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アジアを読む文芸誌『オフショア』第三号を読んで

先週はオフショアを読み終えた。

最初の、巻頭言の言葉に感動した。なんとなく、言語化できないけれどそれって大事だと思うことをハッキリと言葉にして書いてくれていたから。
『日本は今、直接的にどこかを植民地支配しているわけではないとはしても、ごく小さな存在である我々ひとりひとりの思考には、アジアとの非対称な関係が見え隠れすることがよくある。』

なぜ私がこの言葉に反応したのか。沖縄出身の夫から、義両親から、沖縄の置かれてきた歴史や扱いについて話を聞いてきた。沖縄出身の人と深くかかわったのは夫が初めてで、それまで沖縄については南国リゾートの地で、方言が独特で、有名な水族館があって、一度も行ったこともなく、今後自ら行くこともないだろうと思っていた。思えば、この思考そのものが、日本本土と沖縄のいびつな関係性を表している。
行ってみて、夫の出身地である沖縄市にある移転なんて軽々しく口にできない米軍基地の大きさや、アメリカからもたらされたであろうタコスやアップルパイやステーキの美味しさや、意外に早口な沖縄方言や、復帰前の沖縄で生きてきた義両親の話や、本土に比べてお金をかけられていない道路や標識や、子供がたくさんいる親戚たちとのバーベキューや…知らないことばかりだった。その後、県民所得の少なさ、子供一人当たりの教育費の低さを調べて愕然とした。
行く前の自分の知識が薄かったと言えばそれまでだけれど、恐らく知人友人ほとんどの知識は同程度だろう。
そのことに、私は勝手に憤りを感じた。
沖縄で起こっていることは知るべきで、全国民に知ってほしいと勝手に思うのに、知らないで済んでしまうこの世の中への憤りである。

しかし、心のどこかで立ち止まる。なぜここまで憤れるのか。
振り返れば、私自身は、日常生活ではあまり満たされていない方である。
お恥ずかしい話だが、仕事でも、人間関係でも。
そんな不満の行き所が、憤っている時だけはなんだかいっぱしの人間ぶって発言できる気になるのが、その憤りに繋がっている可能性も捨てきれない。

もう一度、よくよく巻頭言に戻ろう。
ここで言われているのは、果たして上記の一文だけではない。
『日本はいまだに、植民地主義や帝国主義的な考えを捨てきれていない。だから、『オフショア』の読者には、後ろを振り返りつつ、前を向いて欲しいのである。(中略)今ではなく過去、大東亜戦争にまで至った日本の歴史を能動的に理解するように促したいのである。』
オフショア第三号には、私の知らない「アジア」がたくさんあった。
沖縄に行く前の偏った知識と同様のことが、アジア各地域に対してもあるのであろう。
フィリピンでも、インドネシアでも、台湾でも、日本軍が行ってきた所業の上に抵抗や反発の歴史があるが、そこから78年が経過した現在、それは各地域の政治や事情が重なって、地域ごとに様相は異なっている。
でも、そんなことも知らない。
戦争や分断や政治的な抑圧に抵抗する人たちに、勇気をもらう。
色んな生活があるんだと感じる。
世の中には知らないことが、まだまだたくさんあるなということは、アジアという大きな窓を開けて、私が大きな世界の中にいることを感じさせてくれる。
それで、憤っていた私はすこし落ち着く。
ちっぽけな世界のなかで満たされないと嘆くのではなく、まだまだ知らないことがあると心躍らせる方が自分らしいと感じる。
きっと、沖縄で体験したようなことが、まだまだこれから大きな口を開けて私を飲み込んでくれると思っている。
そんな風に考えるきっかけをくれた雑誌だった。

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