つまりテール部分で、波を蹴るような動作。白く、淡く、波の粒が宙に浮かぶ。画家がカンバスに向かって、絵の具のついた筆を振ったら、あんな模様ができそうだ。
「これがテールスライド」みっちゃんが言った。
「わたしにとっての山頂」
「そういうこと。実際、波の頂上でやる技だな。何度も言うが初心者にこなせる技じゃない。カットバックの延長だと思うと理解が早いが、そのカットバックさえまだ」
「あーはいはい、わかった。完全に理解した」
「してないだろ。してないやつの返事だろ」
 砂浜にぼーっと座っているのもそろそろ限界だった。目の前にこんなに広い練習場があるのに、じっとしていられない。と、こんなことを大吉に聞かせたら、どんな顔をしてくれるだろう。
 砂に刺したボードを引き抜き、リーシュコードをまき直し、海へ向かう。みっちゃんがお腹を揺らしながらついてくる。店番が午後からあるというので、今日挑戦できるのは、実質、あと一回だ。ひとりでの練習はみっちゃんが禁止した。練習に付き添ってもらうときに課された、唯一のルールだった。
「始めて一週間以上経ったし、そろそろ慣れてきたよ」
「かけた時間の長さで努力が報われるなら、おれだってプロになれてるよ」
「そのお腹じゃ無理だね」
 ある程度の深さになり、ボードに乗り、うつぶせのまま漕ぎ進んでいく。右手、左手、と水面をかく。パドリング。まっすぐ進む。なぜかこれだけ上手い。大きな手が有利というのは、本当だったのかもしれない。
 途中、砕けた波が迫ってくる。白い泡ごと迫ってくるこの波をスープと呼ぶらしいが、名前ほどやさしいものではなく、喉に流し込むと大変なことになる。
ボードで乗り越えようとすれば押し戻されてしまう。そういうときは、先端部分を沈め、波の下を潜ってかわす。ドルフィンスルー。これもなぜか、わたしは上手いらしい。波に乗る前の動作ばかり、上達していく。後方で、ドルフィンスルーに失敗したみっちゃんが少し押し戻される。
目標地点につき、波を待つ。うつぶせになっていては、遠くまで見通せないので、ボードに座る形で待機する。始めて数日は、ボードの上に座るのも苦労した。絶妙なバランス感覚が必要になる。透明度があまり高くない海なので、足の部分だけ浸かっていると、何か得体の知れない生物が足をつかんで引きこむんじゃないかと、変な妄想を抱く。
「きたぞ。今日はあれでラストだ」
「うす」
 海面が遠くで盛り上がる。徐々に高くなっていく。頂点の部分が、白く、泡立ち始める。砕けかける前の、最高の状態の波。
 頃合いを見て、足を動かし、ボードの向きを変える。うつぶせに寝転がり、みっちゃんの合図を待つ。
「ゴー」
 パドリング。右手。左手。真下の海面が、ずううう、と浮いていく。体が前に傾く。視界の左側から、波が砕け始めるのが見えた。
 波に置いていかれないよう、必死に漕ぐ。ふと頭に浮かんだのは、インドの駅だった。すでに走り出している電車に、インドのひとたちが次々と飛び乗っていく光景を、前にテレビで観た。あの感覚に似ている気がする。乗り遅れないようにしないといけない。
必要な速度に達したあと、すかさずボードの側面に手を乗せる。立ち上がるとき、ヘリをつかんではいけないと五日目の練習で教わった。そっと体重を乗せて、左の膝を立てる。続くように右膝も。中腰のまま、立ち上がる。テイクオフ。
 ボードが底に向かう。動画のなかでは、大吉がボードのレールを使い、体重移動をして切り返し、波の頂点に向かっていた。ボトムターン。わたしも――
「っ」
 バランスを失い、ボードから足が離れる。波に呑まれ、もみくちゃになる。気分は洗濯機のなか。何か見えない大きな力が、水中に引きずり込んでくる。大吉はこれから逃れられなかった。二度と、空気を吸うことができなくなった。
 ボードにしがみつき、飲んだ海水を吐いていると、みっちゃんがやってきた。
「テイクオフできただけマシだ」
 こちらの成長を褒めているようで、それは暗に、わたしを諦めさせようとしている言葉の一種だとわかった。練習の最中、みっちゃんはこういう類の言葉を時々使ってくる。
「みっちゃんは、わたしに波に乗ってほしくない?」
「そんなことはない。サーファー人口が増えるなら、おれの商売もプラスになる」
 だけど、と続くのを待つ。
ボードに座るみっちゃんがつぶやく。
「あいつが死んで、一年が経って、それでいま、いきなりサーフィンをやるとか言いだして。誰だって不思議に思うだろ」
「わたしが自暴自棄になってるんじゃないかって?」
 見下ろしてくるその目を、彼がそらす。明確に理由を説明したことはなかった。始めたいと相談したときも、特に聞かずにいてくれたから、なんとなく、察してくれているのだと自分勝手に思った。冷静に考えれば、心配をかけて当然だった。
「一応言っておくと、後追いとかじゃないからね」
「どうだかな」
疑念がすぐにぬぐえないのも、無理はなかった。はたから見たら、怖いし、やめさせたくなるのもわかる。
 みっちゃんのボードをつかみ、力をこめる。バランスを失った彼が海のなかに倒れていく。なにするんだ、と抗議するのを無視して、ちょっと真面目に、理由を語る。
「怖かったから。大吉の声を、いつか思い出せなくなるんじゃないかって」
「花波」
「笑った顔とか、会話の内容とか、ぜんぶ薄れていくんじゃないかって。波がぜんぶさらっていくんじゃないかって。それが嫌だった」
 だから思い立った。
 彼が一番好きで、わたしが一番苦手だったものと、向き合うことにした。
「同じボードで、同じ技で。それで波に乗って、彼と同じ景色を見たい。その景色だけは絶対に忘れないようにしようと思ってる。だからこれは、わたしに、必要なこと」
 どこかで波の砕ける音がする。
 陸地に目を向けると、すごく遠くに感じた。

     *

 沖合にいる大吉が、ボードでぷかぷか浮きながら、手を振ってくる。表情は見えないが、かろうじてその動きはわかった。振り返すと、彼が手を止める。もう一本くらい、波に乗ってから戻ってくるのかなと思っていたら、それからすぐ、浜に引き返してきた。
 お腹がすいたのかもしれないと予想し、ランチボックスを開ける。自炊修業中のわたしがつくったいくつかのおかずがまだ残っている。再び大吉のほうを向く頃には、彼はもう目の前にいて、濡れたウェットスーツごと、わたしに抱きついてきた。
「ちょっとちょっと、濡れる。そして磯臭い」
「ごめん」
「急になんだきみは」
「なんか、浜辺が、すごい遠くに感じた」
 花波を見て戻ってきたくなった。大吉はそう言った。彼はまだ離れてくれず、濡れたウェットスーツは、光も届かないような海底から引き上げられたみたいに、冷たかった。
「つまり、海が怖くなったの? それってサーファーとしてどうなの」
「海は好きだよ。波がある。でも、おれは、どっちの波も好きだから」
 それで説明は十分果たした、と言わんばかりに、大吉は話題を打ち切った。ランチボックスのなかに残ったおかずを一瞬で平らげて、そのまま帰り支度を始める。
「さあ帰ろう。プルアウトだ」大吉が言った。
「プルアウト? それもサーフィンの専門用語?」
「乗っている波から、自分で離脱すること。どんなサーファーも、どんな波からも、最後にはプルアウトする」
「よくわからないけど、犬の種類みたいな名前で可愛いと思う」
 大吉は笑って手を握ってきた。海岸道路の下をくぐるための、短く小さなトンネルで、二人の声が反響する。砂浜から歩道へ。海から遠ざかるたびに、歩道にまき散らされた砂が少しずつ減り、消えていく。
「花波、今度から大会、見に来てくれよ」
「毎回見に行ってると思うけど」
「もっと近くでさ。海岸道路の歩道じゃなくて、砂浜まで下りてきて」
「それはどんな違いがあるの?」
「見失わずに済む。帰るところを」
 プロのアスリートがみんなそうなのか、それともサーファー限定なのか、もしくは大吉だけの性格なのか、意外にこういう、もろい部分が垣間見えることがある。そして、支えられる自分でありたいと思う。いざというとき、大吉がすがるようにつかみ、抱き締めてきたとき、しっかり立っていられる、そういう強い柱でありたい。
「しっかり稼げ、プロサーファー」
「おう」
「そんでブルドッグして帰ってこい」
「プルアウトだってば」
 潮風が笑い声をさらっていく。


 大吉が波に殺されたあと、すぐに一緒に住んでいたマンションを引き払い、一人暮らし用のアパートに引っ越した。町からは離れず、そしてできるだけ、海が見えない物件を選んだ。
 実家には帰れなかった。二階の窓を開けると海が見えてしまうから。残酷なくらい濃い青を見ると、しばしば吐くようになった。風に運ばれて潮の匂いが届くと、それだけで歩けなくなった。両親やみっちゃん、大吉のサーファー仲間が、交代でわたしの様子を見に来てくれた。
 まともに外に出られるようになるまで三か月かかった。機械のように大学に通い、講義を受け、帰宅するのを繰り返した。就活はしなかった。できなかった。証明写真を撮っても良い顔ができるわけがなかった。
こんな状態になってもお腹はすくし、眠くもなる。町中を歩き、誰か男のひとの声を聞くたび、大吉と重なり、振り返りそうになる。そのうち本物の彼の声を忘れてしまうのではないかと、怖くなった。
 大学を卒業した一週間後、ふと、部屋のなかにサーフボードがないことに気づいた。みっちゃんに格安で譲ってもらったサーフボード。大吉にそれとなく勧められて、少しだけ使ったサーフボード。最後に触って、そのあと、どこにやったのだろう。引っ越しのとき、捨ててしまったのかもしれない。
 大吉はわたしの手の大きさを褒めてくれた。名前に波がついていることを好きだと言ってくれた。思い出のなかには、いつだって、サーフィン。
 大吉が亡くなったとき、きっと、わたしの半分もそこでなくなった。
 波に奪われた自分の半分を、わたしは取り返さなければいけない。
 彼を忘れないでいたい。海辺の歩道から巻き上げられる砂みたいに、簡単に風に吹かれて、消えてなくならないでいたい。
 波に乗って、技を決めて、大吉と同じ景色を見られたら。
その光景だけは、きっと、忘れないでいられる。
 考えて、次の瞬間には、みっちゃんに電話をかけていた。

     *

 気づけば梅雨本番の時期になっていた。少しでも雨が降ればみっちゃんはわたしにサーフィンの練習を禁止した。やっと晴れて波に乗ろうとしても、ぽつりと一滴、頬に当たるだけで、彼は雷がやってくるみたいな顔になり、急いで海から上がらされた。
 今日は久々に晴れた日だった。雲ひとつただよっておらず、わたしの手からサーフボードを奪わせる口実は、どこにもなかった。
「いまだ」
 みっちゃんの合図で、ボードを方向転換。パドリングを始める。体の下の海面が浮き上がる感覚。ボードが傾き、一定の角度と速度になったところで、側面に手を乗せる。左膝、右膝、と順番に立てていき、中腰の体勢へ。
 波の斜面を滑り、底へ向かう。斜面側のレールに体重をかけて、ボードをコントロール。ゆっくりと先端が持ち上がり、波の頂上へ向かって上昇を始める。つたない、けれど、ボトムターン。
 波の頂上へ到達するところで、再びレール側に体重をかける。ボトムターンと同じ要領。いざ挑もうとしたその瞬間、あっ、と速度がつきすぎる。
 そのまま波を乗り越え、バランスを崩し、海に落ちる。リーシュコードでつながれた先のボードが暴れて、引っ張られる。足首を少しひねった気がする。みっちゃんにバレればしばらく禁止と言われそうなので、黙っている。
「惜しかった。いまのはよかった」近寄ってきて、みっちゃんが言った。
「いまは中腹くらい?」
「そうだな」
 掛け値なしに褒められて、嬉しくなる。
「少し早いが、テールスライドができたあとの話をしよう。技を決めたあとは自分で波から離脱する。プルアウトっていうんだ」
「聞いたことある。大吉が言ってた」
「プルアウトまでちゃんとできて、初めてサーファーだ」
 頂上までは、あとどのくらいだろう。


 三日連続で雨が降った。四日目は曇りで、みっちゃんと交渉し、ねばり、なんとか練習の許可をもらった。体が動作を忘れているかもしれないと不安だった。そして実際、その通りになった。
わたしはテイクオフができなくなっていた。また振り出しに戻るのか、とその焦りがまた、パドリングを乱し、波に乗れなくなる。悪循環に陥っていた。
「まあ、こういう日もある。誰もがいつも絶好調ってわけじゃない」
「好調や不調を語れるほど、上手くもなってねーんすよ」
 練習のわずかなブランクも影響していたが、何よりまずかったのは、前回の練習で痛めた足首が腫れ上がってしまったことだった。リーシュコードのバンドで隠していたが、途中の休憩のとき、とうとうみっちゃんにバレた。
 てっきり、唾がわたしの頬に飛ぶくらい叫んで、激怒するかと思ったが、彼は静かにこう告げるだけだった。
「一週間は禁止だ」
「いや待って」
「だめだ」
「長すぎるよ。ただでさえ練習不足なのに」
「大会にでるわけでもないのに、何焦ってるんだ」
「焦ってない」
「いいや焦ってる」
 押し問答を続けながら、みっちゃんは片づけを始めてしまう。ダダをこねて砂浜に居座ってやろうかとも思ったけど、ボードを抱える彼の手が震えているのを見て、やめた。だからせめて、言葉で抵抗した。
「せっかく覚えたことを、忘れたくない。中腹まできたのに、ふもとに戻るのは嫌だ」
「なら聞くけど、頂上にたどりついて、ちゃんと満足できると言い切れるか?」
「どういう意味」
「花波の気持ちはわかってるつもりだ。だから、やろうとしていることも、こうして応援している。でも、ぜんぶを理解できてるわけじゃない。テールスライドができたから、なんだっていうんだ? それで踏ん切りがついて、前に進めるって確証があるのか」
 みっちゃんは早足で砂浜から遠ざかろうとする。後を追おうとするが、砂に足を取られて、上手く進めない。ふと、街側にある山の向こうから、小さく雷鳴が聞こえた。
「お前自身、確証がないから焦ってるんじゃないのか?」
「わたしは早くテールスライドを習得したいだけ。大吉と同じ景色が見たい」
「そういう折れないところ、ほんと、大吉にそっくりだよ」
 みっちゃんが溜息をつく。それでほんの少し、ただよっていた雰囲気が、やわらかくなった気がした。
 誰かと長く一緒にいれば、自然とそのひとの言葉づかいや口調、行動、癖が、気づけばうつって、自分を構成する一部になっている。わたしのなかにも大吉の一部がある。だけど、それじゃあ、やっぱり足りない。ボードを進ませるための、推進力にはならない。
「怪我のこと、隠しててごめん」
「お前まで失ったら、おれは大吉に顔向けできないんだよ」
 こうして、わたしはコーチと一応の和解を果たし。
 怪我も無事治り、練習は再開され、勘も順調に取り戻し、テイクオフもなんなくこなし、テールスライドへの準備は着々と進められた。とは、ならなかった。
 わたしのサーフィンが上達しなくなったのは、それからすぐのことだった。上達の速度が明らかに遅くなり、一向に前に進まなくなっていた。
『テールスライドができたから、なんだっていうんだ?』
みっちゃんの言葉が、トゲみたいに刺さり続けていたからだった。


 天気は快晴。風は岸から海に向かって吹いている、絶好のオフショア。
 右腕になぜか力が入り過ぎてパドリングがもたついた。失敗。
 波をかわすために、ドルフィンスルーでくぐりぬけようとしたら、派手に海水を飲んだ。失敗。
 ボードに座って波を待っている最中、一度バランスを崩し、落ちた。失敗。
 やってきた波に背を向けパドリング。テイクオフに入ろうとしたら、角度が急な「ホレた波」でスピードを出し過ぎ、そのまま頭から海に突っ込んだ。失敗。
 テイクオフで両足のポジションを間違え、ボトムターンで上手く切り返せなかった。失敗。
 トップターンに向かう前にボードが暴れて転んだ。失敗。
 失敗。失敗。失敗。
 気づけば夕方になっていた。砂浜のほうで、お年寄りの連れた犬が、無邪気に遊んで走っているのが見えた。
「今日はもう終わろう」
 みっちゃんの指示に抵抗できる気力さえ、いまのわたしにはなかった。
 その日からわたしは海に行かなくなった。


 サーフボードに触らなくなって一週間が過ぎ、七月になっていた。もうすぐ海水浴客が海にあふれるだろう。まともに練習するスペースもなくなる。
 テレビからは、誰かが辞職したり、交通事故を起こしたり、俳優が電撃結婚をしたり、どこかの会社の車がリコールを起こしたり、アイドルが引退したりするニュースが流れていて、やっぱり、いつ見てもいろいろ大変そうだった。変わっていることはひとつ。横にいた彼はもういない。
 寝っ転がっているソファには、いくつもの砂の粒が落ちていた。練習から帰ってきて、シャワーも浴びずに寝てしまったことがあった。そのとき、髪から落ちたのだろう。
 シャンプーもリンスも使っているはずなのに、髪ががじがじになっている。いくらとかしても、前のような髪質に戻らない。わたしがこの二か月ほどで手にした唯一の成果は、暴れ気味になったこの髪だけだ。
「今日も暑くなりそうです。例年の平均気温を大きく超え……」
 アナウンサーの声をかき消すように、蝉が鳴きだした。ベランダのほうを眺めていると、一匹ぶつかって、地面に落ちた。じらじらじら、としばらく鳴いて、暴れたあと、動かなくなった。きみ、早いよ。まだ夏は始まったばかりですよ。
 暇だからどこかに葬ってやろうかと考えたけど、ソファから起き上がるのがめんどくさくてやめた。ポーズだけは一応見せようと、腕だけ伸ばしておいた。陽に焼けた小麦色の肌が、自分のものとは思えなかった。
「磯臭い」
 夏がくると、海の匂いも強くなる気がする。理由は知らない。心情的なものか、それとも海水面をただようプランクトンがどうこうとか、とにかく、わたしはこの匂いが嫌いだった。
 スマートフォンを見ると着信が三件、メッセージが二件届いていた。メッセージの一件は両親からで、残りはすべてみっちゃんだった。練習は休むと一度連絡したきり、彼とは話していない。
 両親からのメッセージを確認する。短くこうあった。『食糧あり。取りに来るべし』。無職で無収入なわたしは、一人暮らしをしていても、いまだに親のすねにかじりついている。けっこう深く、がじがじと。両親もわたしの状態を責めないので、余計につらい。
 目標を失っても、やっぱりお腹は減る。息も止まらないし、髪が傷んでいることにショックも受けるし、蝉を葬れなくて申し訳ないと思ってしまう。
 食糧を受け取りにいこうと、ソファから起き上がる。タンクトップで短パンで、身につけるものは最小限で、いろいろと女子を捨てているけど、空腹が優先なので、着替えるよりも先に外にでた。
「電話、でないからきた」
 玄関ドアの前に、みっちゃんがいた。無意識に閉めようとしたけど、彼が足でそれを止めていた。目を合わせようと頑張って顔をあげたけど、一秒で合わせられなくなった。
「練習、もうしないのか」
「……わからない」
「あれだけ頑張っていたのに。中腹でおしまいか」
「なにそれ」
 吐き捨てるように声がでた。協力してくれているコーチに、当たろうとしている。ださいな、と思う。
「みっちゃん、わたしに練習してほしくないみたいな態度だったじゃん。今度は手のひら返しで練習しろって?」
 誰のせいで。
 誰の言葉で。
 わからなくなったと思っている。
「こんなことして、本当に進めるのか、自信がない。みっちゃんが言ったとおり、わたしには確証がない」
 外から潮風が入り込んでくる。くらくら、と脳が揺れる。
「始めたときは正解だと思った。これが唯一の道だって。でも、いまはちゃんと進めるか怖い。こんなことだけで、気持ちに整理がつくのかわからない」
 こんなとき、背中を押してほしいひとにはもう会えない。
 一番会いたいひとほど、一番遠い。
 思えば思うほど、不安になる。
 何も変わらないのではないか。誰も、望んでいないのではないか。
「サーフィン、面白いだろ。自分の心がさ、ボードの動きに直結する。いろいろ悩んでるのは、わかったよ」
 本当にわかっているのか、よくつかめないような顔で、みっちゃんは言った。
 それからおもむろに、一枚の紙をだしてきた。あるサイトのページの一部をプリントアウトしたものだとわかった。
「これは?」
「あいつが出場しようとしてた大会のホームページ」
「なんでこんなもの」
 用紙を確認する。出場資格、日時、場所はいつもの海。大会の情報がつらつらと記載されている。みっちゃんに返そうとすると、つきかえしてきた。お前はまだ重要なものを見逃していると、その目が訴えてきた。
「ずっと後悔してた。荒れた海で、練習に行こうとしてたあいつを止められなかったこと。最後に背中を見たのは、たぶん、おれだ。どうしてこの小さな大会に出たがっているのか、ぜんぜん、わからなかった」
 キャリアにならない大会。
 そう表現していた。
 それでも彼は練習を続けた。しつこく、入念に、続けていた。
プロのサーファーとして、どんな大会にも手を抜かない、彼のプライドのようなものがあったのではないかと、わたしは予想していた。
「あいつには勝ちたい理由があった。ちゃんと、優勝したい理由があったんだ」
「理由って、賞金?」
 首を横に振り、みっちゃんは優勝特典の項目を見るよう、促してくる。
 そこに、視線を落として。
 それを。
 見つける。
「これが、あいつが練習しようとした理由だ」
 優勝特典の項目には、十万円というわずかな賞金と、それから副賞として、ある景品が記載されていた。その景品が、彼の理由だった。

『サーフボード 7ft 22.75in (女性用)』

 いつか一緒にやりたいな。
 彼の声が、用紙から聞こえてくる気がした。
「あいつは楽しみにしてたよ。お前が波に乗るのを」
 間違っていないよ、と。
 待っているよ、と。
 そんな声ばかりが、勝手に聞こえてきて、あふれる。
「みっちゃん」
「うん」
「会いたい。大吉に会いたい」
「うん」
「会いたいよ、会いたい……」
「ああ、おれも会いたい」
 潮風が入ってくる。蝉の鳴き声が聞こえる。そして遠くで、波の音も、聞こえる。
「おれたちだけじゃない。あいつの家族も、サーファー仲間も。きっとみんな、あいつに会いたい」
 嫌いだった。海が嫌いだった。大吉を殺した波が嫌いだった。彼を止められなかった自分が嫌いだった。
 でも、もうこれ以上、嫌いになりたくないから。
 それに支配されるのは、嫌だから。きっと、大吉も嫌がるだろうから。
「みっちゃん。ドア、閉めていい?」
「花波」
「大丈夫。もう大丈夫だから。ちゃんと、ケリつけるから」
 用紙を胸に抱く。みっちゃんはそれを見て、わたしの言葉と意志を、信じてくれたみたいだった。
「明日の朝、8時。海で待ってる」
 ドアが閉められて、ひとりになる。
その場でうずくまり、わたしはひたすら泣いた。
 吐き出せ。いまはたくさん、吐き出せ。

     *

 ビール一缶で酔っ払った大吉に、海外サーファーの波乗り動画視聴会に巻き込まれた。彼はたまにこうして、自分の「好き」を発散させていた。
「ほら、この選手。プルアウトがかっこいいんだ。波から自分で離脱するところ。飄々としてて、しかも波に敬意を払ってる感じが、伝わってくる」
「そっか。ぜんぜんわかんないけど」
「どんな選手にも得意技がひとつはある。この選手はきっと、このプルアウトに誇りを持っていると思う。いいな、惚れるよ」
 気持ち良さそうに、ビール缶をあおる。海外の、どこの誰かもわからない選手に、わたしは嫉妬をしかけていた。惚れるなんて、わたしにさえ言わない。
「大吉にもあるの、得意技」
「あるよ。なんだと思う?」
「この前、練習してるの見ててきれいだったのは、波の上のところで、ぴしゃっとしぶきをあげるやつ。あれはきれいだった」
 返事がないので彼のほうを見た。ぽかん、と口を開けていた。専門用語も知識もないわたしだが、思いがけず、正解を当てたらしい。
「そっか、そっか、そっか! きれいだったか! よかった。花波が言うなら間違いないな、うん」
 大吉は出会って一番の笑顔を、そのとき見せた。
 世界が滅んでも、その顔だけは忘れていたくないな、と思った。

     *

 ウェットスーツを着て外にでる。それ以外は何もいらない。変な目で見られることもない。海沿いの街に住んでいて、良いと思うところは、こういう部分。
 海岸道路の下、短いトンネルをくぐりぬけ、広がる先に砂浜と海。いつもの場所に、ボードを旗みたいに刺して、みっちゃんが待ってくれていた。
「おはよう花波。準備は?」
「うん。たくさん食べて、たくさん寝てきた。朝もしっかり食べてきた」
「ならオーケーだ」
「アザラシみたいなお腹になる前に、ちょっくらダイエットしてきますよ」
「いつもどおり、テイクオフの合図はおれがだそう」
「ううん」
 と、そこで一緒に海に向かってくれようとした彼を、止める。
「今日はひとりでやってみる。やってみたい」
「……そっか。わかった」
 もっと抵抗されるかと思ったけど、そんなこともなかった。みっちゃんはあっさりとわたしを送り出してくれた。リーシュコードを巻き、ボードを抱え、海に向かう。足の先から、徐々に、体を浸していく。全身を包んでいた重力から解放されて、その一瞬、体がなくなり、この世から去った気分になる。自由になったともいえる。
 腰の高さまで深くなると、ボードに乗り、パドリングを始める。焦る右手も、空回りする左手も、もうそこには存在しない。大きな手で、ただ、まっすぐ進む。
 いつもの地点に到着する。ちらりと岸を見ると、海岸道路で渋滞が始まっていた。平日、休日問わず、あそこはいつも混む。その車のクラクションは、ここまで届かない。陸地にあるほとんどのものから、ここは切り離された場所。
 視線を沖に戻すと、ちょうど、海面が盛り上がりだすのが見えた。絶好の波。すかさず足で漕ぎ、ボードの向きを変える。
 タイミングを見計らい、パドリングを開始する。
 波と合流する。体の底から浮き上がる感覚。ここから、置いていかれないよう、必死に進む。だけど今回の波は、普段よりもせっかちなようだった。間に合わず、そのまま逃がしてしまう。一発で決められればかっこよかった。なかなかマンガのようには行かない。
 だけどやめない。諦めない。わたしが乗るのを、待っているひとがいる。だから凹んでいられない。前を見る。ちゃんと見る。それが来たと、ちゃんとわかるように。
「来い。来い。ほら、来い」
 祈りが届いたかのように、すかさず、ふたつめの波がやってくる。
 パドリングを始める。少し、早すぎたかなと思う。だけど波がすぐに追い付いてくる。運よく、そのまま波と合流できた。ボードが滑らかに、自動ですべり出す。
 ボードに手をそえる。腕を伸ばし、左足を胸に引きつけ、そっと中腰になる。右足も続く。そのままテイクオフ。ここで喜んではいけない。ここからが、本番。わたしはようやく、波に乗る資格を得ただけ。
 膝を軽く曲げて、全身をやわらかく使う。波から伝わってくるボードの振動も、抵抗することなく、受け入れる。ボードの先端が波の底へ向かう。斜面側のレールを使い、体重移動。思ったよりも、波が大きい。よろけそうになり、思わず右手を伸ばすと、波の斜面に触れた。指の先から、水を切っていく。
 腰を波のほうにひねる。ボードに意志が伝わったように、方向転換。ボトムターン。斜面を登り、波の頂点へ向かう。ボトムターンのときとは逆の動作。反対のレール側に体重移動。腰も逆にひねる。するりと方向転換。トップターン。ああ、いまようやくわかった。足先の動作ばかりに気を取られていた。体全体で、ボードを導いていくのだ。
 ボトムターンとトップターン。繰り返す。レールワーク。止めるな。意識を閉ざすな。
 そしてあとは、自分の呼吸で、最後の技へ。
『「テールスライド」。大吉が一番得意だった技だな』
 波の頂点へ向かっていく。進め。進め。進め。
 ボードがぐらつきかける。倒れるな。落ちるな。こらえろ。
 視界に空が広がりはじめる。もうすぐ頂点だ。動画で見た、大吉の、サーフィンをしている姿がよぎる。
前足に全体重を乗せる。ぐん、と一瞬、スピードがあがる。頂点に到達すると同時、後ろ足で、ボードを、軽く蹴る。
波よ。わたしの大事なひとを奪った波よ。テールスライドを食らえ。
 誰かが自分の両肩をつかみ、そっと導くように、体の向きが変わる。波の斜面から抜いたボードから、跳ねるように、しぶきがあがるのが見えた。動画で見たのと、同じ光景だった。
 それから、ふいに、砂浜を見た。陸地が一面に広がっていた。岸で、レジャーシートを広げ、あぐらをかいて座る自分の幻影が、見えた。
 これが、彼の見ていた景色。
 決意ではなく、本能で理解した。わたしはこれを忘れないだろう。
『プルアウトまでちゃんとできて、初めてサーファーだ』
 ボードが波の底へ向かっていく。後ろ足にそっと体重をかけると、失速しはじめる。
終わる。わたしのサーフィンが、終わる。テールが沈み始め、そしてとうとう、スピードが、完全に失われていった。
 ボードから離れ、最後は自分から、海に飛び込んだ。


 膝の高さ程度の浅さになったところで、全身に、どっと重力がまとわりついた。解放された世界から、現実へ。歩くのって、こんなに大変だったのか。じゃぶじゃぶと、海水をかきわけ、岸へ向かっていく。
 波打ち際まで、みっちゃんが迎えにきてくれていた。近づくと、彼が泣いていることに気づいた。何度も手の甲で涙をぬぐっていた。
「なんかさぁ、わかんないんだけどさぁ……」
「うん」
「お前が、大吉に、見えた」
「そっか。ありがとう」
 何よりもうれしい言葉だった。そしてとうとう、完全に、自分は目的を達していることに気づいた。
 大吉。先にいくよ。わたしは先にいくよ。
 そして、さよならは言わない。
「帰ろうか。みっちゃん」
「もういいのか」
「うん。ありがとう」
 渋滞中の海岸道路から、クラクションが聞こえた。頬にあたる潮風が、初めて気持ち良く感じられた。
 海に背を向け、そっと歩きだす。
プルアウト。


(了)