【短編 夏の風を追い越したら】北國ばらっど
『呪術廻戦』のノベライズ、そして年末のNHKドラマ『岸辺露伴は動かない』で話題となった『くしゃがら』原作を担当した北國ばらっど先生から、恋愛短編を頂きました。テーマは、昨年から今年にかけて苦難の時を迎えた『スポーツ×恋愛』。あがった原稿は、少年少女のかけがえのない一瞬が刻み込まれた、とてつもない傑作でした……!
作者プロフィール
北國ばらっど(きたぐにばらっど)
2014年、HJ文庫文庫大賞で「強欲な僕とグリモワール」が銀賞、とスーパーダッシュ文庫新人賞で「アプリコット・レッド」が優秀賞を受賞、デビューする。Jブックスでは『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの登場人物・岸辺露伴を主人公としたノベライズ『岸辺露伴は叫ばない』等のアンソロジーに参加、その1編の『くしゃがら』はNHKでドラマ化され大きな反響を呼んだ。『呪術廻戦』のノベライズも担当し、圧倒的なクオリティから読者の支持を得ている。
【夏の風を追い越したら】
秒速8メートルの世界では、余計なものは吹き飛んでいく。
青空をのんびり流れていく雲も、コース脇で見つめる友達の顔も。
自分以外は、すべて背後に置いていく。
腕を振って、空気を漕ぐ。
足が大地を蹴り飛ばす。
張り裂けそうな心臓を抱え込んで、鉛になっていく太腿を藻掻かせて、全身の筋肉を連動させて、ただ走るためだけに、12秒と少しを生きる。
たった100Mを、私の中にある物だけ抱えて、駆け抜ける。
ただそれだけ。ただ、走るだけ。
その先にある背中を。
あるはずのない背中を、もう、ずっと追いかけている。
■
「羽矢(はや)ってさ、やっぱ羽矢って名前だから足が速いの?」
「えぇ?」
明日香からそう尋ねられる回数は、たぶんそろそろ2桁目になる。
帰り支度をする生徒で慌ただしい、放課後の教室。つい可愛げのない返事をする私に、明日香は半笑いで言葉を続けた。
「だって、また記録伸ばしたんでしょ。12秒……31だっけ」
「伸びてないよ。自己タイ」
「マジか。いや、でもこの時期に自己タイ出るのはヤバいって。真島先輩のテンション凄かったよ。夏までにしっかり仕上げれば、インターハイいいとこ行くって。ウチみたいな田舎の高校が有名になるかもってさ」
「大げさじゃない?」
「じゃないって。羽矢、速いよ。はやはや」
「それ飽きたからね、ほんと」
春真っ盛りの、部活のない日の放課後。廊下を歩きながら、呆れた声を出す。
2年生と呼ばれるのにも少しは慣れて、肩の力が抜けてきたからこそ、明日香は聞き飽きたような冗談を掘り返してきたのかもしれない。
私自身、ちょっとした持ちネタであるという自覚はある。
陸上部の〝はや〟なんて、スポーツ漫画のように出来すぎで、私が他人だったら、間違いなく名前でイジっている。気持ちは分かる。
けれど、高校に上がってからもう1年以上、同じクラスで、同じ部活の付き合いなのだから、そろそろしつこいと思ったって仕方ない。
「いいなあ、私も〝速い〟って言われるの、飽きてみたい」
「私が飽きてんのは、名前いじりのほうだって。それに……」
明日香の持ち出してきた記録には、私は納得していなかった。
「こないだのタイムは、追い風があったからで……公式記録だとマイナスだから。あの天気なら、誰だって速いよ」
これは、真島先輩にも言った。
陸上部なら分かっていていいことのはずだ。
「でもさ、羽矢って風なくても、100Mは12秒台でしょ? ミサイルかよ」
「調子も天気も良い時に12秒台で走るだけなら、上に500人は居んの。せめて、いつも追い風なしで12秒30を切れるくらいじゃないと」
「理想たっか」
高いから理想なんでしょ。
そんなセリフは、口にしてしまうと、マジメすぎて白けそうだ。
そういう機微には、なるべく敏感でいようと思う。
もともと、私は――藤野羽矢(ふじのはや)は、コミュニケーションが得意なほうではない。成績がいいほうでもない。
取り柄があるとすれば、背の高さと、足の長さ。
そして、走るのがある程度速い、ということ。
幸い、そんな私には陸上部という居場所があって、走るのが速ければ、とりあえず輪に入ることができた。
スポーツが単なる競技でなく、学校の中での居場所になることを理解したのは、中学生になってから。
それから高校まで、交流はスポーツ頼り。友達さえできれば、今年で十七歳になる私たちが、何を話題にするべきか、という知識は手に入った。部活に入っているからといって、全員の熱意が同じでないことも理解できた。
とにかくそうやって、走っているうちに、人との話し方や距離感を覚えていった。
だから速く走ることが、私のアイデンティティであることは確かだ。
「帰りどうする? バス捕まえるなら、もうちょっと待つけど」
下駄箱が見えてくると、思い出したように明日香がそう尋ねた。私がどう答えるかは、もう決まっていた。
「先帰っちゃって。私は部室で着替えて、ジョギングしていく」
「マジか」
明日香の声は、少しヒいていたと思う。
私は言い訳のように、理由を話した。
「毎日、なるべく運動量変えないようにしてんの」
「あちーなぁ、部活休みの日まで……きつくないの?」
「きついよ。面倒だし」
これもお決まり。名前でイジられるのと同じくらい、言われている。
そして明日香は、決まって怪訝な顔をする。
「羽矢って変だよね。速いのに、走るのは好きじゃなさそうで。その割に一所懸命って、ちぐはぐな感じ」
「私もそう思うよ」
「なんで走ってんの?」
「なんで、って」
そりゃあ――記録を伸ばさないとな、という気持ちは、なくはない。
でも、それが楽しいわけじゃない。
明日香や先輩には褒めてもらえるけど、むしろ今の私は壁にぶつかっている。
走り始めたばかりのころは、1秒、2秒とタイムを縮めた。
中学に上がってから少しずつ、それは0.1秒を刻む世界の出来事になった。実力が伸びてしまえばしまうほど、限界を掘り進む苦しさは大きくなった。
食事を、放課後を、休日を――青春を、長い長い時間を捧げてようやく、小数点以下の時間が動く。その途方もなさは、味わってみないと分からない。
そうして走り続けた今の私に与えられたのが、12秒31という数字。
これでいいや、と満足していいとは思わない。けれど、楽しくてやっているのかと言われると、私はどうも頷けない。
だいたい、ただ走るだけだ。単純に疲れる。
短距離走と言ったって、100Mは走ってみると短くない。
50Mを超えたあたりで、脚は錆びついたように重くなる。
火を付けられたように肺は熱く、心臓はあちこちに引っ張られて、頭は高熱を出したようにぼんやりとして、視界はひどく狭くなる。
風を切る爽快感、記録を伸ばす達成感。
それらよりも遥かに多くの「苦しい」が襲ってくる。それを乗り越えてたった0.1秒の世界を走るのは、とても、辛い挑戦だ。
「なんで、って……」
けれど、私が走る理由は〝それ〟だ。
苦しくて、辛くて、泣きたくなる。その感覚と寄り添うために、走っている。言い換えれば、意地で、執着で、もっとドロドロした情けない何かのために走っている。
すべて、私の陸上の、〝最初の一歩〟がねじれていることが原因だと分かっている。
それを明日香に話しても分かってもらえる気はしない。
真面目な真島先輩に話したら、下手すると軽蔑されるんじゃないかとすら思っている。
なにより――、
「もっと速く走るために、走るんだよ」
そんな、答えにもなってない答えを返して、私は外靴に履き替えた。
「ストイックだよね、羽矢は。凄いと思うよ」
陸上部員としてての私を見る、明日香の視線は眩しい。
何かをする理由も、しない理由も、自由だと思う。スポーツだって勉強だってそうだ。始めたきっかけも、続けるしがらみも、自分だけのものだ。
けれど、4年近く初恋を引きずって走っているとは、少し言いづらい。
■
微かにしっとりとした春風の中を、秒速3メートルほどで駆けていく。
グラウンドのまわりを一周して、通学路に入る。このまま真っすぐ帰ると短すぎるので、さらに迂回して、商店街のほうを回っていく。
校章入りのジャージは、あまり好きじゃなかった。けれど陸上部に入部すると、形から入りたがる顧問の先生が、張り切って注文してくれる。
それでも、皆がのんびり歩いていく横を、速足で追い抜いていく罪悪感は、ジャージのおかげで少し薄れる。陸上部の証明を、私は走る免罪符にしている。
走り始めのうちはだんだん、いろいろな考えが浮かんでくる。
皆は期待してくれるけど……今年の自分は、どこまで伸びるだろうか。
そもそも期待に応えようという気持ちは、あるだろうか。
追い風ありで、自己記録を越せなかった。
地元では、私は速い。そういう自覚はある。けれど、全国は次元が違う。上に行こうと思えば、昨日の自分より速く走り続けなければならない。
そこまでして、走る意味があるものだろうか。
期待に応えなくても、私が走り続けることを、皆は許してくれるだろうか。
腕を振って風を切る。
ほのかに、背中から汗ばんでいく。
酸素の余裕がないからか、頭がぼうっとする。
この感覚は、短距離よりもジョギングのほうが、緩やかにやってきて、長く続く。
そうすると、邪魔な考えが頭の中から少しずつ、絞り出すように抜けていく。
吸う、吸う、吐く、吐く、のリズムで呼吸するたび、胸から、足裏から、広がっていく熱が体中に行きわたる。
火照る体で受ける日差しは、春の柔らかい光であっても、じりじりと肌を焼くように熱く感じて、春風の中には夏の香りが混じっていく。
走れば走るだけ、そうだ。
深い呼吸が、陽光の熱が、私を夏の日の、うだるような暑さの記憶へと連れていく。
パン屋さんの看板の前や、小さな書店の店先を横切り、買い食いしている中学生を横目に、手をつないで歩く同級生を追い越していく。
いくつかの景色が移り変わり、視界の端を流れて、やがて開ける。
川沿いの、まっすぐな道。
ここを走り抜けると、家まではもうすぐ。
そのあたりで蓮(れん)を見つけた。
「あれ――」
なんて、思わずつぶやいても、蓮は気づかない。
イヤホンをしながら歩いているせいもあるだろう。いつものこと。
鷹山蓮(たかやま れん)と言えば、「あの、背の高い子だよね」と通じるくらい、すらりと伸びたその背丈は目立つ。
スマートで、涼し気な背中。
手足がモデルのように長くて、ウチの学校のブレザーが似合う。
嫌みがなさすぎて、野暮ったい田舎の景色の中では浮いて見える。なんて考えながら、数歩の距離まで近づいていくと、やっと蓮は振り向いた。
振り向いて、イヤホンを外す仕草まで、軽やかだった。
「なんだ、藤野じゃん。ここまで走ってきてんだ」
――ああ、そう。やっぱり藤野って呼ぶんだ。
なんて、小さな文句が浮かんで消えて、私は呼吸を整えながら返事をする。
「今日は部活ないから、ジョギング」
「あっそ。好きだね、走んの」
「蓮こそ。それ聴いてたの、リスニング教材でしょ? 好きだね、勉強」
「するでしょ勉強。学生なんだから」
だったら、ウチの特進クラスなんて半端なとこに居ないで、違う町のもっと偏差値の高い高校に行けばいいのに。どうせそんなに勉強したら、大学は遠いところに行くのにさ。
そういう面倒な長文を、私は一言に縮める。
「飽きない?」
尋ねると、蓮はイヤホンをポケットにしまいこみながら、少し首をかしげた。
「そっちこそ飽きないね、走んの」
「飽きる」
蓮は微かに笑って、私は少し嬉しかった。
特進クラスの蓮は、部活に入っていない。居残って先生に個人指導を頼みに行くか、そうでなければ、すぐに帰って塾へ行く。
だから帰るタイミングが重なることは珍しいが、帰り道は同じだ。
小学生のころは、よく一緒に通学路を歩いていた。
「今日はどこまで走んの」
そう興味もなさそうに尋ねられて、私は蓮の隣にならんだ。
「あとは帰るだけだよ」
「ああ、そう」
進む速度を合わせても、足並みのリズムは揃わない。私の一歩よりも、蓮の一歩のほうが大きくて、足踏みの数は私のほうが多い。
会話も噛み合っているとは言えないけれど、これは昔からこんな感じだ。
ただ、昔の私は、もっと、とにかくトロかった。
歩くのも喋るのも、考えるのも。
細かいことが苦手なのは今も変わらないが、もっとノロマだった。「〝はや〟なんて名前なのに遅いんだ」とからかわれるのが常だった。
笑わなかったのは、たぶん蓮だけだった。
なんでもテキパキしていた蓮に、ノロマな私が懐いて、ついていく。
歩くのも走るのも速い、蓮の背中に追いすがって、あのね、あのね、と繰り返す。そんな私を落ち着かせて、蓮は話を聞いてくれる。
あのころ、私の視界はずっと蓮の背中で、私の世界は蓮だけだったように思う。
取り柄も自信もなかったけど、それはそれで楽しい時間だった。
そんな私を変えたのは蓮だ。
変わったのも、蓮だ。
思い出しているうち、私のジョギングは、ただの早歩きになっていた。
「藤野。いいよ、俺にペース合わせなくて」
「いいの。話したいから」
「俺のことなんか気にせずに頑張れよ。期待されてんだろ」
「見てきたように言うじゃん」
「評判聞こえてくるから。ウチのクラスにも、男子だけど陸上部いるし」
特進クラスは、この田舎町から良い大学に行くため、普通のクラスよりも詰め込みで授業をしている。けれど、全員が部活に出る時間がないわけでもない。むしろ勉強と部活の両立を謳っている。
それでも、ウチの学校の場合、特進クラスとそうでない子たちとの間には、微妙な溝が存在している。
それは結局「この町に根を張ってもいいや」と考える子たちと、遠い都会の大学に出て行こうとする子たちの、意識の差だ。どうせ将来は道が分かれると、口には出さないけど思っている子たちの間の溝だ。
だから蓮の言葉は、どこか、溝の向こうから響くように聞こえる。
「もうこの地区じゃ敵なしでしょ、藤野」
「そんなことないよ」
自分でも驚くほど、はっきり声が出た。
「そんなことない」
そんなことは、今は聞きたくない。聞いても実感がない。
だって、私はまだ追い続けている。
走るたび、100Mを全力で生きるたび、吹き抜けてくる夏の風の中で、ずっとずっと追いつけない背中を、追い続けている。
「蓮はもう走らないの?」
「陸上クラブ離れて何年だと思ってんだよ」
それはそうだ。
蓮から見ても客観的に見ても、もう終わったことだ。私だけが拘っている。
「だって私、まだ蓮に追いついてない」
「体育の授業でも100M記録してるじゃん。とっくに藤野のほうが速いって」
「一緒に走ってない」
「記録ははっきりしてる」
「そんな数字とか――」
耳に響く自分の声は、驚くほど情けない。
今更必死になることでもない、蓮はきっとそう言うだろう。
でも私は、周りが思うほど器用でも大人でもない。
私は、今でも走るのは好きじゃない。
好きだったのは蓮だ。
陸上クラブに入っていた蓮が、私に走り方を教えてくれた。
蓮の言うとおりに腕を振って、教えてもらったとおりに大地を蹴ると、私の足は私のものじゃないかのように、速く駆けた。
そうすれば私は、蓮の背中を追うことができた。
「――数字とかじゃ、ないんだよ」
あのころは、タイムが縮むのなんて、おまけだった。
走る練習は正直言って楽ではなかったけれど、ノロマな私が彼と同じ道で、彼の歩みについていけるのが、ただ嬉しかった。
速くなったと、凄いと、幼い承認欲求が満たされる嬉しさと、「でも、まだまだ追いつかせないよ」と、私の先を走りながら、背中越しに笑う蓮を、今も忘れない。
それは今までの私の知らない景色で、知らない世界だったから。
それが私の、第一歩だったから。
でも中学校に上がって、蓮との時間は少なくなった。
私は陸上部に入って、蓮は入らなかった。
事情を詳しく知っている人は、そう多くない。
ただ、あの当時、蓮の家は少し厄介なことになっていた。陸上選手だった蓮のお父さんと、蓮のお母さんとの間で、何か複雑な事情があった……としか知らない。
今よりもずっとずっと暑い、快晴の夏の日。
蓮は正式に陸上を辞めたことを、私に告げた。
私たちの気持ちとは関係なく、空はいっそ残酷なほどに晴れていて、太陽は明るく輝いていた。聞きたくなかった言葉を受け止めながら、遠く響くセミの声が、もっともっと煩ければ良かったのにと願った。
走るのが好きだった蓮は、好きなことの代わりに、漠然と〝安定した将来〟を目指して勉強を始めた。
そして私だけが、今も走り続けている。
楽しかった時間と、追いつけなかった背中の幻を、ずっと追って。
あの夏の日に感じた熱い風と、胸の痛みを、走る中で思い出し続けている。
お互いに、好きでもないけど上手に進めてしまう道を、坂道を転がる車輪のように、止まれないまま走り続けて、スピードだけが伸びていく。
――思い出に浸って、少し会話が途切れた。
頭上を流れていく春の雲は、低く見えても手は届かない。
それでも、あれは今隣にいる蓮よりも、近くに見える。
「もっと走れるだろ、藤野」
途切れた会話を再開したのは、蓮だった。
「フォーム綺麗だけど、今の藤野はもっとストライド伸びるだろ」
「なに、急に。知った風にさ」
「期待されてんだから、もっと頑張ってやれば」
「いいじゃん、今だって十分……」
「今の藤野を見てると、もどかしいんだよ、俺」
頭にあたる日差しが、少し熱く感じられた。
血が昇っていると理解するには、私の思考は疲れていた。
「もう走ってない蓮に、そういうこと言われたくないけどな」
「続けられるなら続けてた」
不機嫌そうな声だった。そうなることを分かって、私は意地悪なことを言った。
「藤野は、陸上を続けるならもっと本気でやるべきだ」
「なんで蓮にそんなこと言われなきゃならないの?」
「半端な世界じゃないって知ってるから。だから、本気でやる気がないんだったら、周りを期待させる前に」
「周りって誰のこと?」
歯を食いしばる代わりに、私は足を伸ばした。
一歩大きく踏み込んで、蓮の前に出て顔を覗き込んだ。何か考える余裕はなくて、先に足が出たのは、いつもと同じだった。
「期待されたくて、褒められたくて、走ってたんじゃないよ、私」
いや、褒めてもらうのは嬉しい。
速くなったね。凄いね。そうやって、頭を撫でてもらう子供から、根っこは一歩も進まずそこにある。誰だってそうだと思う。たぶん、大人になったって。
人に認められる以上に気持ちいいことが、この世にどれほどあるだろう。
そこにいることを許される安堵と、視線を釘付けにする優越感と、苦しくなるほど胸いっぱいの喜び。
きっと皆そうだ。
スポーツだって芸術だって勉強だって、きっと皆、誰かに言ってもらった。
褒めてもらった。背中を押してもらった。そうして最初の一歩を踏み出した。今は苦しくても、選んだ道の最初には、胸に宿る灯があった。
そのささやかで小さな灯を、誰もが記憶の奥に抱いている。
「だからさ、藤野がいつまでも昔のことに拘ってるのは、よくないって」
「どうして蓮にそんなこと言われなきゃならないの?」
「藤野が俺に拘ってるのは、俺だって分かってる。でももう、俺の陸上は終わってるんだよ。藤野の未来にとっては邪魔だよ。才能あるのに昔のこと引きずってる藤野は、俺、見てて辛いよ」
「蓮が辛くてもさ」
私に灯をくれたのは、蓮だ。
褒めてくれるのが、誰だっていいわけじゃない。
他人から……いや、当人である蓮から見てすら、ちっぽけで、くだらない理由だとしても。他の多くの人々が、夢とか希望とか部の期待とか、そういう立派で大層な理由で走っていたとしても。
「私がなんのために走るかは、私にしか決められないよ」
私の理由は私だけのものだ。
私が好きになった人だって、私が好きであることは止められない。恋と競技を結び付けるなんてくだらないって、そういう人もいた。羽矢ってけっこうめんどくさいね、なんて半笑いで言われたりもして。
「藤野が、俺に気を遣ってくれてるのも分かるよ。でも、俺のこと思うなら……」
「それでも私に本気で陸上してほしいなら……競走しよう、蓮」
自分でも驚くほど、静かに強い言葉が出た。
「陸上部のエースが、今の俺と走ったって、意味なんかある?」
蓮の言葉には戸惑いがあった。めんどくさいって、思われているんだろうな。
ごめんね、めんどくさくって。
でも私がこういう私であるのを、止められるほど器用じゃなかった。
「他の誰にもなくても――」
胸に宿った灯を、私は消さない。
蓮が走らなくなった苦しさを、ずっと忘れない。蚊帳の外から他人事みたいにかけられる賞賛なんか、私は欲しくない。
初恋なんて、つまらない終わり方をするって、数えきれないくらい多く聞いた。
でも皆がそうだから、なんだって言うのだろう。
私の陸上も、私の初恋も、私のものだ。まだ一つに繋がってる。
だから、蓮がそこまで言うのだったら、決着をつけたい。
「――私にはある」
馬鹿みたいと笑われても。
重たい奴だとヒかれても。
やっぱり、私は私の一歩目を取り戻さないと、ここからどこへも走れない。
■
川沿いのまっすぐな道。
古ぼけたポストから速度標識までが、だいたい100Mだと教えてくれたのは、小学生のころの蓮だった。
その道を4年ぶりに、12秒だけ、私たちは一緒に走った。
整備されたトラックではなく、競技用のスポーツウェアでなくても――たぶん今までのどんな私より、間違いなく速く、駆け抜けた。
「……きっつ……」
私より、2秒ほど遅れてゴールした蓮は、大きく肩で息をしていた。運動不足というわけじゃないだろうけど、部活にでも入ってないと、短距離を全力疾走する経験などそうそうない。ブランクは辛いんだろう。
「……ぜったい、大会の時より速いじゃん、羽矢。ストライドも、後半のピッチも、全然違った」
「やっと羽矢って呼んだ」
「そんな走り方、してなかっただろ……できるならやれよ、ずっと」
「うん、これからはそうする」
顎を伝う汗を、袖で拭った。
ジョギングの後、体は温まっていたけれど、全力疾走は私だって疲れる。息があがり、乳酸漬けになった足を引きずった。
不思議と、頭はすっきりしていた。いや、気持ちがすっきりしたのだろう。
「私、走るの楽しかったよ。凄く久しぶりに」
「……嫌み?」
蓮は、悔しそうだった。
記録だけで負けを感じるのと、同じ道を走って抜き去られるのとは、全然違う。それだって蓮が教えてくれたことだ。陸上を辞めたって、それは変わらないみたいだ。
悪趣味かもしれないけど、それは嬉しかった。
「ねえ、蓮。私、凄いでしょ」
「知ってたって」
「ウソ。近くで見るのは4年ぶり」
「……そうだな。こんなに凄いなんて、初めて知った。凄いよ、羽矢」
「私かっこいい?」
「……うん、スゲーかっこいい」
「……でしょ」
自分でもヒくほど大人気ない。
でも、こんなにニヤついたのは久しぶりだ。
今の100Mでは、私は誰の背中も追わなかった。
代わりに、私の背中を見せた。今の私は凄いんだよって、今の私は蓮よりも速く走れるんだよって――頑張ったんだよって、一番近くで見てもらった。
色気づいたクラスの子は、お洒落をしたり、仕草を上品にしたりしてる。誰だって、自分のいいところを磨いて、好きな人に見てほしい。
私はずっと、走ることでそうしてきた。それだけだ。
それを見せたい人に、見てもらいたかっただけだ。
今の自分を、きちんと。
ああ、驚くほど気持ちいいな。これは素敵だ。……きっと、理由になる。
「なんか、やーっと素直に走れた気がする、私」
「……ごめんって。俺のせいでしょ」
「謝んないでよ。ただでさえ私、めんどくさいことに拘ってる自覚あったんだから。そこまで行くといよいよ悪者みたい」
「それは、そっか」
「否定してよ」
肩の力が抜けて、自然と笑い声が出た。
私も蓮も、どちらからともなく。
笑うたびに、駆け抜けた疲労と、汗と共に、邪魔だったものが抜けていった。
秒速8メートルの世界では、余計なものは吹き飛んでいく。
青空をのんびり流れていく雲も、コース脇で見つめる友達の顔も。
自分以外は、すべて背後に置いていく。今なら、苦い初恋の記憶も。
たった100メートルを、私の中にある物だけ抱えて、駆け抜ける。
ただそれだけ。ただ、走るだけ。それだけで、こじれてしまった初恋すらも、追い抜いていくことができる。
あるはずのない背中を、追うことは、たぶんもうないけれど。
これからはもっと違う理由のために、走っていける気がした。