拝啓、夏の風に乗せて
■ プロローグ
──せめて人生の最後くらい、世界は僕に優しくてもいいじゃないか。
思い出すのは十年前の夏、人生最後になるはずの日に出会った、あの人のことだった。
■ シーンA-01 遊園地
雑草と苔に浸食されたトンネルを抜けると、遊園地がある。
十年以上前に廃園になったという、小さな遊園地だ。森と田んぼに囲まれたこの場所に、誰が何を思ってこんなものを作ったんだろうか。
入場ゲートのようなものは残っているものの、人はいないし柵も壊れているので、誰でも自由に出入りできる。
もっとも、こんな寂れた場所に来るのなんて、よほどの物好きか、今日の僕みたいな目的をもった人くらいだろう。
この遊園地の奥には──もちろん今は使われていないけれど──展望台がある。僕の目的地はそこだった。
ふわっ、と視界の片隅で何かが舞った。
それは僕から数メートル先の地面に落ちた。
──紙飛行機だった。
僕はそれを拾い上げてみた。
ごくありふれた、普通の紙飛行機の形をしていた。
何を思ったか、僕は折り目をすべて元に戻してみた。
そこには文字が書かれていた。
生きたくない理由は何ですか?
死にたい理由は何ですか?
この言葉に思うところがなかったといえば嘘になるけれど、僕は何も感じなかったことにして、折り紙をくしゃくしゃに丸めた。そして僕は、それをポケットに入れていた。
■ シーンB-01 展望台
遊園地の隅、小さなボロアパートのような箱の老朽化した階段を上ると、展望台に辿り着いた。
かつては望遠鏡などもあったのかもしれないけれど、今となっては見る影もない。ただの何もない空間となっていた。
しかし、そこに人影があった。
外周を囲む錆びついた鉄柵は、一部が破損している。
その壊れた部分の向こう側、僕に背を向けた格好で、一人の女の人が展望台の縁に座っていたのだ。
どうやら先客がいたらしい。
──まいったな。誰かがいると、少しやりづらい。
「こんにちは。どうされたんですか?」
おそるおそる、僕はその人に声をかけてみた。
その人は僕の言葉に振り返り、座ったまま話し始めた。
「私? 私は見ての通り、紙飛行機を飛ばしてた」
「紙飛行機、ですか?」
「正確には、紙飛行機という名の手紙かな」
言いながらまた紙飛行機を作り、誰もいない方向へ飛ばしていた。
「あ、ひょっとして君、私の紙飛行機拾った?」
「えーっと、もしかして、これですか?」
僕は、さっき拾ってくしゃくしゃにしてしまった紙飛行機をポケットから取り出した。
「あーそうこれこれ! っていうか、人様からの手紙をこんなくしゃくしゃにしちゃダメ! ちゃんと大切にとっときなさい」
「……す、すみません」
なんとなく謝っておく。
だけどこんなものが、僕にとって必要になるとも、まして手紙だとも思えない。
もう一つ紙飛行機を飛ばすと、その人はおもむろに立ち上がった。
「私はゆあ。高校2年。君は?」
「カケル、中2です」
僕が名乗ると、ゆあさんは僕の顔を覗き込むようにして言った。
「君、自殺しに来たんでしょ」
「……!」
単刀直入に言われ、僕は何も言えなかった。
図星だった。
そう。この人の言う通り、僕は今日死ぬつもりでここに来たのだ。
「やっぱりね。ここに来る人なんて、たいていが自殺目的でしょ。ほら、ここ今じゃちょっとした自殺スポットになってるし。お地蔵様なんかも置かれてる」
その人はからかうように言った。
「……止めるんですか?」
「そりゃあ止めるよ! 目の前で人が死ぬのは嫌だもん!」
「じゃああっち行っててください」
「そういう問題じゃ……」
ゆあさんは軽く咳払いをした。
「じゃあ、宿題」
「宿題?」
「うん、宿題。その紙飛行機に書いてあった質問を、カケルくんへの宿題にします。『生きたくない理由は何ですか』『死にたい理由は何ですか』、このどっちかの答えを見つけること。見つけたら、死んでもいいよ」
「いいんですか?」
「うん、許す。私も認めるような答えが見つかったらね」
そう言うとゆあさんは、僕の手を引っぱって歩き出した。
「今日一日、考える時間をあげる。今日は夜まで私と一緒にこの街を見て回ろうよ。そんで、宿題の答えを見つけること」
こうして自殺の機会を逃してしまった僕は、ゆあさんに手を引かれるまま遊園地をあとにした。
■ シーンC-01 駅
「カケルくん、今日はこの駅から来たの?」
「はい。始発の高津河駅から乗ってきました」
「高津河は、この電車で三十分くらいだっけ。あそこに比べると、ここ何にもないでしょ。電車だって一時間に一本しか来ないし、駅も無人だし。ちょっと向こうにバス停もあるけど、バスなんかもっと本数は少ない」
「そうですね」
僕の地元も決して都会といえる場所ではないけれど、駅には一応人がいるし、ここよりはずっと栄えている。
ゆあさんは紙飛行機を一つ作って、線路の向こうに飛ばした。
「あの、宿題の答えですけど……」
「何? もしかして、もうはっきりとした理由がある感じ?」
「いえ、そうじゃなくて……。その、自殺するのにわざわざ理由なんているんですか?」
「まあ、ないよりはあるほうがいいじゃん? っていうか、理由もないのに死んじゃったら、きっと後悔するよ?」
「しないです。っていうか、理由があろうとなかろうと、ゆあさんには関係なくないですか?」
「まあまあ、そう言わないでよ。カケルくん、中学生だよね。友達いないの?」
「いないです」
「好きな人とかは?」
「いません」
「高校生でよければ、私が紹介してあげてもいいよ?」
「余計なお世話です」
「中学生っていうと、今は夏休みだよね。出かける予定とかないの?」
「ないからここにいるんじゃないですか。っていうか、高校生だって夏休みですよね。予定とか、ないんですか?」
「まあ、私もないね」
ゆあさんは僕と会話しながら、何枚も紙飛行機を作っては飛ばしている。
詳しく教えてはくれなかったけれど、一枚一枚、違うことを書いていたみたいだった。
「そういえば、紙飛行機の手紙って言ってましたけど……」
「ああ、これね」
ゆあさんはまた新しく、紙飛行機を作っていた。
「私はね、爪跡を残したいんだよ。──手紙ほど素晴らしい伝達手段って、ないと思うから」
言いながら、紙飛行機を飛ばすゆあさん。
「人生は何が起こるかわからない。この世界って、運命で満ちあふれてるんじゃないかな。明日私たちが生きてる保証もなければ、明日も世界が続いてるって断言することもできない」
紙飛行機は線路を越え、向こう側の田んぼ沿いの道に、ひらりと落ちた。
「だから私は、自分の言葉を、想いを、存在した証を、こうしてあちこちに残してるんだよ。無駄なことかもしれないけどね」
ゆあさんの言葉を、僕は頭ではなんとなく理解できたものの、共感することはできなかった。
■ シーンD-01 線路沿いの道
僕が降り立ったのは、終点の一つ手前の無人駅。
そこに広がっているのは、うんざりするほどの緑だ。点在している建物も、そのほとんどが廃墟のようなものでしかない。
「さっきも言ったけど、なんにもないよねーこの街」
すたすたと足を進めるゆあさんのあとを追うように、線路沿いの道を歩く。
この線路をずっと辿っていけば、僕が生まれ育った街に着く。
だけどもう帰ることもないだろう。僕は今日ここで死ぬのだ。
「こういう景色をいいと思うか悪いと思うかは人それぞれだろうけど、私は好きだな。季節の匂いが感じられるというか、自然の温かさが身に染みるというか」
手紙のことといい、話しぶりとは裏腹に古臭い考えをもった人だな、と思った。僕より年上とはいえ三つしか違わないのなら、いわゆるデジタルネイティブ世代だろうに。
「カケルくん、趣味とか、何かハマってることはないの?」
「特にないです」
「将来の夢とかは?」
「ないです。……僕には、何もなかったんです」
一方的に訊かれて、少しむしゃくしゃしていたのもあるかもしれない。
「何もなくて、何にもなれなくて、どこにも行けなくて、どこにも居られなくて」
僕は心の中に溜まっていたものを打ち明けていた。
「熱中できるものなんて何一つなくて、気づいたら、自分で自分に飽きてました」
「そっか。でも何もないからこそ、見えてくるものもある。この街並みと一緒だよ」
そういうものなんだろうか。
「死ぬことは、一カ月くらい前に決めてました。遺言もスマホに書いて、今日は家に置いてきました。──せめて人生の最後くらい、世界は僕に優しくてもいいじゃないかって思ったんです」
「最後は優しく、か。なるほどね」
「だけど何一つ優しくならなかったんです。何も変わりませんでした」
「……じゃあ、もう少しだけ生きてみなよ」
ゆあさんは僕に向かって紙飛行機を飛ばした。
「誰かの心に少しでも爪跡を残すことができたら、それだけできっと、世界は少し優しくなるはずだよ」
高く昇った太陽が作る僕の影に、紙飛行機はゆっくりと落ちた。
■ シーンE-01 駄菓子屋
「お腹すかない?」というゆあさんの提案で、僕たちは駄菓子屋にやってきた。
ゆあさんいわく、このあたりにはまともな飲食店も、コンビニすらもないらしい。
「いやーたくさん買ったねぇ」
「だって、ゆあさんが買えって言うから……」
僕も正直お腹がすいてきていたし、ゆあさんはあれも食べたいこれも食べたいと言い出すので、結果的に数千円分の買い物になった。
店主のおじさんは驚いたような顔を見せたが、何も言わずにお金を受け取り、大量の商品を袋に詰めてくれた。
ゆあさんはお金を持っていなかったらしく、僕がゆあさんの分も買うことになった。おかげで持っていたお金はすべて使い切ってしまった。
まあ、今日で人生最後なんだしお金を残していても仕方ないか、と思ったので、ゆあさんを怒るのはやめておいた。
「人生最後の食事が駄菓子の山っていうのもなぁ……」
「だから、最後じゃないでしょ」
そう言って笑いながら、ゆあさんはまた紙飛行機を飛ばした。
「最後ですよ」
「いい? 人生は一度しかないんだよ? やりたいことがやれなかった、って後悔してからじゃ、もう遅いかもしれない。少しでも挑戦すれば、きっと何かが変わるはずだから」
「そんな言葉、今まで何回も聞いてきました」
今更こんな言葉で慰められてたまるか、と思いながら、僕は人生最後のスナック菓子を口に運んだ。
■ シーンF-01 小学校
「ここは……」
「うん、私が卒業した小学校」
ずいぶんと活気がない場所だと思った。
夏休みであることを差し引いても、ひとけが少なすぎる気がした。
「何年か前に廃校になったって聞いた」
「そう、なんですか……」
ゆあさんはさらりと言ったけれど、なんとなく気まずくなってしまった。
ひとまず僕は言葉を取り繕った。
「寂しいですね、思い出の場所がなくなってしまうのは」
「おもいで、ね……」
そう呟くゆあさんの表情は、どこか冷めているようにも見えた。
「それでさ、カケルくん。ちょっと確かめたいことがあるんだけど、行ってもいい?」
「確かめるって、何をですか?」
僕の質問に答えるより早く、ゆあさんは校庭の隅のほうへ駆け出していった。
■ シーンF-02 タイムカプセル
「これ、タイムカプセルっていうやつですか?」
「そ。せっかくだから、今日はこれ掘り返しちゃおうと思って」
ゆあさんはどこかの用具入れから探し出したスコップを手に、無邪気に笑っていた。
「そんなことしていいんですか?」
「いいのいいの。どうせ人生最後なんだし」
「いや、僕はそうですけど、ゆあさんは……」
僕が声をかけるのをよそに、ゆあさんはざくざくと地面を掘っていた。
「よし、こんなもんかな」
「何か見つけたんですか?」
「ううん、何もなかったよ」
「何もなかった? ゆあさん、タイムカプセルに何も入れなかったんですか?」
「うん、入れてない。私は、何もないことを確かめに来たんだよ」
「何もないことを?」
「私は何も埋めなかったからいいんだけど、ほかの誰かが私あての何かを埋めてないかっていうのを確認したかった。思った通り、何もなかったね」
「……どうして、そんなことを?」
「うーん、強いて言うなら、安心するため、かな」
ゆあさんの言葉にはどこか引っかかるものがあったけれど、あまり訊けそうな雰囲気ではなかったので何も言えなかった。
■ シーンG-01 トンネル
ゆあさんと一緒に街をぐるりと回り、線路のそばのトンネルまで戻ってきた。
ここを抜けると、あの遊園地がある。
「自分を責める毎日が続くかもしれないけど、いつかきっと、そんな君のことも好きだと言ってくれる人が現れる。何度裏切っても、信じてるよって言ってくれる人に会える」
西から射す夕陽の光に照らされるゆあさんの姿は、輪郭がぼやけているように見えて、どこかに消えてしまいそうで。
「やまない雨も、出口のないトンネルもない。いつかカケルくんも、誰かの道標の光になれるときが来るよ」
短いトンネルの中から少し反響して聞こえてくるゆあさんの声は、夏の夕方の空気を伝って、僕の耳をかすかにひりつかせた。
■ シーンH-01 遊園地
夕空に照らされた遊園地は、心なしか昼間よりも侘びしく見えた。
「ここの遊園地が十三年前に閉鎖しちゃったってのは、知ってる?」
「時期は知らなかったですけど、ずいぶん前に閉鎖した、とは」
「もともとお客さんは少なかったみたいなんだけどね、私はここ好きで、というか遊園地といったらここくらいしか知らなくて、小さい頃よく親に連れてきてもらってた」
■ シーンH-02 観覧車
それから僕たちは、錆びついた遊園地を遊んで回った。
観覧車のゴンドラに乗ってみる。
ドアは開いたけれど、もちろん動かない。一番低い場所で僕らは向き合って座った。
「閉鎖する直前の一カ月くらいは『ありがとうキャンペーン』みたいなのをやってて、けっこうお客さん来てたんだよね」
「私は最後の営業日に行った。まだ四歳だったけど、あのときのことは今でもなんとなく覚えてる。私はここの、最後のお客さんだったみたい」
■ シーンH-03 ゲームコーナー
休憩所のような建物の中にはゲームコーナーが併設されていて、古臭い筐体が並んでいた。
駄菓子屋でお金を使い切ってしまった僕には、ここで遊ぶお金もすら残っていなかった。まあお金があったところで、ここのゲームがちゃんと動いていたかは怪しいけれど。
「小さい頃は夢みたいな遊び場だと思ってたけど、今遊んでみると、なんにもおもしろくないね」
「いつから私たちは、こういうものを楽しいって思える感性をなくしちゃうんだろうね」
■ シーンH-04 メリーゴーランド
メリーゴーランドは乗るのが躊躇われるほど赤黒く変色していて、埃をかぶっていた。
もちろんぴくりとも動かない。それどころか妙な金属音が鳴るし、ちょっと触ったら壊れてしまいそうな雰囲気すらある。
「カケルくん、人生の最後くらい世界は僕に優しくてもいいじゃないか、って言ってたよね」
「ここも、閉鎖される直前はたくさんの人が訪れた。遊園地としての最後のときにはちゃんと、世界はこの場所に優しくなったんだよ」
「カケルくんにとってこの世界が優しくないのなら、それはたぶん、君の人生がまだ終わりじゃないってことなんだと思う」
■ シーンI-01 展望台
展望台に戻ってきた頃には、日はすっかり落ちていた。
僕たちは展望台のベンチに腰かけた。
眼下に見える遠くの一帯がやけに明るいな、と思っていたら、祭囃子が聞こえてきた。
「あ、これって……」
「カケルくんも知ってるかな。隣町で、毎年この時期にやってる夏祭り」
「行ったことはないですけど、知ってはいます。けっこう有名ですよね」
「うん。わりと全国から人が集まるって聞いたことある」
ゆあさんは一つ、紙飛行機を飛ばす。
「……ごめんね。カケルくんに謝らなきゃいけないことがある」
唐突に、ゆあさんが言った。妙に真剣な口調だった。
「なんですか?」
「私、ずっとカケルくんに嘘ついてた。生きてればいいことがあるとか、必要としてくれる人がいるとか、そんなこと私もぜんぜん思ってない。だからカケルくんが言ってたこと、痛いほどよくわかった」
「……そう、なんですか?」
嘘をついていたというゆあさんに対して、僕は驚きはすれど苛立つことはなかった。
「うん。ほんとは私もね、何もないんだよ。夢中になれることも、会いたい人も、生きたい理由も」
ゆあさんは一つ、紙飛行機を飛ばした。
「自分が変われば世界は変わって見えるかもしれない、そう思って何度も変わろうと思った。でも変われなかった。私は弱すぎた。そんな自分のことが、死ぬほど嫌いだった」
「わかります。結局、弱いのもダメなのも、ぜんぶ僕自身でした」
「今日私が言ってたことは、ぜんぶ嘘。ごめんなさい」
ゆあさんは頭を下げた。
僕はただ一つ、気になったことを尋ねることにした。
「……どうして、嘘をついたんですか?」
「やっぱりね、目の前で死にますとか言われちゃうと、本音じゃなくて建前が出ちゃうのかな。……あとは、後悔するところがあったから、かな」
「後悔?」
この問いかけには答えず、ゆあさんはまた紙飛行機を飛ばした。
「昔から、誰も私のことなんて気にしてないんだろうなって思ってた」
「小学校でタイムカプセルを掘り返したのも……」
「そう。それを確かめるためだよ。やっぱり、私なんていてもいなくても、どうでもいい存在だったんだね。死んでもいいんだ、って、安心したよ」
「そんなこと……」
言いかけて、本音じゃなくて建前が出ちゃう、というゆあさんの言葉の意味が、なんとなくわかった気がした。
「こんな私が言っても薄っぺらいものにしか聞こえないかもしれないけど、あえて言うね」
ゆあさんは真剣な表情で僕を見つめていた。
「カケルくんには生きていてほしい」
「…………」
僕は首を縦に振ることも、横に振ることもできなかった。
「あ、そろそろかな」
そう言ってゆあさんが、夜空を見上げた、そのときだった。
大きな音を立てて、空に大輪の花火が打ち上がった。
夏祭り最後のイベントらしい。現地はおそらくすごい人混みになっていることだろう。
だけどここは広々としているうえに、遮るものもない。
薄汚れている場所だけど、特等席だと思った。
「人生って、花火みたいなものかもしれないね」
「短いとか、儚いっていうことですか?」
「うん、それもある。あとは少し間違えるだけで、打ち上がらなかったり、大きな事故につながったりするところとか」
「たしかに、どうしてこうなった、みたいなことばっかりですよね、人生って。まあ僕は十四年しか生きてないのであれですけど」
「私だって、十七年しか生きてないよ」
僕たちは小さく笑い合った。
「花火も人生も、短い時間の中で、見た人の心に何を残せるかなんだと思う」
「こんなふうに派手に光れる人なんて、一握りですよね」
華々しく注目を集めるなんて、たぶん僕には縁のない世界だ。
きっとゆあさんも、そう思っていただろう。
「ほんとはさ、私の宿題の答えなんて見つからなくても、死にたければ死んじゃっていいと思ってる」
ゆあさんに言われて宿題のことを今更のように思い出したけれど、このときはもうどうでもよくなっていた。
「だけどさ、こんなふうに花火を見れるのも、この世界に爪跡を残せるのも、生きてこそなんだよ。──だからカケルくんにも、何か爪跡を残してほしい」
そう言ってゆあさんは、また紙飛行機を飛ばした。
「小さくてもいい。誰か一人のためでもいい。いつか誰かが、カケルくんがいてよかったって、言ってくれるように」
僕は黙ってその言葉を聞いていた。
花火が終わった。祭囃子もいつの間にか止み、街の明かりも消えていった。
街が静まり返っていく。これからあの街は、急速に現実に戻っていくのだろう。
そういえば、家の近所の商店街でも、小ぢんまりとした夏祭りを毎年やっている。
一緒に回る友達もおらず、屋台も何一つ楽しめなかった僕にとって、最も自分に寄り添ってくれたのは、祭りが終わったあとの空気だったように思う。
明かりが消え、人が去り、喧噪が静まっていく。そんな場所に残り、少し涼しくなった風を感じながら、何の変哲もない風景ができていくのを眺める。僕にとって唯一ともいえる、夏祭りの思い出だった。
何も持たない僕のことを、この時間だけは肯定してくれているような気がした。
そして僕は、今日のことを思い返していた。
無意味だったといえば無意味だった。だけど何もなかったというには、あまりにも不可思議な一日だった。
この夜、僕はなぜか、ゆあさんのそばを離れることができなかった。
僕とゆあさんは、ベンチで身を寄せ合いながら眠った。
■ シーンJ-01 展望台
何時間眠っていたのだろう。日はすでに高く昇っていた。
人生最後の日にならなかったな、なんて思ったのも束の間、僕は思わぬ事態に狼狽した。
──ゆあさんの姿が消えていたのだ。
あたりを見回していると、一人の男性がお地蔵様のところにやってきた。
「君も花を添えに来たのかい?」
「花、ですか?」
「実は一昨日、ここから高校生の女の子が飛び降りたんだ。早い話が、自殺だよ」
高校生の女の子、と聞いて、僕の胸に一抹の不安がよぎった。
「すぐ見つかって病院に運ばれたんだけど、意識不明の重体だった。そしてそのまま丸一日経って、昨日の夜、息を引き取ったんだよ」
──まさか、と思った。
どうして気にしなかったのだろう。なぜゆあさんはここにいたのか。
「名前を訊いてもいいですか?」
──聞きたくなかったけれど、訊かなければいけないと思った。
どうして本人に訊かなかったのだろう。ゆあさんはここで何をしようとしていたのか。
「名前かい? ──夏原ゆあちゃんっていう子だよ」
気がつくと、僕は涙を流していた。
こんなふうに誰かを思って泣いたことなんて、初めてだった。
僕はベンチに歩み寄ると、そこに残されていた折り紙を一枚手に取って、震える手でメッセージを書いた。
折り紙を紙飛行機の形に折り、お地蔵様のもとにそっと添えた。
──ゆあさんは最初から、自分が死ぬことをわかっていたのかもしれない。
意識不明の重体に陥って、余命が一日しかなかったことを。
ゆあさんは人生最後の思い出として、この場所に、この街にいることを選んだのかもしれない。
あるいは昨日ここに佇んでいたゆあさんは、遊園地が見せた最後の思い出だったのか。
とにかく、飛び降りてから意識を失うまでの間に、ゆあさんはおそらく死んだことを後悔したんだ。だから人生最後の一日に、あの人なりのやり方で自身の想いを残そうとした。
そして思いがけず紙飛行機を拾った僕に、爪跡を残すことを託したのだ。
そう考えたら、すべての辻褄が合う気がした。
■ シーンK-01 線路沿いの道
帰りの電車賃は残っていなかった。もちろん、このあたりにはATMなどもない。僕は歩いて地元の街まで帰ることになった。
この街には、たった一日分の思い出しかない。
だけどこの日のことは、ずっと僕の中に残るだろう。
夏空の下、そんな思い出を噛み締めながら膨大な時間をドブに捨て歩くのも、なんだか悪くない気がした。
■ シーンL-01 十年後、とある駅
あれから十年が経った。
──相変わらず、世界は僕に優しくない。
会社では上司に叱られ、残業や休日出勤も当たり前の毎日だ。
死にたいと思うこともある。このまま線路に飛び込んでしまえば、楽に死ねるだろう。
だけど僕はそれをしなかった。
あの人から与えられた宿題の答えを、僕は今も探している。
あの日出された宿題に、僕は皮肉にも生かされている。
死ぬのにわざわざ理由なんて必要ないさ、とは今でも思う。
だけど死なない理由が見つかってしまった今、それを覆せる程度の理由がないと、自分から死んでしまうのは忍びない。
遠くで花火が上がった。
あの日、人生最後になるだろうと思って見ていた花火を、あろうことか僕は今日も眺めている。
人生であと何度、僕は花火を見るだろう。
花火だけじゃない。春の桜を、秋の紅葉を、冬の雪を、僕は人生であと何度見ることになるのだろう。
そして、僕が本当の意味で最後に見る景色はどんなだろう。最後に会う人は誰だろう。そのとき僕は何を感じるだろう。
そのときまでに、僕はこの世界に爪跡を残せるだろうか。
いや、いつかきっと残すんだ。
生きる理由はなくても、死なない理由としてはそれくらいあれば十分だ。
──あの日死にたいと思った、僕の人生はまだ死んでいない。
■ エピローグ
二カ月ぶりにとれた半休を利用して、僕はあの遊園地を訪れていた。
駅こそ存在してはいたけれど、風景はさらに色褪せているように見えた。遊園地も、十年前よりさらに廃れている気がした。
「手紙ほど素晴らしい伝達手段はないと思う」と、いつかあの人は言っていた。
今ならその言葉の意味が、なんとなくわかる気がした。
あの人はもういないし、あの人のことを覚えている人も、もうほとんどいないだろう。
だけどあの人の手紙は、今でも僕の手元に残っている。
あの人はたしかにそこにいた。花火のような短い煌めきだったけれど、あの人の笑顔は、想いは、たしかにそこにあった。
ここに来れば、またあの人に会える気さえする。
僕は紙飛行機を折った。もちろん、折る前にメッセージを書いて。
それをお地蔵様に添えようと思ったけれど、やめておいた。
──きっとあの人だったら、こうするだろうな。
紙飛行機を、空に飛ばした。
風に乗ってふわりと舞い上がり、けれどどこへ行くでもなく、力なく緑の中に落ちた。
こんなもの、ほとんどの人にとってはガラクタだろう。
だけど僕にとって──そしておそらくあの人にとっても──これは手紙という名の宝物だ。
想いを乗せるのに、紙飛行機ほど素晴らしい乗り物はないな、と思った。
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(元記事:https://braincruise.net/blog/product/illustration/2406)
『紙飛行機の面影』より改題