真の国語授業者を目指して–文学の授業実践に触れて–
1.はじめに
私は,子どもたちが帰った後の教室で,毎日思うことがある。それは,「今日1日の中で,子ども達が授業を通じて心を震わせるような瞬間があっただろうか」ということである。もちろん,感動が生まれるような授業はそう簡単にはできない。しかし,そうしたもどかしさを感じながらも,日々の授業を積み重ねていく中で少しずつ見えてくるものがある。特に,国語の授業を追求していくうちに,私の中で「これだけは確かなことだ」と思えるような授業の原理が見えてくるようになった。以下が,私の現時点で考える国語授業の原理である。
1.授業の導入の時点で子どもたちの思考の土台を作り上げること。
2.子どもたちの考えを共通の土俵に乗せた上で,揺さぶりをかけ,議論を促すこと。
3.思考の道筋を焦点化し、「今何を考えるているのか」を明確にすること。
4.子どもの発言を授業の展開に位置付けること。それは意見を板書上に陳列することではない。
5.子どもの思考には熟成する時間が必要だということ。
6.発見が新たな発見を呼ぶような発問を投げかけること。
7.言葉に着目することで追求が生まれるような学習内容を組織すること。
8.授業の後半には,子どもたちが教師の力を借りなくても,自分の力で学び続けていくような強靭なエネルギーを生み出すこと。
9.子どもたちの意見における対比関係や接続関係を,板書を通じて構造的に示すこと。
10.教師の絶えざる教材研究との関係で子どもたちの思考と正面から正対すること(授業を通じて教師の教材研究は絶えず更新される)。
本稿では,この10の原則に関わる,私の国語授業観について述べていきたい。
2.授業の主体を子どもたちに置くー『注文の多い料理店』の授業実践ー
私たち教師は,ねらいに即した上で日々の授業を実践している。しかし,ここで重要だと思われるのは,「授業の主体を子どもたちに置く」という視点である。授業が開始した後,子どもたちの中でどんな問いが生まれたのか,さらにはその問いが授業を通じてどのように深まっていったのか,この視点が必要不可欠なのである。教師が何を教えたかということよりも,子どもたちが何を学んだのかということに,授業の本質を見出すことが求められている。
ここで,私が実践した『注文の多い料理店』の授業について紹介する。本時では,初読の感想文の中で出されていた「二人の紳士ってどんな人?」という問いを学習課題として設定した。まず,「二人の紳士ってどんな人か」を考えながら,『注文の多い料理店』の本文を音読するように促した。そのうえで,「二人の紳士ってどんな人?」かについて考えたことをノートに書き,意見の交流を行った。子どもたちの中からは「自分以外はどうでもよいと考えている人」,「お金を大事にしている人」,「生き物を大切にしない人」という意見が出された。ここまでの授業展開はテンポが良く,かつ文章を読めばほとんどの子どもたちの間で意見が一致する。
しかし,ここで教師の側から「こうした紳士の生き方に共感できるか」という問いを投げかけた。この発問に対し、ほとんどの子どもが「共感できない」という立場に立った。その理由を聞くと、「命を粗末にしているから」や「犬を借りてきた道具のように扱い,お金で表しているから」ということが挙げられた。また,この発問を投げかけたことで,子どもたちの中から紳士に対する怒りのような感情が湧き出てきた。紳士が犬をお金で表していることや,生き物の命を大切にしようとしないところに,子どもたちは反発し始めたのである。ところが,そうしたなかで,「共感できる」という立場を取った子どもが一人だけいた。そして,その子にどうしてそのように考えたのかを問うた。その子は「自分たちは殺されて出荷された牛をお金で買っている。けれど,そのことを忘れて生きているという意味では紳士と同じだと思う」と発言した。この考えが出された時,とてつもない感動が教室を伝った。「確かに自分たちは見えないところで動物を殺しているが,そのことを忘れている」,「自分たちは牛を殺すことで命が受け継がれている」という意見が次々と出されていく。このように,はじめは紳士たちに対して否定的な見方をしていた子どもたちだったが,次第に自分たちと紳士の抱えている問題に共通性があることに気づいていったのである。なお,このことをきっかけにして「じゃあ,山猫ってどんな人物だろう?」という問いが授業の終盤にかけて出されていった。子ども達は,自分の思考が揺さぶられるなかで新たな発見をしたとき,さらなる追求を自らの手で始めていくことになるのである。
3.自分の力で学び続けていくような強靭なエネルギーを生み出す
この実践から言えることについて改めて考えたい。授業の前半は,子どもたちの思考を共通の土台に乗せる瞬間であった。「二人の紳士ってどんな人?」ということについて考えながら読むことで,段々と「紳士」の人物像が明らかになっていく。しかし,「紳士」に対する学級集団の理解がある一定の水準に達したところで,「こうした紳士の生き方に共感できるか」という問いを投げかけた。すると,紳士に対する子どもたちの感情が動き出す。また,他の友達の考えを聞くことで,それまで見えていなかった紳士たちの姿が新たに見えてくる瞬間を体験する。この発見の喜びこそ,さらに読みを深めていきたいというエネルギーになったのだ。そしてその生み出されたエネルギーは,止まることなく,どこまでも自分自身で動き出していくのである。もちろん,このような学びに向かう姿はすぐに生み出されるものではない。学びはゆったりした時間の中で熟成されていくものだからである。子どもたちの学びに寄り添い,待つことによって,子どもたちの学びは熟成され,発酵していくのである。繰り返しになるが,重要なのは教師が何を教えたかということにあるのではない。急所は,子どもたちがどこまでも学び続けていくために必要な手立てとは何かを教師が考え抜くことにあるのである。
4.終わりに
私は,冒頭,「今日1日の中で,子ども達が授業を通じて心を震わせるような瞬間があっただろうか」と思うことを述べた。私たち教師は,授業を通じて子どもたちと心を通わせたいといつも願っている。だが,それがうまくいかず,落ち込むこともある。しかし,いや,だからこそと言えば良いだろうか,私は悪戦苦闘の中で,授業者としてのの更なる高みを目指していきたいと思っている。ここで,私の国語授業観に通じる,武田常夫の言葉を引用したい。
授業における教師の発問は,確実に子どもの思考や感情に緊張を生み,葛藤をまきおこすようなするどい内容と思想がこめられていなくてはならない。教師が子どもに対して意表をついた問いを出すということは,その問いに対する直接的な答えを期待することよりも,それを媒介にして,子どもの思考に新たな葛藤を生み緊張を生み,そこから新しい発見や思考や,さらに高い対立を生み出すためのねらいをこめて発せられる場合が多いのだ。そうした鋭利な問いは教師が事前に考え抜いておく場合もあるが,多くは,子どもとの葛藤のなかから生み出されるものなのである。(中略)授業はすぐれた文化遺産を教材として、子どもに質の高い思考をさせ、新しい知識や感動を与え、それを通して子どもの精神に優しさを育てていくものである。それは、くどさや不明確さ、歯切れの悪さなどとは本来無縁な世界なのである。
武田常夫『詩の授業』(明治図書)
授業とは,本来,子どもたちが知的な世界と向き合い,新たな発見の中で,自らの主体を育てていく営みである。「授業を上手く流す」という言葉を時より耳にするが,それでは不十分だと思う。授業とは,子どもたちの思考が揺さぶられ,葛藤の中で発見があり,そしてまた新たな問いが生まれる,そうした魂がほとばしるような場であり,決して綺麗に流れるものではないのである。だからこそ,私は,日々の闘いの中で,子どもと共に授業を創造できる教師でありたい。先に挙げた10の原則は今の時点の到達点に過ぎない。新たな景色を目指して,より高いものを目指して,自分自身を成長させていきたいと心から思っている。
黒瀬貴広(TAKA)