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半田畔の恋愛短編『カラスはまだ、ないているか。』

『サマータイムレンダ 南雲竜之介の異聞百景』も好評発売中の半田畔さんから新作短編を頂きました。不自然に大量死するカラス。その死の謎を自由研究のテーマに据えた石橋めいと”僕”。しかし僕には、めいには伝えていないある秘密があった……。

カラスはまだ、ないているか。


     1


 夏休みの前日、僕たちのクラスでは自由研究テーマの提出が行われた。担任教師が用意した専用のB5用紙を提出することになっていたが、この回収係を僕が押しつけられることになった。

各列ごとに後ろから前に提出用紙を回していけば効率が良いのに、担任はなぜか僕一人に回収をさせた。嫌がらせとかそういう意味はなく、あとで確認するときに未提出の生徒をチェックするのが面倒くさいから、というのが理由だった。僕が選ばれたのは単純に、クラスで貧乏くじを引いても抵抗しないと思われたからだろう。いちいちダダをこねる生徒との交渉に労力を割くつもりはなく、だからまあ、大人しい飯田宝でいいか、となる。実際に指名される瞬間に、教師はそういう顔をしていた。

 中学二年生の夏といえば、受験の影もそろそろちらつく時期だ。ちらつくだけで、実際に勉強を始める生徒はそれほど多くはないけれど。とにかく、そんな時期に未だに自由研究を宿題として課してくる学校もめずらしいし、自分たちが幼く見積もられているような気持ちにさえなる。

そういう心理が多少はモチベーションにも影響しているのか、回収していく提出用紙には、どれも覇気のない文字と個性の感じられないテーマが並ぶ。「スーパーマーケットごとの食材の値段の違い」とか、「冷却グッズのそれぞれの持続時間」とか、「理想のゆでたまごの作り方」とか。「町のシンボルと歴史の調査」に、「去年就任した新市長の生い立ち」などというのもあった。ちなみに僕は「自宅のクーラーの使用頻度と電気料金の調査」で提出する予定だった。理由は家から出なくて済むから。どの時代でも常に話題になっている環境問題とも、適度に絡められる。

 用紙の提出を終えたクラスメイトたちは順番に立ち上がって教室を出ていく。頑張れよ、とか、ご苦労さん、とか声をかけてくれるものもいれば、苛立つみたいにとっとと去っていくものもいた。一様に共通していたのは、今学期が終わっていよいよ夏休みが始まるという、一種の高揚や解放感に包まれていることだった。

 だけど彼女は違った。

 窓際の列、四番目の席にいた、石橋めいだけは違った。

 僕が廊下側の列から回収を進めたことにケチをつける生徒が現れはじめても、彼女だけはその小さな背中をピンと張り、姿勢を崩さず、すぐには立ち上がらず、解放されたように体を伸ばすこともなく、淡々と僕に提出用紙を手渡してきた。直接目を合わせることはなかったが、それはこれから、何かの戦いが始まるひとの目つきにみえる。ベリーショートに近い髪型のおかげで、瞳の様子をよくとらえることができた。

 彼女の凛とした態度が気になって、興味のないフリをしつつ、僕は彼女の研究テーマをこっそりのぞき見た。


『地元・仲原町で起きているカラスの不審死の原因究明』


 とたん、視界がぐらついた。足の裏から長くうねる針が体に入り込んだような、不快な感覚に襲われる。痺れが上手く取れない。ちゃんと自分は歩けているだろうか。動揺は表に出ていないか。用紙を持つ手に、汗は滲みすぎていないだろうか。

 僕を含めて残り三人の提出用紙をすべて回収し終える。僕はその場に立ったまま、もう一度だけ石橋めいの提出用紙をのぞく。ボールペンで迷わず、ものの数秒の速さで書かれたと分かる字。そして誰よりも濃く、力強い字だった。この文字を見るだけで、どんな説得も相談も聞かず、このテーマを貫き通す意志を感じた。

 背後で席を立つ音がする。石橋めいが教室を出ていこうとしていた。その背中を視線で追う。彼女の連絡先は知らない。話したことすらほとんどない。僕に限らず、石橋めいが他のクラスメイトと仲良さそうにしている場面も、知る限りではない。快活そうな見た目に反して、社交的とはあまりいえず、石橋めいには人を寄せ付けない壁がある。

 今日を逃せば接触する機会は夏休み明けまで訪れないだろう。廊下に出ていった彼女の足先がドアの陰に隠れて見えなくなった瞬間、気づけば追いかけていた。このあとは職員室で待つ担任教師に提出用紙を届けなくてはならないのだが、いまは私用を優先するべきだった。足は職員室がある方向とは真反対の、石橋めいがいる方に進む。

「石橋さん」

 彼女は一度では振り返らなかった。自分がこの学校の誰かに呼ばれることなど、微塵も想定しない、きびきびとした歩き方だった。

「石橋めいさん」

 名前まで呼ぶと、ようやく彼女は振り返った。その場で止まり、僕が会話しやすい距離に近づいてくるのを静かに待っていた。

「……飯田、宝くん」

 目を細めながら一歩彼女が近づき、まっすぐ僕を見上げてつぶやいてくる。視力が悪いのだろうか。合っているよと告げる代わりにうなずくと、安心したように石橋さんは息をついた。

「なに?」

「えっと、いま話せる?」

「なに?」

 同じ言葉と、同じ口調。前置きは必要なく、本題に入ってほしいという意思を感じる。助かる。僕もその方がやりやすい。

「さっき自由研究テーマの提出用紙を回収してて、石橋さんのテーマが目に入ったんだ」

「……問題がある?」

「違う。僕も興味があるって、伝えたかったんだ」

「飯田くんが?」

 なぜ、と大きな瞳が探るように、下から僕をのぞきこんでくる。絶対に逃げられない角度だった。少しでも不審な回答をすれば彼女は会話を切り上げて帰ってしまうかもしれない。何か理由を用意しないといけない。考えて、しぼりだせ。

「ぼ、僕も気になってたんだ。最近町で起こってるカラスの不審死。親が地元の新聞取ってて、そこでも記事になってた気がする」

「それ、一昨日の号。2面」

「……だと思う」

 研究テーマに関するリサーチはすでに始まっていたらしい。それも入念に。うかつなことはもう言えない。

「自分たちの町で起きていることだし僕も調べてみたい。動物も好きだし。もしよかったら、石橋さんのテーマを手伝わせてもらうことって、できるかな?」

 石橋さんは思案しはじめる。手をあごに触れながら、何かつぶやくのが見えた。あれほど力強い文字を書くひとの手が、こんなにも華奢なことにも驚いたし、その口の小ささにも意識が向く。朝食で、食パンを食べきるのにどれくらいの時間がかかるのだろう、と誰の利益にもならない想像をする。石橋めいはほかのクラスメイトよりも一回り小さい体つきだが、いまの僕には、ほかの誰よりも注目するべき相手である。

「明日、水切橋の前に昼ごろこられる? 河川敷のところ」

「そこなら家から徒歩圏内だ」

 予定もないので行けると告げると、石橋さんは丁寧に一度、大きくうなずいた。

「それなら、一緒にやりましょう」

 了承は得た。けれどまだ安心しない。

 帰ろうとした石橋さんをもう一度呼びとめる。

「一応、連絡先を交換しておかないか?」

「私、携帯持ってない」

「そうなのか」

「……代わりに家の電話番号を伝える。それでもいい?」

「ありがとう」

 石橋さんは口頭で番号を明かしていく。僕は自分のスマートフォンに番号を登録していく。聞きながら、番号が市外局番ではなく、携帯キャリアのものだと気づいた。

「電話回線は引いてないの。高いから。それは家に固定で置いてある共用のスマートフォンの番号。電話かけたら、お父さんとお母さんも出ると思う。あと、メッセージとメールは気づけないと思う」

「わかった」

 僕の電話番号も石橋さんに伝える。彼女はメモをとらず、また丁寧に一度だけうなずいて去って行った。姿が完全に見えなくなったあと、目的を果たせたことに、ほっと息をつく。よかった。これで明日から彼女を監視できる。

 石橋めいとの夏休みが、始まろうとしていた。



 自由研究テーマの提出用紙を職員室の担任に届けたあと、まっすぐ家を目指した。今日は終業式とホームルームだけだったので、陽はまだ高い。じりじりと腕や首の肌が焦げていくのを感じながら、グラウンドのほうから響く、自主練習なのか部活動なのか分からない、野球部員たちの掛け声を聞く。一切の逃げ場がない日なたでノックを浴びている部員の一人の気持ちになってみようとしたが、その過酷さに鳥肌が立ったのですぐにやめた。

 自宅のクーラーの使用頻度の調査という、僕の本来の研究テーマを達成するためにも早く帰宅したいところだが、明日からの石橋さんとの共同調査のために、日焼け止めくらいは買っておきたい。どのくらいの頻度になるかはまだ分からないが、想像を軽く超えてくる予感だけは、なんとなくした。

 ドラッグストアに寄って、明日から必要になりそうなものを、とりあえず思いつくだけ購入していった。両手が買い物袋であっという間にふさがった。そのうちの片方の袋はすべてスポーツドリンクで満たされていた。一本に手をつけて、半分ほど減ったところで自宅のマンションについた。

「ただいま」と、明かりのついていない廊下に向かってつぶやく。リビングに気配はない。唯一の同居人である兄は自室にいるようだ。兄が部屋にこもってすでに二年が経つ。

 兄の部屋の前で立ち止まり、袋のなかにあるスポーツドリンクをすべて床に置く。ドアを開けたときに兄がすぐに見つけやすいように、部屋の向かいの床が定位置だ。

「兄さん、帰ったよ。スポーツドリンクを置いておく。家の中でも熱中症になるみたいだから、こまめに水分補給を」

 返事はない。

 だけど気配だけはする。そこにちゃんといるとわかる。

「明日から夏休みだから、何かあったら声をかけるか、メッセージを送って」

 たまにリビングではち合わせしても、会話はほとんどない。僕も直接会ったときだと、なかなかすぐに言葉が出てこない。こうしてドア越しに、一方的に語りかけているときが、もっとも兄に向かって長く話せる時間だ。僕にとっての大切な時間。

「母さんたちの家のほうに、何日か顔を出すかもしれない。留守にするときは伝えるから。あと、兄さんから何か伝言があれば、僕に知らせておいてくれると助かる」

 返事はない。

 代わりに聞こえるのは、ある変わった音だった。

「ガガァ」

 何日か前から、聞こえ始めた音。

機械の動作音でもなく、兄のうめき声とも違う。少し高く、大きさに反してよく響きそうな種類の音。同時にただよってくるのは、兄以外の生き物が、そこにいる気配。

「カァ」

 それは僕の知る限り、カラスの鳴き声にそっくりだった。


     2


 中学二年生という年頃がどれくらいの割合で自分の携帯電話を持っているかは分からない。石橋さんのほうが普通なのかもしれないし、もしくはスマートフォンを持っている僕のほうが割合的には一般的といえるかもしれない。少なくとも僕の場合は、徒歩で一五分ほど離れた一軒家に住んでいる両親と二日に一回連絡を取るために、スマートフォンを支給されたという背景がある。

 高校受験に失敗したことがきっかけで兄が引きこもり、今年で二年が経つ。しばらく様子を見ていた僕たちだったが、去年、両親が一軒家を購入し引っ越すことが決まったタイミングで、関係が少し微妙になった。均衡が崩れたと表現するのも正解だ。

引っ越しが決まってからも、そして引っ越し当日になっても、兄は一度も部屋から出ようとしなかった。父が一度強引に部屋から引っ張り出そうとしたとき、兄は大暴れしたという。僕は学校に通っている時間帯で、それを目撃していなかった。その晩、頬にアザをつけた父は、ここのマンションを引き払わずに引っ越すことを決めた。僕の知る限り、それは兄が人生で初めて振るった暴力だった。

兄は僕とだけは唯一、コミュニケーションを取ってくれていたので、僕もこのマンションに残ることになった。それ以来、僕は兄の身の回りのサポートを任されている。兄に降りかかるあらゆる危険やリスクや脅威を取り除くのが、僕の役目だ。

両親が一軒家の購入という決断をしたのは、僕と兄の住んでいるこのマンションの取り壊しが決まっていたからだった。現在、取り壊しの期日は四か月後に迫っている。期日を迎えたタイミングで、兄の意思や希望とは関係なく僕たちは強制的にここを出ていかなくてはならない。

もしかしたらそういった事情がストレスとなって、兄は自分の部屋に、自分以外の生き物を連れ込みはじめたのかもしれない。ここ最近、僕は兄の部屋からカラスの鳴き声がするのをよく聞いている。

どれくらいの割合のひとが僕と同じ状況にいるのだろうかと、たまに考えることがある。平均的で、フラットで、一般と呼ばれる部類に、僕たちはもう何年ほど所属していないのだろうかと、いつも考える。



 だからといって、石橋めいこそが平均的かつフラットで一般の女子生徒であるとは、僕は決して思わない。待ち合わせ場所である水切橋に、彼女は学校制服を着て、絵に描いたような麦藁帽子をかぶり、虫取り網とプラスチックの虫カゴを持ってあらわれた。

「もしかして、研究テーマって僕の知らないところで昆虫採集に変わった?」

 石橋さんはすぐに首を横に振る。むしろショルダーバッグのみで軽装備の僕のほうが準備不足であると、批難するような目つきだった。実際にそれほど分かりやすい表情を浮かべてはいないが、そういう雰囲気を感じた。

「麦藁帽子は日焼け対策。網はもしカラスの遺体を見つけたときになるべく無傷で回収するため。あとは衛生対策の意味もある」

「カゴは?」

「網を買ったときについてきた。いまは軍手入れに使ってる。今日は河川敷の周辺を調査するから、生い茂った雑草をかきわけられるように。飯田くんも、持ってないなら分けてあげる」

 カゴから丸まった軍手を一つ出して、僕に差し出してくる。彼女の行動を追っていたほうが、よっぽど興味深い自由研究ができそうな気がした。

 自由研究テーマにするかどうかは置いておき、彼女の行動を追うというのは決して間違っているわけではない。

石橋さんの研究に同伴するのは、彼女の調査や分析が万が一にでも、兄にたどりつかないように見張るためだ。石橋さんの仮説が少しでも兄個人に向きそうな気配を感じれば、僕は横から口を出して、その仮説の軌道修正をはかる。この先の現地調査か何かで、もし兄が決定的な証拠を残しているなら、僕はそれを隠滅しなくてはならない。

理想的な流れは、こちらから適当に兄とは結びつかないカラスの不審死の原因に関する仮説をでっちあげて、その方向性で調査させることだろう。

「今日はこのあたりでカラスの遺体がないかを探す。二日前にこの近くで遺体が一羽見つかってるらしいから」

「了解。そうしよう」

 河川敷を上流に向かって歩き始める。土手の斜面には市花であるキキョウが等間隔で植えられていた。町の美化運動推進の一環によるもので、うちの近所の公園の花壇にも同じ花が植えられている。通り過ぎるサイクリング中のカップルや、追いこしていくランナーたちも整備された斜面の花を愛でていた。石橋さんも同じように花を見つめているが、彼らのように純粋に愛でているわけではなく、その花々の間に転がっているかもしれない遺体を探している。いまのところは遺体はおろか、生きている個体も見当たらない。

「遺体を見つけたら、どうすればいい?」僕は訊いた。

「写真を撮る。それから通報する。保健センターのひとが来るまでは自分たちでできるところまで観察する」

「ずいぶん手順に詳しいね。石橋さんは見つけたことあるの?」

「先週、一羽だけ。偶然かと思ったけどそうじゃなかった。もっとたくさん死んでたことがわかった。それが調べようと思ったきっかけ」

 石橋さんは数秒置いて、さらに添える。

「もともと動物が好きだから。あと植物も」

 視線はキキョウに注がれる。河川から吹く風が、僕たちの頬と草花を撫でていく。今日は曇りで、それほど日差しは強くない。日陰のない土手沿いを歩くのにもっと体力が要るかと思ったが、いまのところは快適が勝っていた。

 虫取り網の出番はまだない。電車が通る橋の下までやってきて、日陰に入る。レールの軋む音や振動がして、電車が近いことを悟る。

「昔から動物や植物が好きなの?」

 僕たちの頭上を電車が走り抜けていく。橋げたで休んでいたらしい鳥が数羽、飛び去っていくのが見えた。カラスかと思ったがハトだった。

「小学校のころ、学校の中庭でウサギを飼ってたの」

「ウサギ? 僕のところにはいなかった」

 最初は総合の授業で、先生が飼うことを提案したのだという。ケージの設置もウサギの購入も、すべて自分たちで行うところから始まったという。

「みんなでお金を出し合って、ご飯も用意した。みんな最初は興味しんしんで、いつも中庭に顔を出して様子を見に来てたし、お金もたくさん集まってた」

「……話の筋が見えたような気がする」

 その予想は合っているだろうと、石橋さんはうなずいてきた。

休憩が終わって、僕たちはまた日陰から出て歩き出す。カラスの遺体を探しに。道の先にあるグラウンドでは、草野球をしている大人たちがいた。

「ウサギが飽きられ出したころ、教室が臭い気がするって誰かが言いだしたの。中庭のケージから、私たちのクラスは一番近い場所にあった。ウサギのケージの臭いが、教室まで届いてたんだと思う」

 話しながら、そのとき、石橋さんがつまずいた。砂利道なので、石か何かに足をとられたのかもしれない。僕が支えようとする前に、彼女はすぐに自分でバランスを取り戻し、話を続けた。ウサギのケージの臭い問題。

「それで多数決をすることになった。ウサギのケージを、別の場所に移動させるかどうかの多数決。勝手な都合だと思ったから、私は手を挙げなかった。結局ケージは、体育館裏の職員用の駐輪場のそばに移動させられることになった。移動させるための費用をみんなでだしあうことになったけど、私は一円も寄付しなかった」

「ウサギはどうなったの?」

「一週間後に死んだ。原因がその移動だったのかは分からない。私は二か月だけ不登校になった」

 彼女は自分がどれだけ動物が好きであるかということを、自分が経験したなかで特に苦しかったエピソードとともに教えてくれようとしていた。

「それくらい動物が好きだし、それくらいひとが好きじゃない。ああいう種類のひとたちに、私は絶対ならないって決めてる」

グラウンド横を通り過ぎる時、誰かがホームランを打ったのか、快音が響いた。ボールが河川の方に飛んでいき、野手が取りに行くのをあきらめていた。

人づきあいどころか、そもそも人があまり好きではない石橋さんが、どうして僕の同伴を認めてくれたのか。その理由は分からない。何か彼女の警戒心を緩めるような要素が、僕にあったのかもしれない。

「飯田くんも好きなの?」

「え?」

「動物。昨日学校で会ったとき、言ってた」

 そうだっただろうか。よく思い出せない。あのときは引きとめるのに必死だった。もしかして石橋さんが僕の同伴を許したのは、それが理由なのか。同じ動物好きとして、シンパシーのようなものを感じたからなのか。だとすれば慎重に回答しならなければいけない。

けれど同じくらいの意志の強さで、彼女に嘘はつきたくないと思った。少なくとも、動物が好きかどうかという質問に関しては、素直に答えるべきだった。

「猫や犬を飼ってみたいと思ったことは何度かある。でも、その死にいつか立ち会わないといけないことが怖いから、飼いたいと言いだしたことは一度もない。そのくらいには、動物は好きだと思う」

 答えてすぐ、石橋さんは無言でほほ笑んだ。いや、気のせいかもしれない。反射で口角が上がって、そう見えていただけかもしれない。

 背後から電車の走る音がかすかに聞こえる。気づけばずいぶん長く歩いていた。カラスの遺体はまだ見つかっていない。



 午後三時を過ぎると、陽を遮っていた雲が流されてしまい、一段と暑さが増した。涼しい場所に一度避難したいと提案する前に、石橋さんが図書館に寄りたいと言った。断る理由などあるはずがなかった。

 僕が読書スペースで休憩していると、石橋さんは今日の地方紙と、この町が独自に印刷しているタウンニュース新聞を持ってきた。石橋さんはやけに顔を寄せて新聞を読んでいた。学校で会ったときも、彼女は僕に顔を近づけていたのを思い出す。気になって、視力が悪いのかと尋ねると、近眼だと言ってきた。

「前に眼鏡をつくったんだけど、びっくりするくらい似合わなかったからそれ以来かけてない」

「コンタクトレンズは?」

「あんなのは怖い。目に指なんて入れられない」

「だけどさっき、道で転びかけてただろ。あれも近眼のせいじゃないのか?」

「大丈夫。まだ転んだことないから」

 根拠はないが、たぶん嘘だと思った。今後、彼女の横を歩くときは注意しておく。

雑談をはさみつつ手分けして調べたが、カラスの不審死に関する記述や記事はなかった。知うる限り、間近ではカラスの遺体は見つかっていない。

「石橋さんはどういう仮説を立てているの? 今回のカラスの不審死」

「まだ分からない。最初に遺体が見つかったのが今年の三月。そのあとは四月、五月、と立てつづけに。いまのところ合計は四九羽。けど、このくらいの頻度でカラスが亡くなるのはそれほどおかしなことじゃないみたい。要因も色々あるって本に書いてあった」

「たとえば?」

「単純な、なわばり争いによって起こっている説。カラスの繁殖期は三~六月で、時期的にも重なってる。けど今年になって急に起こった理由が説明できない」

「ほかにある説は?」

「何かの病原菌によるものと、あとひとつは――」

 そこで石橋さんが一拍置く。見まわして、僕に耳打ちをしてこようとしていた。ここが図書館だからという理由ではなく、誰かに聞かれるのを警戒するように、トーンを落としながら、ささやいてくる。

「あとひとつは、誰かの悪意によるもの」

 彼女の提出用紙のテーマをのぞいたときと、同じ種類の痺れが襲う。身構えることができたので、昨日ほどは強くない。汗で流れ落ちる日焼け止めとは違って、顔に塗りたくった平常心は簡単には溶けていかない。

「カラスの遺体は外傷がないものが多い。記事にそうあった。たとえば、誰かが毒を混入させた食べ物を撒いていると、そういうことが起こる」

「でも、そうするとカラスの遺体だけが見つかっているのはおかしくないかな。毒入りの食べ物が町に撒かれてるなら、野良猫だって口にしそうだけど」

 石橋さんは気づきを得たみたいに、小さな口を薄く開けた。

彼女は立ち上がり、それからありったけの地方紙とタウンニュース紙のバックナンバーを集め始める。意図を察して僕も手伝う。すべて調べ終えるころには、夕方の五時を過ぎていた。猫やその他の野生動物の不審死に関連する記事は見つからなかった。閉館時間が迫っていたので、今日は解散することにした。

 図書館を出てすぐ、石橋さんがある自販機の前で立ち止まる。飲み物ではなく、アイスクリームを売っている自販機だった。豊富なラインナップはコーンタイプやスティックタイプに分かれていて、どの種類でも気軽に手で持つことができる。

 アイスの自販機を指さして、彼女が僕の方を向く。

「食べていかない? 付き合ってくれたお礼。選んで」

「食べるのは賛成だけど、おごってもらうのは悪いよ」

「おごらせてほしい」

 その瞳とまっすぐに目が合う。僕は自由研究テーマの提出用紙に書かれた彼女の文字を思い出す。力強く、曲がらない意志がこめられた文字。僕が首を縦に振るまで、石橋さんは自販機に向けた自分の指を下ろしそうになかった。

「わかった。今日はごちそうになる。その代わり、次は僕がおごる」

 石橋さんは納得したような、そうでないような顔をして、結局指を下ろしてくれた。僕は自販機に向かってクリームソーダ味のスティックアイスをリクエストした。彼女はチョコチップの入ったアイスを一緒に買った。

 すぐ横にある、アイスを食べるために設置したといわんばかりのベンチに、二人で腰かける。石橋さんはベンチに腰かける直前、また一度だけつまずいて転びかけた。

 封をめくっていくと、ソーダの水色とクリームの黄色でらせん状に彩られたアイスがあらわれる。口にすると、図書館を出てすぐ襲ってきた外の熱気が和らいだ気がした。

 近くの木々からアブラゼミの鳴き声が降ってくる。やがてひぐらしも、その合奏に加わりはじめる。アイスを食べ進めていると、照明が徐々に絞られていくように暗くなり、さっきまで目の前の地面にあったはずの、日陰と日向の差があいまいになっていく。夏のなかで、暑さも涼しさも感じない、この独特の時間は嫌いではなかった。

 先に食べ終えたのは石橋さんだった。見ると、石橋さんは食べ終えたスティックの先端をどこかに向けている。その先には、ベンチと図書館の外壁の間につくられた蜘蛛の巣があった。蜘蛛の巣に一匹の黄色い蝶が引っかかり、もがいている。蜘蛛はすぐには獲物に近づかず、蝶が暴れていることによる振動に耐えている様子だった。

 助けるのだろうかと見つめていると、石橋さんはアイスのスティックを引っ込めた。なぜかそのとき、彼女の意図をするっと飲みこむことができた。彼女は蝶への意地悪のために救出をやめたのではない。介入すること自体が無粋で、無責任な行為であると、答えを出したのだ。

「本当に、動物が好きなんだね」

思わずつぶやいてしまった。

 照れ隠しのためだろうか、石橋さんはスティックの先端を咥えて、口を閉ざす。



 誰かに石橋さんとのことを話したい気分だったが、そんな相手はいなかった。両親は論外だし、兄相手にというのも難しい。兄から脅威を遠ざけるのが目的なのに、その僕が脅威の対象について、よりにもよって兄に好意的に語るというのは、少し矛盾が過ぎる。

 彼女は本気だった。もともとそれは分かっていたけど、今日半日、調査を手伝っただけでも、それがより具体的に伝わってきた。石橋さんは本気で研究テーマに取り組んでいるし、本気で動物が好きだし、本気でカラスの不審死の原因をつきとめたがっている。そしてできれば、解決しようとしている。そのための答えは僕が握っていることを、アイスをおごってくれたあの子は知らない。

 兄の部屋のドアノブを握る。回そうと指に力をかけるのと、なかから鳴き声が聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。

「カァ!」

 僕は指を離して、リビングに逃げた。


     3


 その日の昼ごろ、食事を済ませた兄とリビングではちあわせた。兄は食器を洗い終えたところだった。それが昼食なのか、起きたばかりの朝食代わりなのか、もしくは寝る前の夕食代わりだったのかはわからない。

「おはよう」

「ああ」

 皿洗いで濡れた手で髪を撫でつけながら、兄が返事する。美容室には通わず、もう何年も自分で切っているらしく、髪の長さはいつも不揃いだ。

 ダイニングテーブルには開封済みの封筒が一通置かれている。管理会社からのもので、四か月後に迫っているマンションの取り壊しと、退去に関する知らせだろう。同じものが先月も来た。

 もう少しだけ話したくて、部屋に戻ろうとする兄の背中に呼びかける。

「今日、一日外出してると思うから」

「わかった」

 返事だけはすぐにあるが、しかしそこから別の雑談に発展することはない。ところで、兄の部屋からカラスの鳴き声がしなくなって、もう二日が経っていた。



「へえ、飯田くんにはそんなお兄さんがいるんだ」

 前回と同様に、カラスの遺体の発見を目的に町の見回りをしながら、僕は石橋さんに身の上話をしていた。ついうっかりとか、気づけばとか、そんな度合いではない量で兄のことを話してしまっていた。本来なら存在さえ匂わせてはいけないはずなのに、石橋さんが淡々と質問を重ねてくるので、僕の口も滑り続けてしまう。

 きっかけは石橋さんの髪型の話だった。髪の話になる前はお風呂の話だった。夏のお風呂は何度が適切かという、他愛のない雑談。そのあとお風呂上がりに髪を乾かすというくだりになって、短いので楽だと彼女は言った。だけどよく見ると、石橋さんの髪の長さが部分によって違うことがわかり、僕はそれを指摘した。

「自分で切ってるから、長さがばらばらになるの」

 前髪をつまんで引っ張りながら、彼女は答えた。

それは彼女と兄の共通点だった。兄と同じだ、と僕が言うと、石橋さんは僕の兄弟事情にくいついてきたのだった。

「素敵なお兄さんなのね」

「僕の小学校生活が円滑に進んだのは、すべて兄のおかげだよ。何をすればいいか示してくれるし、その理由も説明してくれる。僕が友達と喧嘩したときに仲直りの方法を教えてくれたのも兄だった」

 自転車に乗れるようになったのも、兄の補助があったおかげだった。そんな風に彼女に兄との思い出を語った。しかし聞かれたこと以上は答えない。兄が部屋に隠しているもののことも、もちろん明かさない。

「飯田くんは言葉づかいとかが、少し大人びている気がする。ほかのクラスメイトのひととは、なんだか違う」

「兄の影響だと思う。兄が薦める本ばかり読んでいたから」

 大人びているという言葉は石橋さん以外のひとからも、何度か言われたことがある。たいていは教師や年上の人からで、それも褒めているのではなく、中身が違うのではと気味悪がるようなニュアンスのものが多い。

 聞けば何でも答えてくれるし、頼れば必ず解決に導いてくれる。僕にとっての兄はそういう存在だった。中学時代は生徒会長をしていたし、ひとから頼られるのは、兄としても本望だったのかもしれない。ただ、優秀な人間に対する周囲の身勝手な期待は、当事者のコントロールが利かない範囲まで膨れ上がっていく。そういうものに兄は疲れたのだろう。すべてはじけて、しぼんでいったきっかけが、たまたま高校受験の失敗だったというだけ。

「いいな、兄弟とかそういうの。憧れる。私は一人っ子だから。絶対に信頼ができるひととか、欲しかった」

「両親は?」

「どちらかというと放任主義」

「僕のところも似たような感じだ」

 住宅街を歩き進める。同じ町内でも、前回捜索した河川敷とは真逆のエリアだが、ここでも遺体はおろか、棲んでいるカラスさえまだあまり見つからない。前回と同じく麦藁帽子に虫取り網とカゴを装備している石橋さんの格好が、これまたひどく浮いている。

たまに鳴き声がしたかと思って、声のするほうを見上げても、電柱にとまっている一羽が目に入るだけだった。通りに点在しているゴミ捨て場周辺に集まっているかなと予想してみたが、美化運動の一環で、最近はネット式のものから、蓋ができる金網式に置き換わっていた。これではゴミを漁りにはこない。

 ここで僕は仮説を思いつく。厳密にいえば、兄から意識をそらし、別の答えにこじつけるための仮説だ。

「石橋さんは誰かが悪意を持ってカラスを殺害していると仮説を立てているけど、なわばり争いによって起こった仮説のほうを、もう一度検証してみないか?」

「別に私は、誰かがカラスを殺害した仮説に固執してるわけじゃないけど」

 墓穴を掘ったか。

 怪しまれるかと思ったが、続けて、と彼女は短く促すだけだった。

「こういう説はどうだろう? なわばり争いが起きた原因は、ゴミ捨て場がネット式から金網式になったことで、餌を確保できる場所が限られたから。美化運動は今年に入ってから活発に行われているようだし、とつぜん争いが起きたことにも説明がつく」

「飯田くんの仮説を裏付けるには、カラスが実際になわばり争いを起こしている場面を目撃できるのが一番だけど」

 僕のこじつけた仮説を一蹴しない様子を見る限り、このまま上手く意識をそらすことができるかもしれない。最終的には運よく、どこかでなわばり争いが本当に起こってくれれば理想的だが。

「石橋さん、相談がある。生きているにしても亡くなっているにしても、ひとまずカラスを見つけないことには研究は進まないと思うんだけど」

「私も空っぽの電線を見てそう思ってた」

 空っぽの電線。ずいぶん詩的な表現を使う。初対面だったら詩人と勘違いしていたかもしれない。虫取り網と麦わら帽子と虫取りカゴがなければ、完全に勘違いできていた。

「ちょっと歩いた先に公園がある。そこの木に止まって休んでると思う」

「この先のって、蘆花公園? そこなら知ってる。僕の家からも徒歩圏内だ」

「私の家からも近い。奇遇」

 具体的な住所を聞いたことはなかったけど、もしかしたら僕たちは、思ったよりもずっとそばに住んでいるのかもしれない。

 話していくうち、よく通っているコンビニも同じなことがわかった。商品のラインナップのことや、左腕と比べると右腕が明らかに太い変わった男性店員がいる話で、学生らしく大いに盛り上がった。昼食を調達するために、公園へ向かう前にそのコンビニに寄ることにした。

 右腕が太い店員はいなかった。先に会計を済ませて外で待っていると、石橋さんは新しい虫取り網を小脇に抱えて出てきた。ドアをくぐるとき、網の先端をぶつけていた。

「どうしてもう一本買ったの?」

「こっちの形状のほうが、奇麗だったから」

 一緒にいると飽きないひとだった。

 昼食に何を買ったのかきかれたので、袋のなかを見せた。おにぎりとパンが一つずつ。いつも登校前に買って、学校で食べているものと同じだ。石橋さんに訊き返すと、彼女は得意気な顔で(ここ最近の交流がなければ気付けなかった微細な表情の変化だが)、パンを三つ取り出して見せてきた。味や種類にばらつきはあったが、三つともすべて『期間限定』と表面のパッケージに印字されていた。好きなものがわかりやすい。

 公園を目指す間、石橋さんは色々な動物の豆知識を披露してくれた。キリンの睡眠時間は二〇分しかないとか、熱帯魚のクマノミは性転換するとか、ネコの舌がざらざらしているのは、骨についた肉をそぎ落とすために発達していたからとか、そんな話を実に楽しそうにしてくれた。語っている間は始終、表情に大きな変化はないのだけど、瞳のなかだけは明らかに活き活きとしていて、好きなものがやっぱりわかりやすいのだった。



 蘆花公園に近づくと、カラスの鳴き声が聞こえてきた。それも一羽ではなく、何羽もの声が重なっていた。声は止むことなく、彼らが何かに興奮しているのが素人の僕でもわかった。石橋さんと目を合わせて、足を速める。

 公園の出入り口を目指していたその瞬間、楽しみにしていたはずのパンの入った袋を放り、急に彼女が駆けだした。どうしたのかと聞くよりも早く、腰ほどの高さの鉄柵を乗り越えて、公園に強引に侵入してしまう。敷地内で何か見つけたのだろう。近眼で具体的に何か見えたわけではないだろうが、それでも彼女は素早く察知した。

 出入り口から回り込み、石橋さんの駆けたほうへ向かう。生け垣の奥で、カラスたちが何かに群がっていた。石橋さんは必死にそれを追い払っている。僕が追いつくのと同時に、とうとうカラスたちが去っていった。

 地面に膝をつき、石橋さんは何かを両手に抱える。

 それは一羽のカラスの遺体だった。羽はおかしな方向に折れ曲がり、体が血に濡れて、青黒くその表面が光っている。腹のあたりからは内臓がこぼれ落ちていた。

 虫取り網も軍手も使わず、彼女は動かないカラスを抱えて、ただ震えていた。



 僕のスマートフォンを使って警察と保健センターの両方に電話をした。彼らが来るまでの間、カラスの遺体とその周辺をなるべく荒らさないよう、僕たちは慎重に調べることにした。石橋さんは近くの水飲み場で手を洗い、軍手をつけて戻ってきた。

遺体のすぐそばにほじくり返された穴があり、もともとは埋められていたものだと推測ができた。腹を何かで切り裂かれたような跡があり、内臓がこぼれていたのはそれが理由のようだった。少なくとも、カラスがくちばしで抉っていってできた跡ではない。なわばり争いによって負った傷にも見えない。人為的な、人の悪意。彼女の言葉がよぎる。

 最初にやってきたのは二人の警察官だった。僕たちは見つけた経緯や状況をできるかぎり端的に伝えた。僕たちが説明している間、聞き役以外のもう一人の警察官は、現場の確認のためか、撮影をしながら無線で連絡を取っていた。自由研究という僕たちの主張は、石橋さんが着ていた学校の制服のおかげか、素直に受け入れられたようだった。

 聞かれたことにはすべて答えた。聞かれなかったことに関しては、僕は一言も自分の情報を明かさなかった。兄のことや、その部屋で起きていることも、その情報のうちに含まれている。

 遅れて保健センターの女性スタッフがやってきて、警察官の一人と話しこみ始めた。僕たちは早くも蚊帳の外にされ始めていた。

「あの、これ、よかったら使ってください」

 そう言って石橋さんがもう一人の警察官に差し出したのは、折りたたまれた数枚のレポート用紙だった。ホッチキスで留めてあるその用紙は、石橋さんがこれまで残してきた調査研究のメモのコピーだった。どこで遺体が見つかり、どれくらいの頻度で起きているかが、地図上にわかりやすく書きこまれている。こんなものを用意していたなんて、知らなかった。警察官にも渡すことで、捜査に役立ててもらおうとしたのだろう。

「ああはいどうも。これ自分で調べたんだ? すごいね」

 警察官はどことなく呆れたような笑みを浮かべて、彼女のレポート用紙を受け取る。公園わきに停められたパトカーに戻っていき、そのレポート用紙を後部座席に放ったのが見えた。石橋さんがそれを見ていなかったのが、せめてもの救いだったといえる。この件に関して警察は、現時点ではまだまともに捜査する気がないのがこれでわかった。この先も捜査は進展しないかもしれない。もう信頼はできない。

 信頼できない、などと、自分の内側からわき出たその感想に驚く。よく考えればおかしなことだった。捜査が進展しないのであれば、それは僕にとっては好都合なはずなのに。彼女がこれまでたった一人で調べてきた成果を、警察官が無下に扱ったからというだけの理由で、どうしていま、自分がこれほど腹を立てているのかも、わからない。

 保健センターのスタッフと話していた石橋さんがもどってきて、僕に状況を共有してくれた。

「遺体は保健センターのひとが引き取るみたい。私たちにできることはないから、帰ってもいいって」

「そうか」

 警察官たちはすでに僕たちのことを見ていない。公園前を通りかかった主婦を呼び止めて、なぜか話を聞こうとしていた。僕のスマートフォンの電話番号は最初にすでに伝えてある。いま消えたところで、彼らは見向きもしないだろう。

「私、今日はここで夜、張り込みをするつもりだけど」

 彼女の声が意識を引き戻した。

「張り込み?」

「犯人がまた、ここに遺体を捨てにくるかもしれないから」

 なわばり争い説は完全に一蹴された。彼女は犯人を見つけるまで、この捜査を終わらせる気はない。夏休みの期間どころか、下手をすれば卒業しても続けているかもしれない。

「それを保健センターの人には伝えたの?」

「もちろん言ってない」

「だよね。中学生の深夜外出なんて、認められるわけない。しかも刃物を持って、カラスを平然と傷つける人間に出くわすかもしれない場所に。危険すぎる」

「飯田くんは反対?」

「反対しても、きみはやめないんだろう」

 こくり、と躊躇なくうなずく。警察官がまだいるというのに、彼らのすぐそばで、僕たちは社会的に歓迎されないことをしようとしている。

「僕も付き合うよ。それで少しでも危険を排除できるなら」

「私は一度帰って、お母さんとお父さんに、友達の家に泊まりに行くって伝えてくる」

 そのまま再集合の時間を決めて、解散となった。



 夜の九時過ぎ、公園のベンチで石橋さんは先に待っていた。約束の集合時間は九時三〇分で、少し早めについて待っていようと思っていたが、やはりというか、彼女のほうが早かった。

 服が学校の制服から薄手のパーカーとジーンズに着替えられていた。私服を見たのはこれが初めてかもしれない。いつもの正装の一部である、虫取り網やカゴもなく、麦藁帽子もかぶってない。

 一番の変化は眼鏡をかけていることだった。犯人にすぐに気づけるように持ってきたのだろう。ずいぶん嫌がっていたが、背に腹は代えられないと思ったのかもしれない。遠くから見ていても、本人の申告通り、確かにあまり似合っていなかった。

近づく僕に気づき、石橋さんが手をひらひらと揺らす。事情を知らなければ、夏の幽霊に見えなくもない。公園にあるベンチのなかでも、街灯の明かりが届かない特に暗いベンチにいるので、余計に雰囲気が出ている。

「どうしてそんな暗い場所で?」

「犯人に見つからないように」

「眼鏡姿を見られたくないからではなくて?」

「犯人に見つからないように」

「わかったよ。からかって悪かったって」

 家を出るとき、兄の部屋から寝息といびきが聞こえてきた。今日ここに誰かがくるとしたら、仕事帰りの酔っ払いか、行き場所のない不良青年たちあたりだろう。防犯用に小さな殺虫剤スプレーをショルダーバッグに入れてきたが、催涙スプレーほどの威力を発揮するかは分からない。

 気配を消して、夜のなかで一番静かな影に溶け込みながら、現れないと分かっている犯人をひたすら待つ。彼女がひとりぼっちで戦っていることを、僕だけが知っている。

「もし、今日現れなかったら?」僕は訊いた。彼女は夜食用のパンを食べていた。

「明日も続ける」

「明日も成果がなかったら?」

「明後日も、そのまた次の日も続ける。大人のひとは使えなかったから」

 昼間の警察官、もしくは保健センターのひとたち。彼らの態度を、石橋さんも見抜いていたらしい。決して彼らが無能であるとか、協力的ではないと非難するつもりはない。ただ、僕たちが解決しようとするのと同じ速度で、あのひとたちは生きていない。同じだけの熱量を持って、この問題に取り組んではいない。

「ひとつ聞いてもいいかな?」

「うん」

「石橋さんは、どうして僕の同行を許可してくれたの? 話を聞く限り、あまり他人とか、クラスメイトとは関わりたがらないようだったから」

「飯田くんは、ほかの人とは違う気がした」

 石橋さんはパンを食べ終えて、ペットボトルの水を飲む。喉を鳴らす音が、僕たちの半径三メートルに響く。

「飯田くんはいつも、先生に色々な雑用を押しつけられてる気がする。飯田くんは先生に気に入られようと媚びた顔もしないし、逆に面倒くさそうな顔もしない。それが素敵だと思った。もしも私が同じように先生に頼みごとをされたら、きっと同じようにしたと思うし、同じにようにしようって決めてる」

 それが同行を許可してくれた理由なのか、もしくはいま、とっくに別の雑談をしているのかは、よくつかめなかった。けれどこれだけはわかる。あの教室で僕を一番よく理解してくれているのは、まぎれもなく彼女だった。

「飯田くんとは、一緒にいても、なんだか大丈夫」

 彼女の研究を頓挫させるために、僕はスパイの真似ごとをして画策し、答えから遠ざけようとしてきた。それはいま半分は成功していて、もう半分はとても大きな誤算が生じている。予想していなかった、致命的な誤算。

 僕は彼女が好きだった。


     4


 公園でカラスの遺体が見つかってから四日後の夜、兄が外出しようとする気配があった。部屋のなかから聞こえる物音の頻度が、明らかにいつもより多かった。リュックのジッパーをしめるような音が聞こえて、外出を確信した。

 自室にこもり、兄が外出する五分前まで悩んだ。板挟みで、どうにかなりそうで、壁を一度だけ強く殴った。最後に浮かんだのは、警察官にも保健センターのスタッフにも相手にされず、一人きりになった彼女の姿だった。

 僕は石橋さんに電話をかけた。彼女は昨日、スマートフォンを買ってもらったばかりだった。僕と緊密に連絡が取れるよう、親を説得したらしい。

 彼女はすぐに電話にでて、もう公園についていると言ってきた。

「ごめん。今日は僕、行けそうにない。親に夜の外出がバレて監視されてるんだ」

「そう。わかった。無理しないで」

 もう一言か二言、なにか添えるべきかと思ったが、結局そのまま電話を終えた。玄関のドアが開閉する音がちょうど聞こえて、急いで僕も準備する。

玄関ドアを数センチ開けると、廊下の奥のエレベーターに乗り込む兄が見えた。背負っている黒のリュックサックまで完全にエレベーターに吸い込まれるのを確認したあと、外に出て駆ける。

階段を下りてエントランスを抜ける。兄はマンション前の通りを右に折れるところだった。一〇メートルほど距離を置いて、追いかける。つい数分前に決めた尾行なので、事前に知識ももちろんなく、この距離が適切かどうかもわからない。

 僕は兄と話をする。言い逃れができない確固たる状況の、その現場で。そしてしかるべき対応をする。ただしそこに彼女はいない。彼女が知らないところで、この事件は解決される。ずるく、小賢しい計画。この方法を選んだのは、ただ単純に僕が石橋さんに嫌われたくないという、それだけの理由だ。達観してるね、なんて年上のひとによく言われて、いい気になって大人ぶって、兄の影響を受けて大人みたいな言葉づかいをして、それでも結局、僕は未熟な中学生のガキだった。

 住宅街の角を何度か折れる兄を追いながら、僕は現実逃避の妄想をする。こうして尾行しながら、石橋さんから電話が入ってくる。いま私の目の前で犯人がカラスを殺してるの、という連絡。犯人は兄ではなかった。僕は兄の尾行をやめてその現場にかけつける。石橋さんはあの性格だから、僕がかけつけるよりも早く犯人と接触するだろう。逆上した犯人が刃物を石橋さんに振る。すんでのところで駆けつけた僕が、何かしらの方法で犯人を制圧する。そんな風に解決されたら、どんなにいいだろう。

 妄想を打ち消して我に返らせるように、兄がそのとき早足になった。僕も同じ速度で追う。兄が走り出す。何か見つけたのだろうか。

 たどりついたのは河川敷だった。兄は土手にかかる階段はのぼらず、その横の斜面に足を踏み入れる。雑草がきれいに刈りとられた斜面に、何か小さな物体が横たわっていた。兄はそれに近づき、しゃがみこむ。

 近づいた兄に反応するように、物体が一度、大きく動いた。それは羽のように見えた。兄が見つめている前で、物体はそれきり動かなくなった。

 兄が一度、周囲を見まわす。身を隠せる電信柱がなく、しゃがみこむ暇もなかった。見つかったかと思ったが、兄は僕に気づかず、横たわるカラスに意識を戻していった。背負っていたリュックを下ろして、抱えあげたカラスを素早くリュックのなかにしまいこむ。カラスは一度も暴れなかった。

 カラスをいれたリュックを背負い、兄がこちら側に戻ってこようとしていた。先に駆け出して、十字路のそばに見つけた電信柱の陰に隠れた。勢いあまって、肘が何か固いものにぶつかった。振り返ると、金網式のゴミ捨て場があった。

 肘の痛みが引かないうちに、十字路を兄が通り抜けていく。元来た道と同じ。まっすぐ家を目指すようだった。

 道の先に大通りが見えてくる。信号を渡ろうとしたとき、通りをパトカーが横切った。兄は即座にきびすを返し、その手前の民家の間にある路地裏に入っていく。少し歩いた先にある歩道橋を使い、遠まわりをしていた。

 マンション前までたどりついたとき、兄はもう一度周囲を確認した。エントランスを抜けて、エレベーターを使わず階段で駆け上がっていく。少し時間をおいてエレベーターを使い、僕も帰宅する。

 玄関口に靴はなく、兄は丁寧にげた箱にしまって外出をカモフラージュしていた。僕はよく脱ぎ散らかされた兄の靴で、兄がいつ外出していたかを把握していた。僕が気づいていたよりもずっと多く、何度も外に出ていたのだろう。

 躊躇する時間が長くなるたびに、きっと体が動かなくなっていく。だから靴を脱いですぐ、まっすぐ兄の部屋の前に立ち、ドアノブをつかんでまわした。兄が父と喧嘩をしたときから、この部屋の鍵が壊れていることを僕は知っていた。

「兄さん」

 驚いたように肩を震わせて、兄が勢いよく振り返ってくる。その手にはサバイバルナイフが握られていた。まわりにはブルーシートと新聞紙がしかれ、机のうえにはさっきまでリュックのなかにしまいこまれていたカラスが寝かされている。足も、羽も、くちばしも動かず、すでに息をしている気配はない。

「兄さん、ナイフをおろして」

「宝……」

「警察を呼ぶ。もう見過ごせない。今日まで気づかないフリをして黙っていた僕にも、責任がある。ちゃんと僕も罪を背負うよ。だから兄さん、そのナイフを――」

 僕が言うよりも前に、兄はナイフを机においた。極めて冷静に。その落ち着きぶりに、小さな違和感を覚えた。

 兄は確かに悔いている。僕が部屋に入ってきたことに驚き、動揺もしている。

 だけど恐れてはいなかった。

怯えている様子でもなければ、すべてを観念したというわけでもない。

「誤解するのも無理はない。だけど宝、お前は勘違いしてる」

「……勘違い?」

 その目には確かに生気が宿っていた。僕はようやく違和感の正体に気づいた。兄は自分を、見失ってなどいない。

 カラスは動かない。もう息はない。だけどその腹にはまだ、ナイフに切り裂かれた跡はない。兄が毒を盛ってカラスを殺した。違う。部屋で一人、解剖することを楽しんでいた。そうじゃない。

「宝。警察に連絡する前に、おれの話をさせてくれ」



 兄が最初にカラスの遺体を見つけたのは、今年の四月に入ってすぐだという。早朝か、深夜の散歩のどちらかをするのが習慣になっていて(知らなかった)、兄は早朝の歩道橋でその一羽を見つけた。石橋さんと同じ対応をとり、カラスは保健センターへ預けられていった。兄はカラスのことが気がかりで、何度か問い合わせをしたそうだ。

「鳥インフルエンザなどのウイルス系が死因ではないのでご安心ください、と返ってきた。神経過敏な近隣住民だと思われたようだった」

 それからも兄は同じようなカラスの遺体を三回ほど見かけた。いずれも外傷がほとんどなく、眠っているのかと思って近づいたこともあったそうだ。

「つい最近、飛べずに羽をばたつかせて、弱っているカラスの一羽を公園の生け垣のそばで拾ったんだ。そういうときは放置が原則らしいが、おれにはできなかった。エゴでもなんでもよくて、助けてやりたかったんだ」

 そのカラスは兄の部屋で少しずつ体力を回復させていったという。僕がこの夏に入って聞いていたカラスの鳴き声は、回復しようとしていたその一羽の鳴き声だったのだ。

 兄の介抱もむなしく、結局カラスは亡くなったという。

「原因を知りたかった。どうして自分は何もできなかったのかと。それでカラスの遺体を解剖した。解剖したあとは元々いた公園の生垣のそばに穴を掘って、埋めた」

 僕たちが見つけたのは、そうして腹を裂かれたカラスの遺体。兄の埋葬は深さが不十分だったのだろう。まわりの、必死に生きようとするカラスの群れにほじくり返され、僕たちが発見するに至った。

「という話なのだけど、どう思う?」

 僕はダイニングテーブルの席で、横に座る石橋さんに顔を向ける。

公園にいた石橋さんをマンションに呼び、兄には僕にしてくれた話を繰り返すようお願いしていた。

話を聞き終えた石橋さんは静かにうなずいて僕を見た。

「飯田くんに苦しい思いをさせた。ごめんなさい」

「僕のほうこそ。きみに何を言われても受け入れる」

「……それなら、一緒につきとめてほしい。飯田くんの力をかしてほしい」

 カラスの不審死の、本当の真相を。

 僕たちの手で。

「もちろん」

 答えながら、向かいに座る兄と目が合う。いつの間にか、髪がまた切られていた。兄はイタズラを共有するような、含みのある笑みを見せてくる。僕がクラスメイトの女子を連れてきたことを、からかっているのだろう。兄とそんな他愛のないコミュニケーションを取ったのが久しぶりで、なんだかくすぐったい気持ちになった。

「解剖して、何かわかったことはあったの?」僕は兄に訊いた。

「外傷はほとんどなかったし、あったとしてもほかの個体との喧嘩でできた小さな傷だけ。胃の内容物は、草花がほとんどだった」

「草花? カラスが食べるの? 草を?」

「雑食で、食べないことはない」石橋さんが答えた。彼女の知識は頼りになる。

 兄は部屋に戻り、そこから小さなポリ袋に入ったそれを見せてきた。茶色く濁った何かが封入されていたが、よく見ると花びらだとわかった。

「キキョウの花だ。この町の市花。これが一番多かった」

「花……」

「どういう意味があるのかは分からない。意味なんてないのかも」

「キキョウの花は何か有害だったりはするの?」

「いいえ、カラスの毒になるようなものはない」

 これにも石橋さんの知識が発揮された。

 僕は考える。もう強引な仮説をこじつける必要はない。フラットに情報を整理する。導き出せ。石橋さんに報いるには、僕はもうこれしかない。

「兄さん、いま部屋にいるカラスは、発見時にはすでに亡くなっていたの?」

「ああ。だから拾ってきた。解剖をしようと」

「それは、いまからできる? 胃の内容物を知りたい」

 石橋さんが僕の方を向く。視線を返して、彼女の瞳からそらさない。手がかりに困ってそう言っているのではないし、もちろん興味本位でもない。仮説があり、それを裏付けるための提案。そんな僕の意図を、石橋さんは察してくれたようだった。

 わかった、と小さくつぶやいて、兄が席を立つ。ついていこうとしたが、そこで待っていろと言われた。何かしらの罪にもし問われたとき、僕たちを守るためだろう。僕はそれでもついていこうとした。もう兄を一人にしたくなかった。兄を信じることができなかったから、僕は余計な勘違いをして、他人をも傷つけるところだった。

「いいから、お前はあの子のそばにいてやるんだ」

 兄はそれでも譲らず、結局は僕のほうが根負けすることになった。その曲がらない意志の強さを僕は知っていた。言うまでもなく、僕の好きな女の子が持っているものと、同じだった。

 待っている間、石橋さんが僕に言った。

「飯田くんはやさしい」

「それは僕が、きみに言うべき言葉だよ」

「飯田くんはお兄さんによく似てると思う」

 それもやっぱり、僕が言うべき言葉だった。



 三〇分ほどが経って兄が戻ってきた。ゴム手袋をキッチン横のゴミ袋に捨てながら、結果を知らせてくる。

「前に解剖したやつと同じだ。内容物はほとんどなくて、あるのは草花ばかり。それもキキョウの花だ」

 僕がうなずいてお礼を言うと、その様子を察して、兄が薄く口を開けた。

「わかったのか?」

「まだ予想にすぎないけど」

「原因は何なの?」石橋さんも顔を寄せてくる。

 僕はスマートフォンを取り出す。ここからは仮説の答え合わせだ。

彼女は相変わらず、核心的なひらめきを得た探偵に期待するような瞳を向けてくる。そんな大層なものじゃない。ひらめきも必要ないし、ただの消去法で生まれた答えだ。

「今年に入ってから連続しているカラスの不審死。外傷はなく、なわばり争いによるものでも、誰かの悪意によるものでもない。兄さんが保健センターに問い合わせた結果、細菌が原因でもないことがわかっている。彼らは餓死寸前で、胃の内容物には必ずキキョウが入っている」

「でも、そのキキョウにカラスの害になるような毒はない」

 僕はうなずいて、応えた彼女を見る。

「キキョウ自身に毒はなくても、あとからその根や葉に何かしらの毒物が付着していたとしたらどうだろう」

「毒物? 誰かが殺すために散布したってこと?」

「そうでないとは言い切れないけど、たぶん違うと思う」

スマートフォンからネットにアクセスし、市のホームページを開く。それで兄さんは答えを察したようだった。

僕が開いたのは、サイト内にある、『町の美化運動』に関する特設ページだ。去年から新しく市長が代わり、町の美化運動と銘打ち、いくつかの公約を掲げている。僕はそれを読み上げる。

「公約その①、町の衛生管理の徹底。具体的には地域の定期的な清掃と、ゴミ捨て場の改修がこれにあたる。公約その②、河川敷および公園や通りの花壇の整備。市花のキキョウが町中に植えられ始めた。この二つはどれも今年に入ってから行われている」

「カラスの不審死が始まった時期とも一致する」兄が添えた。

「誰か個人が悪意を持って毒を散布したという説は否定できないけど、時期的に一致していることから、原因はこっちにあると思う。市の美化推進運動」

 石橋さんが小さく手を挙げる。

「町の美化運動でキキョウがたくさん植えられたのはわかった。でもどうして、それでカラスが亡くなるの?」

 公約その②と書かれた項目の下に、ちょうど整備に関するPDF資料が添付されていた。資料を開くと、予想通りのものがあった。これがわかりやすく説明してくれる。

「これは?」

「キキョウの育成と、そのまわりに生えていた雑草の除草作業に使われた農薬の一覧表だ。無数の種類の薬品が使われてる」

 見せてくれ、と兄がうながすのでスマートフォンを渡す。その間に僕は彼女に補足していく。石橋さんもすでに答えを察していたようで、その顔がとたんに青ざめていた。

「カラスにとっての最初の変化は、ゴミ捨て場の整備だ。これまで餌を得ることができていたゴミ捨て場が、金網式に変わり、満足にあさることができなくなってしまった。だけど生きていくためには、食べるものは選んでいられない。カラスたちは通りの花壇や河川敷に咲くキキョウを食べるようになった。普段はしないはずの行動だ。周囲の土をほじくり返して、虫やミミズも食べていたかもしれない。その周辺に撒かれていた薬品は、カラスにとっては無害ではなかった」

 兄がスマートフォンから顔を上げる。

 画面の向きを変えて、表示された薬品名を見せてくる。

「農薬にあたるシアノホス、それから除草剤として使われた塩素酸ナトリウム。おそらく、これだ。法定基準量に則って使用していると注意書きはあるが、それぞれ複数の薬品を摂取すれば、無事では済まないだろう」

 あくまでも仮説であり、証明するための証拠はそろっていない。けれどこれが真実なら、カラスはキキョウを食べなければ死ぬことはなかった。ゴミ捨て場が整備されることがなければ、死ぬことはなかった。町が美化運動を推進することがなければ、死ぬことはなかった。ひとが無自覚に生み出した、不慮の事故の結果だ。

 石橋さん、と彼女を呼ぼうとして、やめた。声などかけられなかった。気の利いた言葉の一切も、無駄になるとわかっていた。

 彼女がどんな表情を浮かべていたか、僕は誰にも話すつもりはない。


     5


 石橋さんは抗い続けた。そうする方法しか知らないみたいに、自分たちの主張を伝え続けた。警察署には二度訪れたし、保健センターのスタッフとも何度も会った。僕たちの導き出した答えは所詮、中学生の推論にすぎず、立証もできない。仮説としては正しいのかもしれない。だけど確信にいたる証拠がない。証拠がなければ具体的には動けない。と、そういう風な答えが返ってくるだけだった。保健センターは僕たちの仮説をもとに調査をすると応じてくれたが、それも石橋さんが望む迅速な動きには及ばないだろう。

 僕たちは残りの夏休みの期間を使って、自分たちがいかに無力で非力であるかをたっぷり思い知ることになった。

 最後の相手は担任教師だった。野球部の顧問でもある担任教師は夏休み期間中も学校にいた。アポもなしに訪れた僕たちを、しかし先生はぞんざいには扱わなかった。普段は面倒臭そうにあくびばかりする先生が、このときだけは僕たちの研究成果と、対策をしてほしいという相談を終わりまで聞いてくれた。対応はとても丁寧で、大人の事情という、ここ数日で一〇〇回は聞いた体の良い煙に隠れることもなく、僕たちとまっすぐに向き合ってくれた。そのうえで先生は告げてきた。

「行政側が動くにはお前たちの主張だけでは足りない。もっと大きな声と、確実な立証をする必要がある。それはおそらく長い時間をかけることになる。全力で時間をかけてなお、報われないことだってある。そして何より、お前らにはこの先ほかにも闘わなくてはならないものがある」

 僕たちは中学二年生だ。それも半分を過ぎている。進路と向き合う時間は確実に訪れようとしている。先生がいう闘うべき相手とは、そういう種類のものだ。

「闘う相手を間違えるな。時期も見誤るな。おれが言ってやれるのは、これだけだ」

 それが僕たちの、自由研究の終着点だった。



 八月三一日、夏休みの最終日。曇っていたが雨が降り出すほどではなく、ところどころで青空も見える、比較的涼しい一日だった。

「これでぜんぶ?」

「ああ、リビングも片付いた」

 僕と兄の周囲には、バランスよく積み上げられた段ボール箱の山々がある。部屋のものはほとんど片づけ終えて、あとは引っ越し業者が来るのを待つだけだった。

 カラスの一件で兄と再び話すようになってすぐ、兄が引っ越しを提案してきた。これまで迷惑をかけてすまなかった。もう大丈夫だ。そんな短い一言だったけど、僕はその言葉に嘘がないことがすぐにわかった。

 日夜、僕と石橋さんが足掻き続けている姿を見て、目が覚めたのだという。それが本当なら僕たちの行動に少しは意味があったのだと思えて嬉しいし、嘘でもやっぱり、兄の優しさが響いて嬉しかった。とにかく、長く続いた停滞が解消されるきっかけなど、意外にささいなものだ。

「兄さん。僕、ちゃんと謝ってなかった」

「なんだよ、いまさら」

 短くさっぱりと切りそろえられた髪をつまみながら、兄が答える。本人は出来に少し不満なようだ。おれがやったほうが上手いとも言っていた。

「ずっと、疑っててごめん。あの部屋のドアを開けるのが、怖かったんだ。一度開ければ、認めることになってしまう気がして。兄さんが――」

「変わってしまったんじゃないかって?」

 僕の言葉を、兄がすくい取る。それから兄の大きな手が頭に乗る。くしゃくしゃ、と撫でて、その手が離れる。見上げると、僕の尊敬する兄の笑顔があった。

「おれのほうこそ悪かった。心配かけた。お前にまた頼ってもらえるように、少しずつ、証明していくよ」

 そのとき、インターホンが鳴る。引っ越し業者が到着したようだった。

 応答しようとすると、兄が僕をとめた。

「あの子と待ち合わせしてるんだろ。行ってやれ」

「でも、引っ越し作業が終わってからって伝えてある」

「いいから行ってやれ。たぶんもうお前を待ってる」

 その姿があまりにも鮮明に想像できたので、兄の助言に従うことにした。準備を済ませて、マンションを出るころには、柄にもなく駆け出していた。



 待ち合わせ場所である水切橋近くを捜すと、彼女は河川敷の土手に座って待っていた。麦藁帽子も、虫取り網も、カゴも、身につけていない。学校制服ではなく涼しげなワンピースを着ていた。

 自由研究が終わっても、僕たちはこうして用もなく定期的に会っていた。僕が誘うこともあったし、彼女が誘ってくれることもあった。たいていは他愛のない雑談で終わる。自分たちの知らない趣味について語ることが最近は多い。お互いにあまり喋るのが得意ではないから、話題が途切れればすぐに静寂が落ちる。だけど不思議と、居心地は良い。

「明日から学校だね」

「うん。そうだな」

「昨日、コンタクトレンズを入れたの。最初はつけたときに違和感あったけど、少し慣れてきた。今日はまだ一度も道につまずいてない」

 顔を合わせて確認すると、確かに目のなかにレンズが入っていた。そのまま見つめ合って数秒が経ち、また彼女が口を開いた。

「教室でも、話しかけてくれる?」

「一番に話しにいくよ」

 休み時間は一緒に過ごしてもいい。昼食を一緒にとってもいい。放課後は一緒に帰ってもいい。たぶん、そのどれも、最初に僕が誘うと思う。

 何か話題を振ろうと、再び彼女のほうを向いた。膝を抱えて泣いているのを見て、話しかけようとした内容がすべて吹き飛んだ。

 石橋さんは涙の理由を明かす。

「私、結局、同じだった……。自分が一番嫌いだって言ってたひとたちと、同じだった。町の多数決に加わってて、美化運動にいままで反対もしないで、自分たちに都合の悪いカラスを、一方的に追いだしてた」

 僕は彼女の話を思い出す。小学校のころの、ウサギ小屋の話。自分たちの都合でウサギを飼い、自分たちの不都合でウサギを遠ざけた。そのときに起きた多数決の波を、石橋さんは拒絶した。だけどそれと同じになってしまった。それが涙の正体。

「私も、同罪だ……」

 嗚咽が漏れる。ランニングやサイクリングで通り過ぎるひとたちは、僕らのことなど気にもとめない。気づいているけど、見ないのかもしれない。この夏の間、僕たちはずっと、二人ぼっちの探偵だった。

「きみに罪があるとは僕は思わない。だけどきみがそう感じるなら、やっぱりそれが正しいんだと思う」

 僕は続ける。

「だから僕も、一緒に背負うよ。二人で抱えよう」

 石橋さんがゆっくり、もたれかかってくる。ありがとう、という小さな声がはっきりと聞こえる距離。僕は彼女の重さを受け止め続けた。

 そのとき、僕たちの周囲を、何かの影が通り過ぎて行った。彼女と一緒に見上げると、それはカラスの群れだった。

 数羽が声をあげながら、群れは河川を渡り、対岸の町へ移動していく。たくましく、どこまでも飛んでいくような力強さを感じた。

石橋さんは袖で目元をぬぐい、カラスの群れを見守る。眼前にある土手の斜面には、一面のキキョウが咲き誇っている。

「泣くのは、これで最後にする。それで私は早く大人になる」

 僕たちはひたすらその場に座り続けた。



 遠ざかっていく群れから、声が聞こえなくなるまで。