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第九話 禍福は糾える縄の如し

 春陽会に出品してから10年が経ち、会員に推挙された時、いよいよ銀座で個展を開くという話が舞い込んだ。
当時、月刊ギャラリーという雑誌を購読していたが、自分好みの絵を扱い、企画をするK’sギャラリーがオープンし、広告が掲載されていた。
憧れた。
そして、縁あって東京の初個展のお話をこの画廊から頂いたのであった。
銀座で個展を開きたい、と春陽展の懇親会で出会った外部の関係者にも打ちあけたことがあったが、その方が手を尽くして下さった。夢を語ることは実現させるための一歩であるのは間違いない。そしてチャンスの前髪を手放してはいけない。

私はその頃、公共事業を請け負う建設会社の社員をしており、多々の事情から、他の会社に間借りをして一人きりで駐在していた。そこの女性社員が底意地が悪く日々に影を落とした。体調の年齢的な変化や環境の影響があって、自己免疫の病を発症してしまった。
良い出来事もストレスになる。初めての東京、銀座での個展に緊張し、不安が増し、怖れがあった。個展の企画に喜んだのも束の間、会期が迫る6月に入院を余儀なくされた。

3ヵ月近く入院し、会社にも迷惑をかけたが、個展の絵をそろえる準備ができず、中止せざるを得ないのかと思い悩んた。
入院中、薬剤投与の治療の副作用も試練だったが、外泊許可をもらって自宅に帰っては絵を描いた。
不本意だったが過去に描いた絵を含めて枚数をそろえ、なんとか10月の個展に間に合わせた。
これが、東京の銀座で個展を開くという夢の実現した姿だった。
薬の副作用で顔が膨張し、体力はなく、頭の中が朦朧としていた。

どの道も平坦ではない。必ず何かしらの障害が起きるものだ。退院後数か月たち、会社の駐在事務所を解雇された。土木建設業界の公共事業の談合に関して世間で大いに批判されて、会社の業績も落ち込んだ。

私は絵のことを常に最優先にしたかった。
病を得て寛解したとはいえ、心身の鈍い状態からは抜け出せていなかった。通院と年齢の縛りを受けない職をさがしたが困難だった。私はまったく縁のなかった営業畑の保険の世界に飛び込んだ。
この仕事をするよりほかないと思い飛び込んだ業界は、到底自分に合うとは思えなかったが、あちこちにぶつかりながら10年間継続した。苦労した。
ノルマを常に意識しながら法人、個人の保険の営業をし、絵を描いた。

 



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