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第六回 『落語』

京都芸術大学 2023年度 公開連続講座


第六回 「落語」


第六回、「落語」。講師の桂吉坊さんは落語が始まる時と同様、お囃子と共に舞台に登場し、高座にあがられました。

この日、落語の演目が演じられることはありませんでした。が、吉坊さんが高座でお話をされる様子は落語そのもので、会場には始終笑いが絶えず、たのしい講義でした。
落語が仏教のお説教に影響を受けているということや、落語を聞くお客さんの様々な反応のことなど、色々面白いお話をしてくださりました。どのお話も私たちに難しさを感じさせることなく、トントンと弾みよく進められました。

吉坊さんは、「落語はお客さんの手を引いて行ける」ということをおっしゃいます。
落語はまず、「落語家自身」が登場して演目の枕話をなさいます。そして、噺が始まれば、お客さんの様子を見ながら「登場人物」の台詞を少し加えたり、変化させたりとその場でいろいろな工夫ができます。
伝統芸能、特に能や狂言、文楽などを鑑賞するとき、解説や詞章がなければ登場人物が何を言っているのか、物語がどのように展開されているのか分からないことがしばしばあります。けれども、落語はたとえ演目の舞台が江戸時代でも、会話に用いられる言葉や、物語の展開を難しく感じることなく、観客はひろく楽しむことができます。

四代目、桂米團治師匠は「ト書が一つもない落語が理想」とおっしゃったそうです。
ト書とは「〜と言いました。」などの、物語の書き手(落語家)が登場人物について、あるいは話の展開に説明を加えるものです。確かに、枕が終わり、物語が始まると落語家自身はほとんど登場することがありません。説明書きを減らすため、登場人物の台詞には、その場の様子を伝えるための言葉が盛り込まれています。

説明書きが少ないということは、落語の道具にも共通しています。落語で使われる道具には、扇子と手ぬぐいがありますが、これが物語の中では、お箸やお酒、筆、手紙、タバコ、刀など、あらゆるものを表現します。
道具のことは日本舞踊にも通じると思いました。扇子でお酌をしたり、扇子に手紙を書いたり、扇子で小舟を漕いだり、踊りでも扇子を何かに見立てることが多くあります。
私が通っている踊りのお稽古場にも落語家の方がいらっしゃり、以前、先生と稽古場の一門でその落語家さんの落語会に行ったこともありました。

高座の上で演じられる庶民の様子は、思いがけず自分の生活の中にもある一場面と重なることがあります。落語では恋のかなしみや、戦に敗れたつらさはほとんど描かれていないものの、どうしようもない人々や、この世の中のよくある様子が面白おかしく描き出されており、ありふれた日常がどこか和やかに、愛おしく感じられます。
町屋の前をぶらぶらと歩いてきた途中で舞台に上がったような、着流し姿の落語家さんが、庶民の日常を一つの芸にしてしまうところに江戸文化の「粋」さえ感じられました。

江戸の頃から現代までの三百余年、人々の着るものや生活の様子が変わっても、なお、客席に笑いを起こすところに、落語が伝統芸能と呼ばれる所以があるのだと思います。


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