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教育とは? ~果たしてその子どもはハズレくじなのでしょうか?~

こんにちは!スクールコーチのケンさんです。

本日も「指導」「支援」について話を続けます。教育実践現場で「指導」を中心として「教える」「教育する」とは、どういうことなのでしょうか?

前回お話したA君を含め多くの・様々な発達障害と呼ばれる子どもたちと関わるうちに私は、それを子どもから教えられることになりました。思い起こせば、現場で子どもから教えられる体験は何度かあったのです。

本日は、この認識が深まった体験についてお話したいと思います。というのは、後でお話する「支援とコーチング」との関係についても、同じように現場で子どもから教えられることによって、徐々に認識が深まっていくからです。


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子どもをハズレくじ扱いする発言に驚く

私は初任からいきなり6年間は障害児学級 (2006年以降『特別支援学級』と名称変更、以下同じ) の担任をすることになり、一筋縄ではいかない子どもたちと悪戦苦闘の日々を過ごしました。

その後7年目に転勤になり、普通学級の担任になりました。幅広く色々なタイプの子どもの教育に関わりたかったのです。そして、転勤してすぐのある日、私は衝撃的な言葉を職員室で耳にすることになったのです。

「あーなんておばかちゃんなのかしらー、こまったちゃんてどこにもいるわねー。何度言ってもわからない。」

おそらく職員室に響いたこの言葉に衝撃を受けたのは私だけであったと思います。というのは、そのころは、「あの子はアタマがいい、あの子は運動神経が悪い、あの子は落ち着きがない・・・あーハズレくじを引いてしまった」というような言葉が普通にとびかってたのです。学級経営がうまくいくか否か、授業がスムーズにいくか否かはみな「子どもしだい」という感じでした。


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普通学級への転勤では子どもたちの能力が際立って見えた

私は障害児学級からの転勤でしたので、はじめて受け持った子どもたちの能力の凄さに感嘆しきりでした。一人で登校する、自分で着替える、自分で給食を食べる、自分でトイレに行ける、言葉が通じる、数が数えられる、足し算ができる、教科書が読める、指示で動く、冗談を言うと笑う・・・・等々なにもかもが素晴らしい能力、「天才か!」の連続でした。

手取り足取りしなくても、黒板に向かって板書して少し工夫して説明さえすれば大体のことは子どもたちに伝わり、教科書を進めることができるということ、それがどんなに凄いことなのか、を実感していました。

多少理解が遅れている子どもがいても、丁寧に工夫して説明し、じっくり待っていると結果が着実に出てきますので、その変化・伸びに、「凄いねー」の連続でした。また、計算や漢字を間違える、という現象がこれまたとてつもなくすごい能力に思えました。「何かに取り組み間違える」ということは、すごい頭脳活動をしている証拠にしか見えませんでした。


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普通学級と障害児学級での違い ~掃除の時間の例~

障害児学級では、子どもたちが自分から学習する、ということはまったく期待できませんでした。ですから、一つ一つ「どうやって接したら・どういう言葉で伝えたら、どういう教材を用意したら、つまりどう指導したらいいのか」をつねに考え、結果を予想し、だめなら手を変え・・の連続でした。

例えば、子どもたちに掃除をさせるのに、普通学級では、掃除箇所を配分して、道具を渡せば、とりあえず掃除をはじめます。でも障害児学級では、まったく異なります。

そんなこんだで悩んでいたときの話ですが、私はあるとき気づいたことがありました。それは、掃除には「ゴミ」が必要だということです。当たり前かも知れませんが、実はそうではないのです。

普通学級の子どもたちは、対象とするゴミがなくても箒で掃く・集める、という動作をしているのです。掃く・集める、という動作をするうちにゴミが集まってきて、それが「見える」ようになって、それからそれを塵取りですくい取る、という次の動作に移行するのですね。

つまり、普通学級の子どもたちは、過去の体験からそこに目に見えないゴミがあり、それは集めるうちにしだいによく見え、そして「あーこんなに汚れていたのかー」となるのです。おそらく私たちの日常でも同じかもしれません。

ところが障害児学級の子どもたちは、何らかの障害故に、そういう体験的認識も身体的運動能力も育っていません。なので私は、あるときから、掃除をはじめる前にわざとゴミを「見える化」する、つまり、わざと大きめのゴミをちらかしてから、掃除をさせるということを実験的にやってみました。

するとその見える化してあるゴミに箒の先を持っていき、なんとか「掃く」という動作を、担任の動作の真似をしながら行いはじめるのです。実際にきれいにするかどうかは問題ではなく、そういう動きをするかどうかが評価の分かれ目です。

すなわち、障害児学級では、なにもかもが意識的に・実験的に・予想しながら働きかける(教える・指導する)が常態でしたので、こどもたちの活動に進展が見られなければ、それは「こちら側の問題」でしかありませんでした。つまり、子どもたちは「指導しなければまったく動かない」のです。それが当たり前なのです。子どもたちはそのままではできないことがたくさんある、というのは大前提でした。ですから「できるかできないか」は関わるこちら側(教師)の問題でしかない、という認識だったのです。

私はそんな認識でしたので、「あーなんておばかちゃんなのかしらー、こまったちゃんてどこにもいるわねー。何度言ってもわからない。」という言葉を聞いたときに、その言葉が次のように反映したのです。

「あー私の教える能力(指導能力)はまったくだめだわー」・・・。


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「教育」とはスキルをもった上で子どもたちに働きかけること

そして、「教える・指導する・教育する」ということの意味をこどもたちから教えられることになったのです。それはすなわち「教える」とは、「教える力」で子どもたちに働きかけること、「指導する」は「指導する力」でこどもたちに働きかけること、「教育する」も「教育する力」で子どもたちに働きかけることであったのです。つまり、そういう「力」があって「教えること、指導すること、教育する」ことができると。

ですので、ただ教壇に立って、指導書にしたがって、身振り手振りで話し、板書し、説明し、その時々の気分でしかったりほめたり・・・は「教える・指導する・教育する」の「形」でしかない、と教えられたのでした。

本当に、これは現場で子どもからでないと学べないものだ、と今でも思っています。ですので何回も繰り返して言いたいのですが、たまたま障害を持っている子どもとの格闘があったから「指導する・教える・教育する」の意味、つまり「こちら側=教師」の問題として受け取ることができたのだと思います。

これは他の分野でも同じことが起きていると思います。「できる人ではなくできない人を対象にする」「強い人ではなく弱い人を対象にする」「エリートではなく凡人を対象にする」等々、その分野での「マイナー」な人たちを対象とせざるを得なかった指導的立場の人たちは、「指導する・教える・教育する」ということの意味を突きつけられたにちがいないと。

次回はこれを強く実感した体験をご紹介しようと思います。本日もお読みいただき、ありがとうございました!

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