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祖父が亡くなり、2月が終わった*祖父母のお世話生活の節目

ご無沙汰しております。

実は年末に祖父が誤嚥性肺炎で入院し、バタバタバタバタと、2ヶ月が過ぎ去っていきました。

タイトルにある通り、
祖父は2024年2月20日(享年90歳)に永眠しました。

この記事を執筆している現在(2024/03/06)、とても、辛いです。
自分のなかの辛い気持ちを言語化するためにも、
ここでは祖父が亡くなった経緯と、私の思いを書きたいと思います。

長くなるので目次をつけました。
かなりつらつら書いてます。いつも以上にまとまりのない文章です。


誤嚥性肺炎による入院の経緯


ちょっと前までだいぶ威勢の良かった祖父ですが(これまでの記事をご参照ください)、
昨年の12月に入ったくらいから、いきなり食が細くなったんですよね。
これまでも味覚障害のせいで、あれも気に入らない、これも気に入らない、と言ってあんまり食べないことがあったのですが、それでもレトルトのお粥や袋麺を自分で用意して食べていましたし、気分が乗った時には、豚汁とか、鰤の照り焼きとかの料理も作ってくれていました。

でも、12月中旬くらいからは、食事を摂らずにお菓子をちょっぴり食べては寝る、みたいなことが多くなりました。
そして、これまでは朝起きたら普段着に着替えていたのに、ずっとパジャマで過ごすようになりました。
思えばだんだん、弱りはじめていたのかもしれませんね。
その頃は「今調子が悪いだけでまた戻るだろう」としか思っていなかったけれど。

ちょうどそれくらいに、私が8日間くらい家を空ける期間があり、祖母はショートステイに、祖父は一人で家にいたことがありました。

もちろん祖父にもショートステイを勧めましたが、断固拒否だったので(なんなら祖母のショートステイも取りやめにしようとしていた)、
結局ヘルパーさんに毎日入っていただき、訪問看護も回数を増やしていただき、見守りをお願いしました。
その時、祖父は一人で置いていかれた!と、ものすごく不満だったらしく、家族みんなに大量の着信がありました。
これをきっかけにだいぶ弱気になってしまっていたのかもしれません。

12月29日に父が帰省してきたとき、
祖父の調子がだいぶ悪くなっているところを見て、病院に連れて行こうとしましたが、祖父は嫌がりました。
病院に行くのは好きなのですが、また入院させられる!と思うと嫌だったんだと思います。

12月31日のお昼頃、やっぱり祖父の様子がおかしい(自力で歩行できない)ので、熱を測ってみると、なんと39度の熱がありました。
すぐに登録している訪問看護の緊急電話に電話して、来ていただいて(年末に本当に申し訳なかったです)、そのまま救急搬送していただきました。
受け入れ先が祖父の好きな病院だったので、やっっっと、納得してくれたのでした。

そこから入院が始まり、ついた診断名が誤嚥性肺炎でした。

入院中の変化


入院して1週間くらいは、おとなしく治療を受けていました。
でも、半月くらい経って、誤嚥性肺炎の炎症が落ち着き始めた頃、「今すぐ退院する」と言って家族に電話をかけまくるようになりました。

これまでも、入院してしばらく経つと「今すぐ家に帰る」と言って家族に圧をかけていた祖父ですが、今回は決定的な変化がありました。
病院から、祖父が食事をとることを拒否して、排泄もオムツに頼るようになってきている、という報告があったのです。

あれだけ自力でトイレに行くことにこだわっていた祖父が、主にオムツで排泄するようになった、と聞いた時は衝撃を受けました(パンツ事件に関してはここにも書かせていただいてます↓↓)。

https://note.com/jrplyyi/n/ncac1ac8db4c0?sub_rt=share_b

そして同時に、頻繁なオムツ交換が必要な状態では、家で受け入れるのは相当難しい状況でした(大人しくオムツ交換の時間を待ってくれるようなタイプではないので・・・)。

お見舞いに行った時に、
家に帰るには自分で食べて、自力でトイレに行けるような状態にならないとだよ、頑張って!と説得することを試みましたが、
病院の食事はとりたくない、家に帰りたい、家に帰ったらトイレも自分で行く、の一点張りでした。

ソーシャルワーカーの方からもリハビリを勧めてもらいましたが、それも断固拒否。

なんせ頭がしっかりしてる分、自分で判断して、なんとかして主張を通そうとするから(大声を出すとか、怒るとか、脅すとか、泣きまねをするとか)、それにもだいぶ、まいらされました。

その頃、おじいちゃんは妖怪になってしまったんだ、と、なんとか一人で納得しようとしていました。

祖父の退院に向けての動き

1月中旬の時点で、病院側からは、
誤嚥性肺炎は寛解したので、今だったら退院してなんとか家でリハビリすれば、もしかしたら回復するかもしれないが、
もしこのまま入院し続けたら身体が弱り続けて元の状態に戻るには相当厳しくなるだろう、との説明を受けていました。
ただ、もし今退院するなら、家族が24時間体制の介護をすることが前提、とも言われました。

祖父は家に帰りたがっていて、病院側も退院の許可を出している。
でも、私を含めた家族は、祖父が家に帰ることは難しいという判断、選択をしました

祖母は身体が不自由なので、私が日常的な家事のほぼ全てを担っており(祖母は自力でトイレに行く、とか、箸を持って食べる、とか、自分の身の回りのことはできます)、
日中は家を空けることもよくあるという状況で、
たとえ祖父の排泄介助などでヘルパーさんに入っていただいたとしても、
祖母も私も、あの状態の祖父(ナースコールを1日100回鳴らしていたそうです)のお世話をすることは、できませんでした。

何回過去に戻ったとしても、多分、あの状況において祖父を受け入れることは、到底できなかっただろうな、と思いつつ、
退院したがっていた祖父を、家に帰らせてあげなかった、帰らせてあげられなかった、
という後悔は、じんわりと、身体の奥深くに、染み込んでいます

この頃、祖父の妖怪電話攻撃により、
私の父(祖父の実子)が根を上げて、祖父にまつわる連絡のほぼ全てが私に集中するようになりました。
実質孫である私に決定権があるような状況で、正直それがとても辛かったです。

そして、病院側やケアマネージャーさんに相談に乗ってもらって、色々と考えた結果、
退院して、自宅の近所(歩いても10分少々のところ)の介護付き有料老人ホームに入居してもらうのが一番なんじゃないか?という話になりました。

ただ、祖父がもう少し元気な頃は「俺は死んでも施設には行かん!」と言っていたくらいだったので、説得はかなり難航しそうでした。

祖父の説得に向かったのも、もちろん私でした。
この時点で、1月後半。

祖父には、1日だけ家に帰ってきて、その翌日からは施設に移る、という形でも良ければ、退院できるように手続きするよ、と伝えました。
すると、祖父はわかった、と意外にもすんなりと、納得してくれました。

それから1週間ほどで、施設の方に実態調査に来ていただき、
ケアマネさんとヘルパーステーションさんに協力していただいて、退院の支度、帰宅時の支援体制、施設の入居準備を整えていただきました。

施設の方からは、祖父がこのまま点滴もせず、食事を拒否するのであれば、もう看取りの段階になってしまう、と告げられました。
でも、祖父はなにより病院で過ごすことを嫌がっていたし、点滴も胃ろうもしたくない、とはっきり述べていました。

だからこそ、私は祖父の退院と施設入居の手続きを進めていたのですが、
ここに来て、私の父によるストップがかかりました。
父にとっては、口から食べなかったら死んでしまう、というのがどうしても受け入れられないようでした。
結局、父は祖父と面会した上で、納得して帰っていきましたが、このやりとりでだいぶ削られました。

祖父の退院と私の体調不良


祖父の退院日が決まり、その後の施設入居の目処も立ってきた1月終わり頃、
私が体調を崩してしまいました。身体がだるく、喉が軽く痛みました。

最初はただの風邪かな、と思ったのですが、日に日に喉の調子が悪化して、祖父の退院の日にはほとんど声が出なくなってしまいました
耳鼻科に通って、抗生物質等を処方していただきましたが、その後1週間以上声が出ない日が続きました(喉の腫れがひどすぎたため、耳鼻科で点滴もしてもらいました。インフルやコロナではなさそうとの見立てでした)。

祖父の退院に際しては、関東に住む伯母(私の父の姉)がこちらに来てくれて、付き添ってくれることになっていましたので、本当に助かりました。
伯母がいなければ、祖父の退院も難しかったように思います。

祖父が退院して、1日家で過ごした次の日、祖父は近所の施設に入居しました。
施設は自立型のところなので、施設側の支援はおむつ交換と、個室への食事のお届け(後は週2回の清拭)くらいが限界、とのことでした。

施設に入居してからも、祖父は相変わらずほとんど食事は摂らず、でしたが、
退院する前と比べたら格段に気力が出てきたように見えました。点滴で繋がれていたことが、だいぶ苦痛だったんだと思います。

ただ、病院での100回ナースコールの経緯により、施設ではコールボタンが外されていたので(施設側から説明を受けた上で、家族も了承していました)、
祖父のなかでは、自力では出られない施設に閉じ込められて、誰かを呼ぼうとしても好きな時に呼べず、寂しい思いをさせられてる、という不満が募っていき、スマホから家族への数えきれないほどの着信がありました。

私にも着信がありましたが、声が出ないので話すこともできず、施設に直接行って祖父と筆談で話をすることを試みました。
筆談で、「このまま食べなければ死ぬけれど、それでいいの?それか点滴とか胃ろうができるところに行く?」と書くと、祖父は点滴も胃ろうも嫌だ、「静かに死にたい」と言いました。
そして、「ここには居たくない、家に帰りたい」と私に伝えました。

私は「わかった」と言って帰り、祖父の今後について家族に相談しました。
その結果、祖父の看取りの段階になった際に、私の父が帰省できる場合には、祖父を引き取って家で看取る、という結論に至りました。
これが、2月7日の話です。この段階では、祖父がこんなに早く逝くなんて、家族も、(多分祖父自身も)思ってなかったんですよね。

祖父の回復


2月の最初の連休に、
祖父に会うために、北海道から、四国から、関東から、従兄弟たちが集結してくれました。

それぞれに家庭や仕事があるなかで、なんとか都合をつけて会いにきてくれたことは、私にとっても嬉しかったです。
そして祖父もこれをきっかけになんだか元気づけられたようで、それ以降「アイスクリームが食べたい」と言うようになりました。

それからは、祖父にアイスクリームを買って持って行っては食べさせる、という日々が始まりました(特にハーゲンダッツのいちごアイスクリームがお気に入りでした)。
何よりも祖父が美味しそうに食べてくれることが嬉しくて、毎日施設に通ってアイスを口に運びました(私が行けない日には母にもお願いしました)。
そして外部のヘルパーさんに有償で支援に入っていただき、家族ではできないようなケアもしていただきました(とても心を込めて接してくださって、本当に本当に感謝しております)。

この時に、祖父と接したことの記憶が、強く私のなかで生きていて、それが不意に思い出されて、祖父のことをとんでもなく恋しく思うことがあります。
たった8日間のことでしたが、この時の祖父との関わりが、私の内に祖父との思い出を不可逆的に刻み込みました。
そしてこの時の祖父とのつながりがあったからこそ、祖父が亡き今、後悔したり、悲しんだり、祖父を恋しく思ったりする私の気持ちは、家族の誰にも共有され得ないものとして存在しているのだと思います。

そして、死

祖父が水も飲めなくなってきた、という連絡が入ったのは、2月19日のことでした。

その前日には、祖父がふいに食べたいと言い出した「鰤の照り焼き(祖父の得意料理の一つで、本当によく作ってくれました)」を、私が作って持っていきました。
祖父のように上手く作ることはできなかったけれど、細かくして口に運ぶと、すこーしだけ、味わって食べてくれました。
「鰤の照り焼きが食べたいなんていうくらいやから、これからどんどん回復してくるかもしれんなあ」なんて母と話していた矢先のことでした。

2月19日に施設に駆けつけて、嚥下が難しくなった祖父を見て、家族に「覚悟せなあかんな」と伝えつつも、なぜかまだ、祖父がそんなにすぐには亡くならないろうという気持ちがありました。
だからこそ、祖父を家に連れて帰る、と決めるのに時間がかかってしまった。
これが、私が最も後悔している点です。

2月20日は、大学に行く用事があったので(大した用事でもなかったのに)、朝家を出て、電車で京都に向かいました。
道中、祖父のことを考えていて、やっぱり最期は家で看取りたい、と強く思い、家族の同意も得られないままに、
私の独断でケアマネさん、施設、ヘルパーさん、病院、そして介護タクシーに連絡して、祖父の帰宅の手配をしました。

大学の帰り、19時過ぎに施設に寄って、祖父のもとに行くと、
もう何も食べられない、飲めない、という状況で、手先も紫色になっていましたが、話はできる状況でした。

施設の居室に入って第一声、「おじいちゃん、明日家に帰れるよ、私連れにくるからなあ、まっとってや〜」と言うと、祖父は首をブンブン横に振りました。
「え〜!?帰りたくないの!?そうか。もう、えらいか〜」(えらい、とは辛いとかしんどいとかいう意味)と言うと、静かに首を縦に振りました。

その後やり取りを繰り返しているうちに、家に帰ることには同意してくれました。
そして、「私のこと誰かわかる?」と聞くと、祖父は、もうほとんど発声できないにも関わらず、私の目を見て、声を振り絞って、私の名前を呼んでくれました
多分これが、祖父が最後に発した言葉だと思います。

20時前になって、
「じゃあ帰るわな〜、今日死なんとってや〜!明日まで待っとってなあ!」と明るく言って帰宅して、祖母に祖父が帰ってくることを告げ、
祖父の部屋を整え、そして母と電話で話していた22時過ぎに、
施設から電話があり、祖父が息をしていないと告げられました。

その時私は結構冷静で、ちゃんと服を着替えて、もう寝支度を済ませていた祖母に事情を説明して、コートを着て、財布もスマホもちゃんと持って、車に乗って、施設に行きました。

祖父はまだあったかくて、顔もすごく穏やかで、脈を確認したらまだ脈打ってる気がして、なんか普通に話しかけてしまいました。
でも目を触るともう硬直が始まっているのがわかって、ああ、亡くなってるんだなあ、と思って、泣きじゃくりました。

私から連絡を受けてケアマネさんが飛んできてくださって(深夜なのに、遠いのに・・・)、葬儀屋さんに電話をして、家に連れて帰ってもらう手筈を整えて・・・医師の死亡診断があって・・・そして祖父と一緒に、家に帰りました。
葬儀屋さんが来る1時間半くらい、ケアマネさんがずっと私に付き添ってくださって、いろんな話をして気を紛らわせてくれたことが、本当に本当にあたたかかったです。

祖父を家に連れて帰ってきて、家族が明け方に家に着くまで、祖父と一緒になんだかぼーっとして過ごしてました。
そして朝になったら、葬儀の準備、祖父の友人関係への連絡、お寺さんへの連絡(うちは浄土真宗なんだとその時初めて知りました)、親戚の宿泊手配など、やることがわんさかあって、本当にてんてこ舞いでした。
印象に残っているのは、母の実家(車で40分くらい)から母方祖父母と叔母、そしてご近所さんが弔問に来てくれたこと。祖父の枕元で話をしました。

明くる日がお通夜で、そしてその次の日が告別式でした。
火葬をして、祖父を送り出しました。

今になって思うこと

祖父が亡くなってすぐに、伯母(祖父の実子、私の父の姉)から、「後悔のない介護はないんだよ」と言われ、その通りだと思いましたが、
それでも私はただただ、後悔し続けています。

一番大きな後悔は、上にも書きましたが、祖父を家で看取ることができなかったということ
実際その時私の体調も悪く、かつ祖母も体調を崩していたので、連れて帰ってくることはかなり厳しい状況でした。
それでもやっぱり、もっと早く決断したらよかった。おじいちゃん、ごめんなあ。

他にも、私が一番近くにいたからこそ、
やるという選択肢があったのに、できたのに、やらなかったこと」が次々と頭に浮かんできて、とても辛いです。
あの時野菜炒め作ってあげればよかった、とか、簡単スマホにすることを勧めてあげればよかった、とか、焼肉の準備くらいやってあげればよかった、とか。
このことは、遠方に住んでいた家族には絶対に共有されない感覚だと思います(なぜなら彼らにはやるという選択肢がなかったから)。

破茶滅茶なおじいちゃんで、だいぶ困らせられたし、怒りもだいぶ沸いたけれど、今はただただ、寂しいです。
無理に日常に戻ったり、元気出そうとしたりすることは、余計に辛いことだということがわかったので、
ここにこのように吐き出させていただきました。

読むに耐えないような長文となってしまいました。
もしお目通しいただいた方がいらっしゃれば、感謝申し上げます。

今回、お通夜と告別式で喪主の父に続いて、「親戚代表」という名を仰せつかって私も挨拶したのですが、その時に祖父が亡くなった経緯を話しました。
このことは、私のパキスタンでの経験が強く生きているように思います。それについてもおいおい、記してみたいと思います。

それにしても冒頭の写真は、保育園児の私が祖父と手を繋いでいる写真なのですが、祖父が右手にタバコを持っているあたりが時代を感じさせますよね。
今ではなかなかあり得なさそうな・・・



まだ元気な頃の祖父を添えて






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